かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

人間らしく最期を

2016-09-12 19:01:08 | 理想の暮らしを語る会

理想の暮らし語る会9月公開講座

「自分らしく生きるーー素敵に最期を迎えるために」

9月10日午後1時半から3時半までありました。

鈴鹿カルチャーステーションに30名余の人たちが寄りました。

 

話をしてくださったのは、四日市あした葉会の伊世利子(いせとしこ)さん

です。

あした葉会は伊世さんが立ち上げた。

         

  http://www.ashitaba3.com/

 


 

地域医療や介護、ホスピス、緩和ケア、看取りなど仕組みを整えながら、

市民が主役になって,すべての人が自分の意志でそれらの仕組みを

選択し、自分らしい老後の暮らし、最期を迎えることができるようにという

活動なんですね。

 

「実は、私、四日市羽津医療センター(旧羽津病院)の看護師なんです。

現役でバッチリ、やってるんです。羽津病院では、訪問看護をしている

とか、老人保健センターなど地域のなかに入って、医療や介護分野

にも関心もって活動してきているです」と伊世さん。


  <四日市羽津医療センター>

    http://yokkaichi.jcho.go.jp/

 

そこで30年、看護師をやってきている。

伊世さんの話をを聞きながら、たしかにこんな羽津病院に惚れて、

看護師をはじめたんだなと思った。

ところがどっこい、どうもそんな程度でおさまるような人じゃないんだ

なあ、とも思った。

 

「在宅医療のシステムなど整ってきているけど、市民の人たちが

そういう実際があることを、先ず知っているかな、って思ったんですね。

あんまり伝わっていない、というより全然といってもいいくらい・・・」

伊世さんは語る。


 

そんなとき、東京新宿で「暮らしの保健室」をはじめた秋山正子さんに

出会った。

「とってもすばらしい人でした。40年看護師をやって、今度は街の人たち

のなかに入って、健康相談をしていたんです。これに、刺激をうけました」

 

    <暮らしの保健室>

       https://www.kango-roo.com/sn/a/view/850

 

この日のお話を聞いていると、伊世さんは、人との出会いの達人であり、

心からの共鳴と、そのあとネットワークづくりをしながら、あした葉会を

四日市で暮らす人たちに身近なものにしてきたんだなあと思いました。

 

「5年ほど前、そんなこと考えているとき、岩手県で死の臨床研究会

という催しがあったんです。それに参加していたら、あれっとびっくり

したんです。その会に四日市市役所の職員の方が4人見えてい

たんです」

これも、出会いなんでしょうね。

行政から医療機関から住民までのネットワークを描きながら、あした葉会

が、2011年6月スタートしたのでした。

 

自宅の一角を開放してあした葉ステーションという地域の人たちの

居場所づくり。

認知症出前講座。

緩和ケアボランテイア養成講座。

そのなかでも、大きなプロジェクトは、四日市市の助成を受けて、

市民大学の開講。


 

こういう活動をしていると、同じ思いの人に出会えるんですね。

伊世さんが紹介してくれました。

 

  <医療法人いしが在宅ケアクリニック>

    http://www.ishiga-cl.com/

 

  <なごみの里 柴田久美子>

    http://nagominosato.org/projects/lecture/speaker.html

 

   <日本尊厳死協会>

    http://www.songenshi-kyokai.com/

 

いしが在宅ケアクリニックは、ガンなど不治の病にかかった患者さんを

医師の立場から、その人らしく「命輝いて」最期を迎えるサポートをしています。

柴田久美子さんは、どんな人も、逝くときが一番幸せとなって逝くサポートを

実践しています。

尊厳死協会は、自分の死んでいくとき、自分はこう考えているという意思を

はっきり表現しておきたいですね、という啓蒙をしています。

 

伊世さんは「かかりつけ医」が大事だと思っている。

「在宅訪問をしますよ、と言う医師は四日市市の安心ガイドブックなどで

リストであがっているけど、じゃあ最期まで看取りしますよ、という医師が

どれだけいるか。それを、ガイドブックに載せたいと思った。

在宅訪問しますという医師を訪ねて、いろいろ聞いて回ったんです。

これは、40人までやったところで、ギブアップしました。あきらめた

わけではないのですが、一人ひとりに会うということ自体、大変な

ことだったんです」

その熱意たるや、ぐんぐん伝わってきます。

 

講演会のあと、コミュニテイカフェで、伊世さんを囲んで、有志で

おしゃべりしました。

鈴鹿の地域包括支援センターのスタッフや地元の訪問看護の仕事に

携わっている人もよりました。

伊世さんは、こう感想を言っていました。

「人間として死ねる。ここが大事だと思うんです。そのため、死に方

について、自分で選択できる。いろいろな仕組みはできてきているけど、

その本人がどんなにしたいか、ここが一番のポイントですね」

 

この感想が尾を引いています。

医療や介護、社会福祉、まだまだ道半ばだし、ときに逆行しているらしい

とみえるときもありますが、そうとう水準が高いところねらって、検討

がすすんでいるとはいうものの、生きているのぼくたちだし、ここで

暮らしているのは、このぼくらなんですよね。

「人間らしく生きる」といい、「自分らしく生きる」といい、そういうこと、

自分は捉えて、どう考えているんだろう。

そこ、もっと語り合いたいなあと思いました。

 

 

ここで、理想の暮らしを語る会10月公開講座のお知らせです。

 テーマ「自分らしく生きるとは?」

1、日時  10月8日(土)13:30~15:30

2、会場  鈴鹿カルチャーステーション

3、考えるヒントを話してくれる人

 ・金治智計 「人生を振り返る」  (68歳・元武闘家・現在、人工透析で暮らす)

 ・岸浪和子 「人生を振り返る」  (75歳・元看護婦・リウマチ進行中)

 ・井川道男 「内観で人生を振り返るとは」  I(サイエンズスクール鈴鹿

                      内観コーススタッフ)

 

もう一つ、お知らせです。

「あした葉企画 市民講座」

 --市民が主役!地域包括ケアを学び、在宅療養を支えよう

 

<連続講座>

1、四日市の地域包括ケアについて

  講師/四日市北地域包括センター長 鈴木広子氏

    9/15(木)18:30~20:30

2、地域包括ケア病棟の現状報告

  講師/四日市羽津医療センター職員

    9/29(木)18:30~20:30

3、在宅療養からみた地域包括ケア

  講師/いしが在宅ケアクリニック  平山将司先生

    10/13(木)18:30~20:30

4、福祉の現場から見た包括ケア

  講師/ナーシングホームもも代表福本美津子氏

    10/20(木)18:30~20:30

5、NPO団体から学ぶ、地域活性化活動

  講師/NPO法人UDほっとねっと代表伊藤順子氏

    11/10(木)18:30~20:30

問い合わせ先  090-8325-8816 <伊世利子>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


何のために誰がために

2016-09-11 08:54:32 | わがうちなるつれづれの記

沖縄東村高江にある森のなかに、アメリカ軍と日本政府がオスプレイの

ヘリパットをつくろうとして躍起になっている。

そこに暮らす人々や沖縄の人たちは「つくってほしくない」と意思表示して

いる。

日本の政府の官房長官から「全部が反対しているわけじゃない」と聞いたことが

ある。

暮らしている人たちの声を聞きたいと言うなら、もっとしっかり聞いてほしい。

「つくってほしくない」という意思表示があるのに、それを強行しようとする

根拠が分からない。

何のために、誰がためにそうしようとするのか?

 

20代のころ、、アメリカがベトナムに武力で介入して、ベトナムに人たちと

戦争状態になっていた。

その時の自分は、そのことをわが事のように感じていた。

人が人を殺す、殺すことができる、この根拠が分からなかった。

人を殺したくないし、殺されたくもないと思っていた。

1967年だったか、佐藤首相がアメリカに行って、ベトナム戦争に協力

するという。

「戦争に協力したくない」と意思表示したかった。

たまたま、佐藤首相が渡米するとき、羽田空港で首相の乗った車の

前に寝そべって、それを止めようという仲間に加わった。

広い道路に11人が実際、寝そべった。

もちろん、すぐ警察に排除され、逮捕された。

 

何でか思い出せないが、大学に入る前から、中国とかアジアに

関心があった。大学の第二外国語も中国語を選択した。

満州事変から15年の戦争で、3000万にのぼる中国はじめアジアの

人たちを殺して来たという歴史を知って、衝撃をうけた。

アメリカとの戦争に負けたというイメージが、ぼくのなかで徐徐に

変わった。

韓国併合で日本は何をしたのか。中国では、南京虐殺にとどまらず、

そこでやってきたことは、中国の人たちの記憶に刻まれたし、そこに立ち会った

日本の兵士にも、同じだったのではないか。

そのほか、アジア諸国で、解放と言いながら、シンガポールの虐殺など、

そこに暮らす人たちには拭えない記憶になって残っているのではないか。

 

その頃、ぼくはヒロシマやナガサキにも関心があった。

ヒロシマには何度か出かけた。

沖縄にも、何か思うものがあった。

大江健三郎の「沖縄ノート」を読んで、ぼくの中で、沖縄はどうなっているのか、

そこをよく見てみないと、軽々しく考えられないなみたいな受け取りがあって、

一度は訪ねてみたいという気持ちがどこかであったけれど、「まあ、いまは

時期じゃない」みたいにしてきた、

・・・今思えば、そんなんだったかもしれない。

 

振り返って、そんなことばかり考えながら暮らしてきたわけではないけど、

何で人と人が争い、不条理な苦しみに見舞われる人たちがあとを絶たないか、

自分にとっての大いなる原問題だった。

イスラエルとパレスチナの人たちにも思いを馳せた。

 

昨年の夏のはじまり、沖縄を1週間訪問した。

沖縄に親しい人が現れ、その人のところに滞在して、沖縄を見て回る

旅になった。

ずっと、自分のなかのイメージでしかなかった沖縄、その沖縄の風や

人に実際に触れて、いくつかの感想をもった。

 

一つ。沖縄の人に触れていると、のっけから家族のような扱いをうけて

いる感じがした。初対面で、挨拶なしに、自分のことなど、旧知かの

ように話す。

居酒屋で、もと警察署長という親父さんが、いっしょに歌おうと寄ってくる。

誰もがそうかどうか分からないけど、親しさが人と人の間のベースに

なっているのかなと思った。

二つ。日本敗戦に先立って、地上戦が戦われたのは、日本で沖縄だけだ。

「捨石」になったともいえるのではないか。

「今、暮らしているこの街の下を掘ると、地上戦の残骸がすぐ現れてくる」と

何回か聞いた。戦いの跡地の上に、沖縄の人たちは暮らしている。

三つ。米軍支配が、沖縄の人たちの深いところの実感としてある。

友人はつぶやいた。「アメリカの車には近づかないの」

事故があったら、最後は、米軍が決済して、当てられ損だという。

米支配は、日常のささいなことから、大事故・大事件に及んでいる。

四つ。辺野古の新基地をつくらないでほしいと、座り込んでいるテントを

訪れた。山城博治さんや島袋文子おばあにも会った。彼の話や立ち居

振る舞いに触れて、ここに座り込んでいる人たちは、「つくらないでほしい」

という気持ちを伝えたいし、出来れば話し合っていきたい、という気持ちが

あるんだなあ、と感じた。

”非暴力”、というコトバの以前に、ふだんの暮らしのなかの不自然さに

抗っていると見えた。新基地は、尋常ではない。

 

この訪問のあと、本土に帰り、いままで以上に沖縄のことに関心が

いくようになった。山城さんや島袋のおばあが出てくると、身近な

気持ちが出てきた。

海上で保安庁の人たちに暴力的な扱いを受ける場面を何回も見た。

非暴力といいながら、そこに直面した一人ひとりはどんな気持ちだろうと

心が痛んだ。

非暴力といいながら、身体で暴力を使っていなくとも、心のなかに怒りや

憎しみがあることへの自戒があることが、いろいろな言動や振舞い方から

伝わってくる。

 

何ヶ月か前、20代に羽田空港で寝そべったとき、仲間がつくった小冊子

を読み返してみることがあった。

「非暴力つうしん」創刊号(1967年12月8日)

この小冊子は、たぶん創刊号を出して、そのあとは出ていなかったと思う。

 

このなかに、鶴見俊輔さんの文章があった。

「回路の設計・・・のれんに腕おし」

ーー・・・20日ほど前、ゲーリー・スナイダーに会った。さりげなくくらしていた。

  船員をしたり、木こりをしたりして金をつくり、あとは放浪したり、座禅を

  したりしてくらすという。戦争反対の座り込みもするし、獄にも入る。

  そういう暮らし方で、表現の悪を内側からなくしている感じがした。

  他人にはたらきかけようとすると空虚がおこる。

  ・・・・だが、私は、その日自分の眼で、羽田の自動車道が十一人の

  身長をあわせれば、ほとんどとじるという事実を見たことを忘れない。

  ・・・・それは、私たちの日常生活が、自動車の前に投げ出す時と同じ

  ように倫理的に高められてほしいという希望では決してない。

  挫折感は、激烈な行動と日常的な行動に深い切れ目があるときに

  起きるということだけを言いたいのだ。

  直接行動が毎日のあいまいな気分ををひきずって行われるように

  なるか。毎日の生活が直接行動を与えるある種の気分をかくれた小さな

  一部分としてもつようになるか。

  その回路の設計が問題だ。

 

当時のぼくは、何か心にグッと迫ってきて、わが身を顧みようとしたと記憶

がある。何回読んでも、府に落ちる感じがなかった。

今回読んでも、「表現の悪を内側からなくす」とか、「かくれた小部分」という

のは。どんな感じのことを表現したかったんだろう?聞いてみたいなあと

思う。いまは、もう鶴見さんはいない。

 

沖縄高江の森のヘリパット建設。

「つくらないでほしい」というそこで暮らす人々、沖縄から基地をなくしてほしい

と願う人々の意思表示を圧倒的な力で排除して、強行しようとしている。

何のために、誰がために!

 

アメリカ軍やアメリカ政府やアメリカの人たちに、恥ずかしいことしてるかもと、

立ち止まってみる人が出てこないだろうか?

ここをすすめようとしている日本政府やそこにかかわる人のなかで、

そんな人は出てこないだろうか?

 

昨日の夜に出会ったコトバ。

<ひとりの人間の痛みがもうひとりの痛みと結ばれると、ときに痛みが癒される

ことがあります。あなたのきまり悪さと私の恥じとが一緒になると、もはや

不名誉でも恥でもなくなる>

(大江健三郎往復書簡「暴力に逆らって書く」・・・アモス・オズとの往復書簡

 P96アモス・オズ 1998年7月の手紙)

アモス・オズはイスラエル人だ。

 

 

 

 

 

 

 


その人は死んでも

2016-09-04 12:08:29 | わがうちなるつれづれの記

とくに濃密に接したわけでもなく、深く話し込んだこともないのに、

ときにその人の存在が自分の中にでてくるような人がいる。

 

そういう人のなかの一人の人が、最近亡くなったと風の便りで

知った。

40年ほど前、共同体で暮らしはじめるとき、その人の部屋に

行き、挨拶した。

「これからよろしく」と言ったら、「ああ、そう」と、ぼくの記憶では

とてもあっさりした反応なので、印象に残っている。

多分、ぼくの方は相当、意気込んでいたのではないか。

 

だいたい、意気込まないとできない、というような生き方をして

きているので、何かのおり、ふとわれに返るようなとき、この

「ああ、そう」が浮かんでくるくるときがあった。これは、消せない。

 

もう、10年以上前になる。

その人にぜひ来てもらって、意見を聞かせてほしいという話が

あり、ぼくは「来てほしいと言っているのですが、行けませんか」と

その人に伝えた。

「いや、今は、行かない」ということだった。

何回か伝えたけど、行くとはならなかった。

そのときのこと振り返ると、その人が行くことで、行った先の人たち

が仲良くならない、その点に心を注いでいるように感じた。

 

いつも、静かな人だった。騒がない人だった。

やることは、はっきりした考えのもと、迷いなくやっていた。

寡黙ななかに、情も感じられた。

その人が死んでも、その人から現れていたもは、ぼくのなかに

生きている。

合掌。


夏の終わりに

2016-09-01 08:06:41 | 家族あれやこれや

いつだったか思い出せない。

娘桃子が「家族そろって、どこか旅行にいきたいなあ」とつぶやいた。

「それ、やれるようにしようぜ」とぼくはたしか共鳴した。

こころのどこかで、実際できるかどうか、半信半疑だったけど。

息子たち、娘一家、それぞれ、いろいろな人生問題に直面しながら

日々暮らしている。簡単ではないかも。

生きているうちに、できたらなあ、ともおもった。

それが、8/26~27、一泊のキャンプだったけど、なんとか寄り合えた。

願っていたら、叶うこともあるんだなあ。

 

        (一)行く、行かない

 

26日朝、「さあ、出かけようぜ」というとき、桃子の息子晴空(小5)が

「行きたくない」と言い出した。

太郎が大阪から着いた。

晴空からみたら伯父さん。

「3000円あげるから、行こう」と太郎が誘ったら、行くとなった。

「お金がほしいだけのことじゃないよね」まわりの見方だった。

 

実は、太郎からも、1週間前は、「仕事が忙しいし、にぎやかなのは好きじゃ

ないし、やめとくわ」と電話があった。

そのあと、妹桃子と話して、1泊なら行ってもいいと決めたらしい。

太郎から再度電話。

「親父ら二人、ゆっくりできるように温泉旅館を2泊、予約するけど、

行く?」

うーん、太郎、どんな気持ちなんだろう?

照れて、「いいよ、そこまでしなくとも」いうのが瞬時に出てきた。

「ああ、うれしいなあ。行かせてもらうよ」

口からでたのは、そんなコトバだった。

 

前日の夜、桃子の家にいったら、娘の(ふゆ)が塾があるから

行かないと愚図っていたらしい。

桃子が「ダメ、行くの!」とダメ押ししたら、あっさり愚図らなくなったと

聞いた。

 

小浪の息子秀剛と悠海夫妻、和(わたる・3歳)・駿(8ヶ月)、それに

小浪の次男譲。

えーと、何人になる、指を折ったら、11人。

そんなこんなの11人が2台の車に荷物を詰め込んで、鈴鹿を

発ったのが9時ごろだった。

 

    (二)雨の森・平湯温泉キャンプ場

 

午後、キャンプ場に到着。涼しい。

緑の森が夏の青い空の下で、こんもり日陰をつくっていた。

キャンプ場へは、車で入れる。

一つ、常設テントを借りて、その近くに持ってきたテントを二つ張る

段取り。

常設テントには、ぼくが入るらしい。ヨレヨレの老人の扱い。

この11人の連中には、指示を出す者がいない。

妻小浪は、今回の旅行で、1泊のキャンプ以外に、次の宿泊の段取りも

していて、その面では、一番、全体のことは考えていたと思う。

彼女なりに、要所要所は口を挟んでいたが。

 

車2台、常設テントの前に止めた。、

どこに二つのテントを張るか?

あっちがいい、いやこっち、そこは斜面、こっち。

「だれだあ、そんなとこに車止めたのは?」

「車、移動して」

 

車からテント用品一式下ろして、組み立てに入る。

わいわい言いながら、形が出来る。

 

「テントの床、そのままじゃあ、まずいんじゃない」

「貸し出し用のすのこがあるよ。一枚200円」

「誰かとってきて」

だれともなく、とりに行く。晴空や風友も、取りに行っていた。

「3枚じゃダメだ、もっと」

二つのテントが張り終えた。

もう、夕方になっていた。

 

BBQの準備は桃子たち。

 

 

先ず、温泉に行ってこよう。

なんんとなく、そんな流れに。

秀剛「オレは行かん。BBQの炭を起こしておく」

みんなで、車で出かけた。

キャンプ場近くにある平湯温泉、露天風呂が大きく、なかなか風情が

あった。

晴空と露天風呂をあちこち渡り歩いた。

 

キャンプ場に帰ると、もう炭は赤々としていた。

「遅かったなあ」と秀剛。

なすや牛肉も焼きはじめていた。

もう暗くなっていた。

ときどき、雨粒が落ちてくる。

秀剛も急ぎ、温泉に行った。

BBQがなんとなくはじまった。

秀剛が温泉からもどって、乾杯したっけなあ。

めいめい、ビール飲んだり、肉をつついたり。

ふゆや晴空、それに和(わっ)くん、駿くんがいるだけで、その場が

ゆったりして、遊びの間というか、なにが起きるか分からない、

なにが起きても、楽しくしていこうみたいな空気を感じた。

かく感じるぼくは、ただ座って、ジュース飲んだり、肉など食べている

だけ。 

そうだなあ、すでにもうあの世に居ながら、みんなを眺めている如く?

 

雨粒は止んだり、少し降ったりしていた。

樹木の葉が傘の代わりになっていた。

宴の間は、平和だった。

暗い中で、「さあ、デザートだ」と秀剛が作ったスイカを分けて食べた。

「甘いよ」「甘いぜ」

とか言い合っていたら、大粒の雨が降りはじめ、葉っぱの傘では

凌ぎきれなくなった。

おおわらわで、店じまい。

 

雨で濡れた。身体が冷えている。

平湯温泉の玄関に足湯があったよね。

足湯してから、寝ようぜ。

雨が降っている。足湯のところ、屋根がない。

傘でいけるよ。

よく、反対するものがいなかったもんだ。全員出かけた。

今思うと、不思議。

行ってみたら、雨は強くなってきて、傘をさしても濡れてしまう。

でも、それぞれ、どんなこと思っていたんだろう。

そんな雨に濡れながら、孫のふゆや晴空も足湯をしていた。


桃子は、傘さして足湯しているぼくのところに来て、しばらく膝に

座って、一つの傘の下で重なって、いっしょに足湯した。

まだ、3,4歳のころ、膝に抱っこしたときのこと思い出した。

わいわい言いながら、足湯しているその連中、傍から見たらどんな

風に見えたんだろう。

 

戻って、ぼくらは、常設テントに。

しばらくして、秀剛一家が常設テントに避難してきた。

彼らのテントに雨が滴り落ちて、ビショビショ、寝るに寝られなくなった

のだった。

わっくん、しゅんくんも交えて、5人で寝た。

テントの屋根に雨の滴が、一晩中落ちて、響いていた。

屋根があるって、有難いものだ。

子どものころ、台風が通過する夜、暴風雨の音を聞きながら、

怖いけど、妙に安心した気持ちがあったこと思い出した。

 

桃子一家と太郎たちのテントは無事だった。

雨音に負けじというように、桃子たちのテントから笑い声やら

何か奇声に似た声がだいぶ深夜まで聞こえて来た。

「行く、行かん」と直前まで言っていた、太郎、ふゆ、晴空が

桃子といっしょになにかゲームをしているらしかった。

彼らに何が起きているんだろう。


雨に降り籠められたときの、なんともいえない楽しい興奮が

あったのかな?

 

      (三)森のモーニングカフェ

 

朝、雨はだいぶ小降りになっていた。

わっくんは、ぼくの隣でぐっすり眠っている。

二人だけが、テントのなかにいた。

小浪が、コヒーを持ってきてくれた。

譲が炭を起こして、湯を沸かしたらしい。

 

テントから少し離れたところに屋根がついた水場がある。

なんとはなしに、起きてそこへ行った。

小雨が降っている。

BBQ用の炭台で譲がパンを焼いていた。

手をかざすと、温かで気持ちいい。

悠海さんが、炊飯器を持ってきた。昨日、炊いて、あまり食べていない。

「チャーハンにしたらどうかな?」

 

 

桃子一家。太郎も水場に寄ってきた。

何するでもない。かといって、何もしないというのでもない。

昨日残した肉をもってくるものがいた。

けっこうあった。

それを焼きはじめた。

桃子がコーヒーを入れていた。

パンをちぎって焼いている人もいる。

森の水場は、ゆったりした時間が流れているようだった。

子どもたちは、立ったり座ったり。

わっくんは、「ふーゆ!」と、いつも探している。

いっしょに居たいらしい。

「どんなこと思ってるんだろうね」まわりの疑問?

晴空は、そのころ「帰ろう、うちに帰ろう」と桃子に絡んでいた。

 

カセットコンロとフライパンが持ち込まれた。

 ふゆがピーマンや玉ねぎを刻んでいる。

 

「昨夜、炭で焼いた鶏肉もチャーハンにいれよう」誰かが言った。

はじめ、秀剛がフライパンに具を入れてつくりはじめた。

「いっぺんに、そんなに入れたら、ダメよ。二つに分けて!」

と小浪。

気がついたら、小浪がフライパンをもって、器用にフライパンを

振りながら、ご飯をひっくり返していた。

ご飯粒が、そこら辺に飛び散っていた。

塩・胡椒で味付けした。

だれかが、「醤油入れたら、もっと旨くなるんじゃない」

やってみたら、意外や旨い。

 

なんにもしない。ただ見ているだけ。

森の空気がおいしい。

何を食べるより、この空気がご馳走だ。

息子や孫たちが、何気なくそこで何かしているのを見ているのが、

とても心地いい。そんな自分をもう一人の自分が見ている。

 

息子たちは濡れたテントをどうたたんで、どういうふうに車に

積むか。誰の車に積むか。相談していた。

そのうち、小雨のなか、男どもでたたみに行った。

そのうち、車に収まっていった。

雨も止んでいた。

 

昼前、太郎、桃子一家は鈴鹿向かって平湯の森を出発した。

秀剛一家とぼくらは、太郎たちと別れて、穂高方面、栃尾温泉の

旅館に向かった。