明るく生きるためには、光明思想って大事だよね。この考え方って、組織を運営するときにも使えるんだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
以前、小渕元首相が国会で演説した言葉のなかに、光明思想でよく出てくるたとえ話がありました。それは、「一つのコップのなかに水が半分入っている場合に、『水が半分しかない』という見方もあれば、『半分もある』という見方もある」というものです。(中略)
コップのなかの半分の水を、「半分しかない」と見るか、「半分もある」と見るかという、ものの見方によって、人生観が変わり、幸・不幸も変わってくるということは、個人においては言えると思います。(中略)これは光明思想の出発点の一つです。「与えられていることに感謝する」ということは、宗教的な観点から言えば、充分にご利益のある考え方ではあります。
ただ、ここに一つ、落とし穴があるのです。「自分はこういう見方をする」というのは、個人としてはよいのですが、たとえば、一国の政治を預かる者や、一国とは言わないまでも、従業員が百人以上の会社や大きな組織などを預かる者としては、「コップに半分しか水がない」という事実そのものは変えることができないことを見逃してはならないのです。(中略)客観的事実は変化しないという点を見逃したときに、組織のリーダーとしては致命的な失敗を犯すことがあるのです。
そうした失敗をもたらすものの一つが、戦争で言うと、たとえば兵姑を無視する思想です。「コップに半分も水がある」という考え方を突き詰めていくと、先の太平洋戦争のときの日本軍の考え方につながるものがあります。(中略)大勢の軍隊が移動する際の食糧ということで考えた場合には、非常に大きな問題になります。食糧の量によって、「何人が何日間、行軍できるか」ということは、だいたい計算が立ちます。それを計算しない人が指揮をとったならば、いくら「考え方一つだ」と言っても、それは死の行進になるはずです。
「考え方一つだ」という思想は、個人の勇気づけには充分に使えるのですが、組織という面では違ってきます。どのくらい持ちこたえられるかを計算することは、単なる臆病の論理や、光明思想に対する暗黒思想とは違います。それは智慧の部分に当たるのです。
たとえば、地震等の天変地異には、当然、人心の荒廃や天上界の怒りも影響はしますが、その被害を小さくするためには、少なくとも耐震構造を持った建物や高速道路であることが必要です。手抜き工事をしたものまで仏神が加護することはありません。仏神は、そこまでは考えていないのです。壁のなかにコンクリートが詰まっていなかったり、鉄筋が入っていなかったりするのに、奇跡によって救おうと力を尽くすような仏神はいません。やはり一定の強度が必要なのです。
したがって、光明的なものの考え方は、個人を出発点としたときには非常に有用で大事なものですが、大勢の人が生き、あるいは戦い、事業をし、成功しなければいけないという局面においては、安易な考え方が失敗につながり、悪を呼ぶことがあるのです。「天国的な思想が地獄的なものに転化することもある」ということを知らなければいけません。
(251~258ページ)
光明的なものの考え方は、個人においては非常に有用で大事なものである。
しかし、組織のリーダーとしては、客観的事実は変化しない以上、安易な考え方が致命的な失敗になりうる。
天国的な思想が地獄的なものに転化することもあることを、知らなければならない──。
光明思想を安易に組織にあてはめてしまって、組織を崩壊させ、多くの人を不幸にしてはならないわけです。
もちろん、明るく前向きな運営は必要ではあっても、そこに「智慧」がないと悪に転化してしまうこともあるということだと私は思っているのです。
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『常勝の法』
大川隆法著 |
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