北朝鮮というコトバには拭いがたいイメージがこびりついている。
テレビなど取り上げられるときは、アナウンサーの声色から
バックミュージックも、何やらおどろおどろしい、効果をねらっているかの
ようだ。
思えば、不思議だ。
こんなこと、当たり前なんだろうか。
誰もおかしいとは思わないんだろうか?
こんなの変だよなと思いつつ、繰り返し耳にしていると、お化けが
出てくるときの「ドロドロドロ」ってな前触れのように、耳慣れてしまう
のか。
「北朝鮮は怖い国だ」「自由がない」「ならず者国家」
そんなイメージをたっぷり浴びている。
そういうイメージから自由ではない。
北朝鮮で行われていることに、共感しているわけではない。
「そうか、それが本気なら、おもしろい」ということがあった。
4回目の核爆発実験のとき、北朝鮮の若い指導者は、「核実験の
目的は、世界から核を廃絶することだと」と聞いたときだ。
世界中の国や人たちが「やってほしくない」というなかで、核実験を
して、そんなこと言っても、まともに受け取ってくれる人は居ないと
思う。
一方、アメリカが核廃絶を本気で実現したいなら、「先ずアメリカが
核兵器はもうすべて廃棄します」と止めてしまったら、話がはやいんじゃ
ないかと思うのはぼくだけだろうか。
「核の先制攻撃はしない」とアメリカが言ったり、北朝鮮もそういう考え
のようだけど、そもそも核兵器が無ければ、こんなややこしいこと、
言い合わなくもいいんじゃないか。
日本政府は、核爆弾の先制攻撃ありき、でやりたいらしい。
恥ずかしい。
現実を考えてみなさい、という声が聞こえてきそうだ。
「敵が攻めたきたら、どうするつもりだ」
たしかに。
どうしようもない。
戦争が始まる大儀名分は、いつも「敵が攻めてくるから」だ。
本心は?
「できるなら、戦いたくない」
ああ、そうなら、戦わなくても済むよう、もっと人間としての知恵を
出し合おうじゃないか。
どうしても、目の前にこんな重大な問題があるんだから、ほって
おけない。
たしかに、そんなとき、ほっておけない。
そんなときほど、ここに現れている状態の健康正常な状態って、
どんなだろう、ってはっきりしていないことには、手を打てないん
じゃないかな。
こんなのが順序じゃないかと、思う。
機械が故障したり、病気になったときなら、こんなこと、だれだって
分かっているんじゃないかな。
朝鮮半島に正常な姿。
北朝鮮と日本の姿。
北朝鮮とアメリカの姿。
いつまでもおわりが無いように見える争いの世界。
ここ、立ち止まって、ゆっくり検討してみないかな?
そんなこと、無理かな?
老年期、妄想というか、実際に身体がままならないと、妄想が
膨らむ。
テッサ・モーリス・スズキ「北朝鮮で考えたこと」(2012年・集英新書)
を読んだ。
テッサ/スズキさんは、1951年イギリスに生まれた。
いまは、オーストラリア国立大学研究学院で、日本近代史の
研究をしている。
2009年北朝鮮・韓国を旅した。
瀋陽から北朝鮮に入り、38度線の板門店へ行く。
そのあと、韓国に渡り、韓国側から38度線を見て、ソウル・釜山
へ足をのばした。
今度は元山に渡り、金剛山までの旅だった。
これは、1910年イギリス人女性のエミリ・ケンプが満州、朝鮮を
旅して記した紀行文をなぞる旅だった。
テッサ・スズキさんは、紀行文を読んで、「ケンプのようにこの国が今ある
ありのままを見たい」と強く思った。
テッサ・スズキさんは、1970年代、韓国を訪ねている。
当時、韓国は朴正煕の独裁政権下にあった。
彼女は語る。
「・・・今わたしが北朝鮮に感じている感情は、朴正煕の韓国を最初に
訪れたときに抱いた感情にどこか似ている。政治体制の本質にたいする
絶望感。そして、残された狭い隙間でなんとか生きている、それも
人間性を失わずに生きている、ふつうの人たちへの深い敬意」
記憶が蘇ってきたことがある。
1972年だったか、20代のころ、民間企業が発展途上国への技術協力の
支援をする団体で働いていた。
技術研修後の実態の調査ということで韓国を10日間、同僚と
ソウルから釜山まで旅したことがある。
ちょうど、朴正煕の戒厳令下で、緊張と貧しさが街から感じられた。
ソウル~釜山の高速道路も出来ていた。道路にあたる住民の立ち
退きは、うんむを言わせないものだったと聞いた。
ある会社の幹部の人と夜、お酒を飲んだ。12時になると、クラブは
閉店になる。ぼくらは、ホテルに帰った。翌朝、市場を散歩していたら、
屋台で酒を飲んでいる昨夜の幹部の人に出会った。聞くと、一晩
一人で飲み明かしたという。
何か分からないが、彼の内側にある熱情やエネルギーを感じた。
このような内から活力、出会う韓国の人たちから感じた。
この国の人たちが秘めたもの、いつか花開くときがあ。
共鳴するものがあった。
テッサ・スズキさんは、エミリー・ケンプの中国・朝鮮の旅や、それをやり遂げた
中国や朝鮮への不変の愛について、感想を書いている。
--エミリーのどのような体験が、あるいは、人としてどのような
特質が、国際政治の反目から抜け出して、そのむこうにある
人の顔に到達する方法を見つけ出すてがかりとなったのか
わたしにはわからない。しかし、中国を旅するエミリーの姿が
聖なる山に向かっておどろくべき旅に出るあの仏教巡礼者たちの
それと重なってみえることがある。--行く手を阻む岩山を
よじ登り、耐えがたい身体的苦痛を耐えて、はるか雲の上の、
大気は薄く、光は明るく、心は澄みきったところに到達しようと、
旅に出るあの人たちの姿と。
わたしは改めてケンプの自画像を手にとり、じっとこちらを
見すえるまなざしを見つめ返しながら考えるーー
はたしてこの寡黙と冷静さは、声にならない叫びの絶えることの
ない反響を必死に抑えつけているのか。
それともこの人は、旅するなかで想像を絶する苦しみを超越して
ある種の穏やかで人間的な了解の域に到達したのだろうか。
「北朝鮮で考えたこと」は、ケンプの紀行文を辿りながら、テッサ・スズキ
さんが、今の北朝鮮・韓国をありのままに見ようとした記録だ。
見えたことを、飾り無く率直に語っているように感じた。
内容は、時間があれば、直接読んでもらえたらと思います。
1970年ころから、韓国に関心をもち始めた。
そのころは、韓国にいまの北朝鮮みたいな暗いイメージがなんとなく
ぼくらにあった。
そんななか、あるとき石川逸子さんの詩に出会った。衝撃があった。
「海を渡ってきた詩人」 石川逸子
「断チ裂カレタ山河アーーッ」
おだやかに話していたひとの ふいの絶叫
「北の古里には 九十一歳の母・・・
動乱以後 便りを送るすべもない
日帝支配三十六年 分断四十年
私の青春はこの二つに奪われ
いま七十一歳の翁です」
ソウルで焼き芋屋の屋台を引いた
老詩人・李基烱の眼はハツラツと光り
敬慕する呂運了を語る
「八・十五のあとの先生のひとこと
日本人は一人も射ち殺してはいけない
無事に国に帰ってもらわねばならない
為に多くの日本人の生命が助かりました」
四十五年ぶりに海を渡ってきた
老詩人の精神(こころ)の桃のようなみずみずしさ
その精神に吹かれ
「夢陽呂運了先生追慕会」会場を出る
蒼黒い首都の空の上に ほんわりと三日月
海のむこうの裂かれた地でも
老詩人そっくりのオモニが
じっとこの月を仰いでいようか
<揺れる木菫花・1991>
実は、詩人の李基烱さんを知らないし、呂運了さんも歴史の記述で
植民地時代の韓国人としてどんな経歴の人だったかを知るだけだ。
「日本人を一人も射ち殺してはいけない」
このコトバが、ぼくの心にそのまま入ってきて、しばし語るコトバが
出なかった。
韓国を考えるとき、北朝鮮を考えるとき、このコトバがいつも心の
どこかで生きている。
どういう世界から発せられたものか、目の前の現象やそこからの
感情だけにおさまらないもの。
このコトバのむこう、沈黙のむこう・・・