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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

長野市、それは僕にとって色濃い街

2018-09-26 00:07:41 | 日記
 池波正太郎先生は「銀座日記」という文庫本を刊行するほど、銀座に精通しておられました。

 では僕にとっての銀座はどこになるのか、と言えばやはり長野市になります。

 新幹線で東京まで出かけた方が良い
 軽井沢のアウトレット、いいよね

 という声も聴きます。

 でも、僕にとってなじみのある「都会」は、やはり長野市しかありませんし、それは学生時代の影響が色濃いと言えます。

 当時はインターネット通販などありませんから、自分の購入したいものを店頭で品定めして、予算の範囲内で買うことが当たり前でした。

 もう店舗はありませんが、ジーパン屋のオクトパス・アーミーを覗き、長野市屈指の品揃えだった、シューズ・コレクションなど当時はお金がないのに、貪欲にウインドウ・ショッピングと店内に入る勇気があったものです。

 大学から帰省中、たまたまシューズ・コレクションに立ち寄ると、店舗閉店セール中でオーナーが僕の顔を覚えていて声をかけてくれるほど、足しげく通ったものです。

 プーマの名品「スエード」は、クライド名義では発売していた時期がありましてね。

 クライドの限定品エナメル・クライドを僕はシューズ・コレクションで買ったのですよ。

 当時シピーに代表されるエナメル・スニーカーの需要があり、実はキングの布陣である設楽りさ子さんから

 「プーマはエナメル・スニーカーを作らないの」

 という一言から、企画、生産が行われたと言われています。

 今でもキングはプーマ契約選手の第一人者ですし、当時も様々な開発秘話があったでしょうね。

 またパトリックの蛇革モチーフの限定品「セルベンテ」も買わせていただきました。

 当時はパトリックがサッカーと深い関係にあるという認識はありませんでしたが、雑誌ブーンで特集されていたことで興味を覚えたんです。

 こうした過去の実体験が色濃いわけですが、軽井沢や松本、上田よりも強い感情移入があるからこそ、長野パルセイロにも関心を抱いた、という側面に繋がります。
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