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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

全盛期のロベルト・バッジョの姿から

2019-11-22 00:23:21 | 日記
 全盛期のロベルト・バッジョは、マドンナがほれ込むほどの美しいプレイぶりで有名でした。

 サポートするディアドラも鼻が高い気分だったでしょうね。

 当時のイタリアはディアドラがスポンサーであり、バッジョ自身もディアドラの契約選手でしたから、代表の背番号10は全身がディアドラだったというわけです。

 バッジョほど美しい男性ならば、女性ファンが群がったに違いないのですが、彼は幼少期から共に過ごしてきたアンドレイナさんと結婚し、一向に女性問題が浮上しませんでした。

 ニコロ・マキャベリが専制君主が破滅する要因として女性の存在を、アリストテレスが述べていると「政略論」の中で語っているようですが、バッジョは少なくとも、この点でも実に優等生でした。

 これは推測にすぎませんが、バッジョも言い寄ってくる女性にふらついたことはあったと思います。

 それは理性で抑えたというよりも

 妻以外の女性の時間を割くことはそれこそ無駄
 何より、イタリア代表の背番号10が、女性問題で揺れたならば、代表そのものの信任に関わる
 自分が手本になれば、夫が妻へ暴言を吐くことも、女性問題で困らすことも減るだろう

 という、ある種の自己責任の形ではなかったか。

 と思います。

 大リーグにウエイド・ボックスという、殿堂入りした名手がいます。

 彼もまた心底真面目な選手として有名でしたが、女性問題で過ちを犯してしまい、大きな糾弾を浴びたことがあったはずです。

 これがちゃらんぽらんな選手だったならば

 「彼らしいな」

 と思うことが多いのでしょう。

 しかし名手であり屋台骨を背負う選手が行うと、ファンは烈火のごとく怒るという存在であることも、どこか不可思議な気はしますが。
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