印象に残る一節があった。
4/27中国が南北会談で融和が進んだことを評価する談話のなかに
魯迅の漢詩のなかの「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、互いに会って笑えば
恩讐(おんしゅう)も滅びる」ということを語ったという。
いかにも中国らしい。
現実の様々な情勢には疎いし、言うべきこともないけど、今は、
「争いの原因」というのをみんなで探り合っている。
サイエンズ研究所が最近発刊した「次の社会へーー人知革命」を
資料にした輪読会をしている。ぼくは、参加できない状態だけど、
その様子を録音してくれて、それで参加している。
「なぜ人は対立したり、争うのか?」
これは若い頃から関心があり、それ一本で暮らしてきた。
争いの原因は、自分が正しいと、自分の考えを実際だとして、
だから相手の意見を聞かない、人の思い込みや頑固だと
おもってきた。
今、検討するなかで、相手はいくら思い込んでいても、争いに
ならないときもある。
はっとした。
そして、争いの原因は、人と人の間柄の状態にあるという。
いままでは、争いは一人ひとりのなかのことと、どこかで
決めていた。
人と人の間?
間かあ。
個人のこともあるけど、人と人で成り立っている社会に目を
むけることになった。
確かに争いはひとりではできない。頭が動きはじめた。
「人間問題、特に人間同士の争いの原因は「人が人を動かそう
とすることにあるのではないか?」
はじめピンと来なかった。
「やらせる、やめさせる」が社会や個人のなかでの常識になっている。
振り返っても自分は人から指図されたり、止められたりする
ことは好きでなかった。
思い思いに行動して、それで調和がとれたらいいなあ。
一個の受精卵の細胞のように・・
意見や見方が違っていても、いや違うほどお互いの理解が
すすみ、豊かな検討ができる。
これまでは、話し合いとは何かを決めたり、合意するものだ
としていた。どうも、そうではないらしい。
お互いが相互に相手のしたいことや気持ちを深く理解することに
あるようだ。
頭では「そう、なったらいいな」とかおもっているけど、実際の
社会生活では、よーく自分の心底にあるものをみていくと、
そんなになったら社会の秩序はどうなるか?という滲みこんだ
考えからの心の状態があるように見えてきた。
それはおそらく、そんなことしたら人は何をしでかすか分からない
という人間に対する不信や危険視する心理が潜んでいるように
おもった。
生まれてしばらくは母親や周囲の大人に身を委ねきっている
時期があった。赤ちゃんが人を責めたり、人に指示するような
ことはない。じぶんの要求をあけっぴろげに、訴えるのみである。
それが、どうしたことか。
成長するにしたがい、「やらせる、止めさせる」「そうしなけれ
ばならない」と今の大人社会の観念に染まっていく。心理的にも。
そのように、育ってきた。疑問があっても、こんなもんか
と順応してきた。
この検討のなかでハッとすることがあった。
本来の自然な人と人の間の状態って、どんなものだろう?
「ああ、そこと向き合って来なかったなあ」
それを知らずして、社会や人間のなかから争いをなくす
と言っても、根本的な解決は見えて来ないだろう。
争いの原因は、つねに人と人の間の正常な姿から照らし
だされてくる感じがする。
鈴鹿に引っ越しして7年、社会の空気として、その人の意志を
決して妨げないという暗黙の人間関係があり、それをいままで
徹してきたと感じる。
目には見えないけど、ここの社会の基盤になっていると感じる。
現象面に現れている形や人間関係をなどを支えるその元のもの。
アズワンコミュニテイと7年前から呼ばれるようになった。
まだと言うか、これが適当な人数といえるのか、150人が鈴鹿の
街の一角でそれぞれ暮らしながら、「強制も束縛」も無いその人が
その家族が自由に行動できて、お互いに話しあいによって、
理解しながらの社会が成り立っているようにみえる。
まだ実験段階とはいえ、ここには次の社会への可能性がある。
これなら、人と人は争う必要がなくなるとおもった。
個個ではいろいろあったとしても・・・
探究はつづく・・・
「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、互いに会って笑えば
恩讐(おんしゅう)も滅びる」