朝から凄い雨が降っています。
急遽電車に飛び乗っての出張をしましたが、予定をしっかり決めてないのでipadなどなし、カバンの中には最近買った雑誌が一冊だけです。
何とかメドをつけた仕事の後、一人帰京はビールとこの雑誌です。
blog仲間ですこし書いている兄弟いますが、「新潮」という雑誌です。(こんな雑誌だったっけ)
そこには新しく発見された、、福永武彦の1945年1946年、1947年の日記の一部が掲載されているのです。
随分前にblogの記事で福永武彦を話題にしたことあったように思いますが、今回は新しい文に触れることが出来たわけです。
私が個人全集なるものを買ったのは、この福永武彦が始めてです。出版された頃はまだ福永氏は存命中でした。
その後、多くの好きな作家はエッセイだったり、映像であったりで生活を少しでも知っていますが、当時福永武彦と私はそこにある小説だけの関係でした。
大好きな詩人「田村隆一」なんかは酔っ払いの日常エッセイがあって、そしてねじめ氏の「荒地の恋」などがでてかなり身近になりましたが、福永もこの雑誌で少しだけ身近になりました。
福永武彦の小説の主人公の悩みは、澄んで、さわるのがこわいような感じでしたが、日記の福永は現実もそこに並んであったのですね。
「風土」を書こうとして悩んでいる時代だったのです。
処女長編「風土」がまだ形をなさず、福永のあのページが出来る前の日記です。
「風土」ノオト(こんなものを書き抜いて果たして立つかしら) 「福永武彦日」
“五日 夜中に駅に行く、大阪行きは満員で乗れずまた駅のベンチに仮睡。
夕四時半、追分着。
中村(中村真一郎)と久しぶりの話。堀「堀辰雄」さんとも会い話す。”「福永武彦日記」
私、福永に出会う前は堀辰雄が好きだったのですが、日記の中に出てきているのですね。
この日記で堀辰雄と福永武彦の絵図が定着してくるのです。
随分古い雑誌ですが昭和47年発行の国文学が福永武彦を特集しています。
それによりますと、福永は1941年、この日記の4年前の夏、軽井沢に旅行して堀辰雄に紹介されているのです。
『堀が日記にしたためた「我々はロマンを書かなければならぬ」という一説を深く記憶に刻んで、「私が堀さんから学んだのは、一種の魂のリアリズムといったものである」と述べて音字文中、堀にそくしながら「小説家は深い柔軟な魂と、厳しく知的な精神との両方を併せ持ち、しかも全体の構成ときめ細かい紗帯とに知れらが沁みるわたっていなければならない」とある。』 畑 有三 作品論 風土
まさに堀辰雄を出発点として福永がいるのです。
またもう一つの影、福永の妻澄子との感情のいきき、
“2人はボードレールの『悪の華』を一作ずつ丁寧に読んだ。” 出会いから日記まで 鈴木和子
『「風土」の冒頭に付された次のエピグラはその出発がどのようなものであったか象徴的に物語っている。』 畑 有三 作品論 風土
或る朝、わたくし等は出発する、脳漿は焔に燃え
怨磋と味苦い欲望とに心は重く、・・・・ ボードレール「旅」
私福永を深く調べたわけでもありませんし、研究家でもないので、無責任をお許し願ってかってなことを書かせてもらいます。
この日記を読みながら思うことはピカソの「青の時代」ピカソはいくつかの時代と呼ばれる作風を変化させていきました。
福永はどこまでも深く掘っていく人でしたが、そのスタートにこのように日記の中に垣間見られる人間福永の心の揺れが、ノオトと試作を通じながら「風土」に昇華していったのだとそしてそれは、若くして深く沈んだピカソの「青の時代」に重なっていくのでした。
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