ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



週刊新潮って、大川きょう子さんの記事で、幸福の科学と裁判になっちゃったって、前回聞いたよ。この記事について、大川隆法先生はどう考えてるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「週刊新潮」に巣くう悪魔の研究』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 当会が、昔から言っているように、やはり、マスコミのなかにも悪魔は巣くっていますが、彼らは、「民主主義の守護神」であるかのように名乗っています。しかし、マスコミも一つの「権力」である以上、チェックはされなければいけませんね。
 つまり、マスコミに対しては、「人を裁くだけの立場にあるかどうか」「聖職者がやっているのかどうか」というチェックが必要なのです。
 なぜなら、彼らは、顔が見えない権力であり、どんなことを企んでいるか分からないからです。
 単に、「売り上げが落ちないように」とか、「赤字にならないように」とかいうこと以外に「報道の基準」がないのであれば、それは、「民主主義の守護神」を名乗る職業としては十分ではないと思います。「赤字になったら潰れる」というだけであれば、物売りと変わりませんからね。
 したがって、もう一段、厳しい基準があってもおかしくはないと思います。(中略)
 これは、やはり、フェアではありませんね。確かに、この世で完璧を求めることは無理かもしれませんが、適正なバランス感覚というものはあります。やはり、マスコミは、こちらが一生懸命やっているところについては、きちんと見ていなければいけませんし、実際に、知っているはずですのでね。
 例えば、「よい講演をしたり、よい活動をしたりしたようなときは、まったく書かない。それについてはノーカウントで、何か叩けそうなところがあったら、そこだけを狙ってくる」というようなやり方は、やはり、あまりフェアでないような感じがします。
 マザー・テレサの例で言えば、彼女が、何か疑惑のあるお金を少し受け取ったようなときだけ、野獣のようにワーッと群がって、一生懸命、書くようなものです。
 そうとは知らずに、「お金を提供する」と言われたら、善意の献金だと思って受け取ってしまうこともあるでしょう。以前、そういう映画がありましたが、それと同じようなものだと思います。そこだけをワーッと攻めるのです。
 あるいは、シュヴァイツァーの例で言えば、「彼は、アフリカの病人を治しに行ったが、亡くなった人もいるよ」ということばかりを取り上げれば、シュヴァイツァーが、ものすごく悪いことをしたように見えるでしょう。
 そのように、バランス感覚が悪い報道は、その記事でもって知識を得、判断をしようとしている人を迷わすことになります。それが、結果的には、「悪魔の所業」になるのです。(中略)
 今回の、「大川きょう子問題」の記事について、私の率直な感想を述べるとすると、「『週刊新潮』、『週刊文春』にしては、やや三流週刊誌のようだったな」と思います。もっと落ちる週刊誌なら、「このくらいは、いいかな」という気持ちになったかもしれませんが、「『新潮』『文春』のレベルで、この程度か」というところで、少しショックを受けました。(中略)やや、三流化していますね。
 そういう意味で、経営危機は迫っていると思います。
(206~210ページ)

マスコミは、「民主主義の守護神」であるかのように名乗っているが、マスコミも一つの「権力」である以上、人を裁くだけの立場にあるかどうかがチェックされなければならない。

適正なバランス感覚というものがあるはずなのに、マスコミは、よい活動についてはまったく書かないで、叩けそうなところがあったらそこだけを狙ってくるのは、フェアではない。

今回の「大川きょう子問題」の記事について、週刊新潮、週刊文春にしては、やや三流週刊誌のようだったと思う──。

裁判のその後の様子は、まだ何も伝わってきませんが、よい結果が報じられるのを、じっくりと待ちたいと思います。



『「週刊新潮」に巣くう悪魔の研究』

大川隆法著


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