宗教の教えもいろいろあるけどさ、どれが本物の教えで、どれが間違ってるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
悟りというものは広大無辺であり、さまざまな説き方、説明の仕方がありますが、第一点として言えることは、「霊的存在を無視しての悟りはありえない」ということです。それを否定するものは、近現代の間違った思想に毒された宗教解釈、仏教解釈であると言ってよいと思います。
そして、「霊的存在としての自分があり、それはまた、広大な霊的宇宙ともつながっていて、他の霊的存在とも、共につながっているのだ」ということを知らなくてはなりません。
「天国・地獄は外の世界にだけあるわけではなく、自分の心の内にもあるのだ。心はいかようにも動き、心の針は三百六十度、どの方向にも動いて、霊界の、どの世界にも通じていくのだ。また、生きている人間として持っている、その心の針が、他の人とも影響し合っているのだ」ということを知る必要があるのです。
そういう宇宙観を知ったときに、人は、自分を愛するがごとく他を愛さざるをえなくなります。いわゆるゴールデンルール、「自分がしてほしいように、他の人になせ」という黄金律は、ここから導き出されてくるのです。
こうしてみると、さまざまな宗教の教えが、いったい何を意味していたのかが分かってきます。
一つは、「はるかなる昔に個性を得た魂たちが、肉体に宿ったときに、肉体を自分だと錯覚し、自と他を分けて、自我が強くなるという誤りを犯すことがあるので、それを修正する必要がある」ということです。
もう一つは、「肉体的な自分が自分ではないということを悟り、霊的な我というものを悟ったときに、その霊的なる我が、大宇宙の調和のなかに生きていること、共に慈しみ合う世界のなかに生きていることを、悟らねばならない」ということです。
こういうことを、世界各国の本物の宗教は教えてきたのだと思います。
これを忘れて、肉体的な自我観、自己観に引きずられて生きると、死後、霊的存在が残ったときに、その霊的存在は、行く所がなくて地上世界をさまよい、生きている人に取り憑いたり、地獄界という、光の射さない世界をつくって、そこで生きつづけているつもりになったりするのです。
そういう人々を救うためには、霊的に正しい世界観、正しい生き方、正しい人生観を教えることです。そして、その正しい生き方に自分の思いを合わせていくことを教えることです。(中略)
この意味での観の転回、思いの転回をさせるために、宗教では伝統的に、物質的なものを否定したり、この世的な生き方を否定したりするのです。(中略)しかし、これは、否定すること自体に意味があるわけではなく、この世的な生き方に執着する心を去るために言っているのです。
この執着を去って、霊的覚醒を得たときには、「この世のなかにも、人々の生活を助け、豊かにし、心を引き上げるような、さまざまなものがある」ということが分かってきます。
このような「否定の否定」は「単なる肯定」とは違うということを知らなければいけません。霊的な自己という視点をいったん得たうえで、この世というものの積極的な意味を見いだしていく必要があるのです。
(203~207ページ)
霊的存在を無視しての悟りはありえない。霊的存在としての自分は、広大な霊的宇宙ともつながっていて、他の霊的存在とも、共につながっている。
世界の本物の宗教は、物質的なものを否定したり、この世的な生き方を否定したりするが、それは否定すること自体に意味があるのではなく、観の転回をさせ、霊的覚醒を得さしめるためである。
この世的な生き方に執着する心を去って、霊的覚醒を得たとき初めて、この世というものの本当の積極的意味が見いだされていく──。
今日は、ストレートな悟りの教えの話題です。
「空の悟り」、「真空無相」「真空妙有(しんくうみょうう)」について、別の切り口で分かりやすく解説された部分を引用してみました。
悟りの教えに関しては、頭だけで、つまり「知性」や「理性」で理解しようとせず、「悟性」で、直覚することが大切なのかもしれません。
それにしても、私は、この「悟りの世界」について、大川隆法先生のように理路整然と分かりやすく、しかも納得できる形で説かれたものは、他ではみたことがありません。
これこそがまさに、仏陀(悟りたる者)の証明ではないかと思うのですが、みなさんはどう受けとめられるでしょうか?
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『大悟の法』
大川隆法著 |
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