かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

何のために誰がために

2016-09-11 08:54:32 | わがうちなるつれづれの記

沖縄東村高江にある森のなかに、アメリカ軍と日本政府がオスプレイの

ヘリパットをつくろうとして躍起になっている。

そこに暮らす人々や沖縄の人たちは「つくってほしくない」と意思表示して

いる。

日本の政府の官房長官から「全部が反対しているわけじゃない」と聞いたことが

ある。

暮らしている人たちの声を聞きたいと言うなら、もっとしっかり聞いてほしい。

「つくってほしくない」という意思表示があるのに、それを強行しようとする

根拠が分からない。

何のために、誰がためにそうしようとするのか?

 

20代のころ、、アメリカがベトナムに武力で介入して、ベトナムに人たちと

戦争状態になっていた。

その時の自分は、そのことをわが事のように感じていた。

人が人を殺す、殺すことができる、この根拠が分からなかった。

人を殺したくないし、殺されたくもないと思っていた。

1967年だったか、佐藤首相がアメリカに行って、ベトナム戦争に協力

するという。

「戦争に協力したくない」と意思表示したかった。

たまたま、佐藤首相が渡米するとき、羽田空港で首相の乗った車の

前に寝そべって、それを止めようという仲間に加わった。

広い道路に11人が実際、寝そべった。

もちろん、すぐ警察に排除され、逮捕された。

 

何でか思い出せないが、大学に入る前から、中国とかアジアに

関心があった。大学の第二外国語も中国語を選択した。

満州事変から15年の戦争で、3000万にのぼる中国はじめアジアの

人たちを殺して来たという歴史を知って、衝撃をうけた。

アメリカとの戦争に負けたというイメージが、ぼくのなかで徐徐に

変わった。

韓国併合で日本は何をしたのか。中国では、南京虐殺にとどまらず、

そこでやってきたことは、中国の人たちの記憶に刻まれたし、そこに立ち会った

日本の兵士にも、同じだったのではないか。

そのほか、アジア諸国で、解放と言いながら、シンガポールの虐殺など、

そこに暮らす人たちには拭えない記憶になって残っているのではないか。

 

その頃、ぼくはヒロシマやナガサキにも関心があった。

ヒロシマには何度か出かけた。

沖縄にも、何か思うものがあった。

大江健三郎の「沖縄ノート」を読んで、ぼくの中で、沖縄はどうなっているのか、

そこをよく見てみないと、軽々しく考えられないなみたいな受け取りがあって、

一度は訪ねてみたいという気持ちがどこかであったけれど、「まあ、いまは

時期じゃない」みたいにしてきた、

・・・今思えば、そんなんだったかもしれない。

 

振り返って、そんなことばかり考えながら暮らしてきたわけではないけど、

何で人と人が争い、不条理な苦しみに見舞われる人たちがあとを絶たないか、

自分にとっての大いなる原問題だった。

イスラエルとパレスチナの人たちにも思いを馳せた。

 

昨年の夏のはじまり、沖縄を1週間訪問した。

沖縄に親しい人が現れ、その人のところに滞在して、沖縄を見て回る

旅になった。

ずっと、自分のなかのイメージでしかなかった沖縄、その沖縄の風や

人に実際に触れて、いくつかの感想をもった。

 

一つ。沖縄の人に触れていると、のっけから家族のような扱いをうけて

いる感じがした。初対面で、挨拶なしに、自分のことなど、旧知かの

ように話す。

居酒屋で、もと警察署長という親父さんが、いっしょに歌おうと寄ってくる。

誰もがそうかどうか分からないけど、親しさが人と人の間のベースに

なっているのかなと思った。

二つ。日本敗戦に先立って、地上戦が戦われたのは、日本で沖縄だけだ。

「捨石」になったともいえるのではないか。

「今、暮らしているこの街の下を掘ると、地上戦の残骸がすぐ現れてくる」と

何回か聞いた。戦いの跡地の上に、沖縄の人たちは暮らしている。

三つ。米軍支配が、沖縄の人たちの深いところの実感としてある。

友人はつぶやいた。「アメリカの車には近づかないの」

事故があったら、最後は、米軍が決済して、当てられ損だという。

米支配は、日常のささいなことから、大事故・大事件に及んでいる。

四つ。辺野古の新基地をつくらないでほしいと、座り込んでいるテントを

訪れた。山城博治さんや島袋文子おばあにも会った。彼の話や立ち居

振る舞いに触れて、ここに座り込んでいる人たちは、「つくらないでほしい」

という気持ちを伝えたいし、出来れば話し合っていきたい、という気持ちが

あるんだなあ、と感じた。

”非暴力”、というコトバの以前に、ふだんの暮らしのなかの不自然さに

抗っていると見えた。新基地は、尋常ではない。

 

この訪問のあと、本土に帰り、いままで以上に沖縄のことに関心が

いくようになった。山城さんや島袋のおばあが出てくると、身近な

気持ちが出てきた。

海上で保安庁の人たちに暴力的な扱いを受ける場面を何回も見た。

非暴力といいながら、そこに直面した一人ひとりはどんな気持ちだろうと

心が痛んだ。

非暴力といいながら、身体で暴力を使っていなくとも、心のなかに怒りや

憎しみがあることへの自戒があることが、いろいろな言動や振舞い方から

伝わってくる。

 

何ヶ月か前、20代に羽田空港で寝そべったとき、仲間がつくった小冊子

を読み返してみることがあった。

「非暴力つうしん」創刊号(1967年12月8日)

この小冊子は、たぶん創刊号を出して、そのあとは出ていなかったと思う。

 

このなかに、鶴見俊輔さんの文章があった。

「回路の設計・・・のれんに腕おし」

ーー・・・20日ほど前、ゲーリー・スナイダーに会った。さりげなくくらしていた。

  船員をしたり、木こりをしたりして金をつくり、あとは放浪したり、座禅を

  したりしてくらすという。戦争反対の座り込みもするし、獄にも入る。

  そういう暮らし方で、表現の悪を内側からなくしている感じがした。

  他人にはたらきかけようとすると空虚がおこる。

  ・・・・だが、私は、その日自分の眼で、羽田の自動車道が十一人の

  身長をあわせれば、ほとんどとじるという事実を見たことを忘れない。

  ・・・・それは、私たちの日常生活が、自動車の前に投げ出す時と同じ

  ように倫理的に高められてほしいという希望では決してない。

  挫折感は、激烈な行動と日常的な行動に深い切れ目があるときに

  起きるということだけを言いたいのだ。

  直接行動が毎日のあいまいな気分ををひきずって行われるように

  なるか。毎日の生活が直接行動を与えるある種の気分をかくれた小さな

  一部分としてもつようになるか。

  その回路の設計が問題だ。

 

当時のぼくは、何か心にグッと迫ってきて、わが身を顧みようとしたと記憶

がある。何回読んでも、府に落ちる感じがなかった。

今回読んでも、「表現の悪を内側からなくす」とか、「かくれた小部分」という

のは。どんな感じのことを表現したかったんだろう?聞いてみたいなあと

思う。いまは、もう鶴見さんはいない。

 

沖縄高江の森のヘリパット建設。

「つくらないでほしい」というそこで暮らす人々、沖縄から基地をなくしてほしい

と願う人々の意思表示を圧倒的な力で排除して、強行しようとしている。

何のために、誰がために!

 

アメリカ軍やアメリカ政府やアメリカの人たちに、恥ずかしいことしてるかもと、

立ち止まってみる人が出てこないだろうか?

ここをすすめようとしている日本政府やそこにかかわる人のなかで、

そんな人は出てこないだろうか?

 

昨日の夜に出会ったコトバ。

<ひとりの人間の痛みがもうひとりの痛みと結ばれると、ときに痛みが癒される

ことがあります。あなたのきまり悪さと私の恥じとが一緒になると、もはや

不名誉でも恥でもなくなる>

(大江健三郎往復書簡「暴力に逆らって書く」・・・アモス・オズとの往復書簡

 P96アモス・オズ 1998年7月の手紙)

アモス・オズはイスラエル人だ。