心は折れないってわかった気はするんだけど、でも、人間ってそんなに強い存在じゃないよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『未来の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
幸福の科学では、「すべての人に仏性あり」と教えています。また、「人間は仏の子である」とも教えています。この、「人間は仏の子であり、仏性を持った存在である」という教えは、どういうことなのでしょうか。
禅宗のなかには、「坐禅をすれば仏になれる」という教えもありますが、それは、やや詐欺に近い考え方です。「坐っていれば、その身そのままで仏になれる」と考えるのは、いくら何でも甘すぎます。「仏の坐る格好をまねるだけで自分も仏になれる」という教えは、やや度が過ぎています。それは、ある意味での唯物論です。
修行というものは、内容を伴わなければ、もちろん駄目なのですが、少なくとも、当会では、「人間には、仏と同じような性質を持つことが許されているのだ」ということを教えているのです。
すなわち、「仏と同じようなことを考え、仏と同じようなことをする習慣を身につけ、努力していけば、仏のようになれる」という可能性が万人に開かれているのです。これが、「人間には仏性がある」ということの意味であり、また、「磨けば光が出る」ということでもあります。
人間は、本来、「等しく尊い性質」を持っているのです。人間の違いとは、磨き方の差によって光の出方が違っているだけのことです。あるいは、磨き具合にムラがあったり、表面に汚れがあったりするだけのことです。きちんと磨いていけば、仏と同じような光が出てくる可能性はあるのです。
もちろん、出てくる光は、その人の魂の傾向によって違うかもしれません。宝石の色が違うように、黄色い光もあれば、白い光もあり、赤い光や緑の光もあります。
また、光の“かたち”は、その人の持っているものによって違うかもしれません。例えば、教育者の光り方と芸術家の光り方は違うかもしれませんし、政治家の光り方も違うかもしれません。商売で成功する人の光り方も違うかもしれません。
その光り方は違うかもしれませんが、「誰もが、磨けば光る珠になる素質を持っている」という教えが、仏性の理論なのです。
そのような観点から見ると、やはり、「『心が折れた』といった表現を使う人は、自分自身を、あまりにも“か弱い存在”として捉えており、他者から同情を引くような状況にある」と言わざるをえません。
そういう人に対しては、「人間の本質は、もっと可能性を秘めた強いものである」と言う必要があります。
(106~109ページ)
幸福の科学では、人間は仏の子であり、仏性を持った存在であると教えている。
「人間には仏性がある」というのは、仏と同じようなことを考え、仏と同じようなことをする習慣を身につけ努力していけば、仏のようになれる可能性が万人に開かれている、という意味である。
出てくる光の色や光り方は、その人の魂の傾向によって違うかもしれないが、人間の違いとは、磨き方の差によって光の出方が違っているだけのことであり、誰もが磨けば光る珠になる素質を持っている──。
前回の「心が折れてたまるか」の一喝のあと、その本意を説いておられる部分です。
「仏性」については、何度かご紹介してきました。
大川隆法先生は、人間の本来の姿の素晴らしさについて、私たちはもっともっと確信をもっていいのだということを教えてくださっているのだと私は思っているのです。
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『未来の法』
大川隆法著
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