かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

そう思ってやっていたら、そうなっていくか?

2011-07-18 18:53:39 | サイエンズ研究所のある暮らし
 誰とでも仲良くなりたいと思って、そういう思いから、何かをしていたら、いずれそうなっていくのではと、考えてきたようだ。そういうときの自分のなかは、どうなっているのだろう?こころの目が外を向いているようだ。ああしたらどうか、こうしたらどうだろうかと、忙しい。
 良かれと思っていろいろやる。自分の目から見て、思ったようにいかないときは、また次の手を考える。
 やっても、やってもならない時は、自分を見つめる努力が足りないからだと、自分をもっと正しいものにしようと、また努力する。良いことに向かっていると考えているからか、じぶんが努力しているという意識があまりない。
 
 「技術出し惜しみの批難に対して」のなかの一節。
 「自分が先取りしてからでなく、自分より遅れている人、弱い人の手を曳いて誘い合い、待ち合わして、同じ歩調で進みたいです」
 ”自分が先取りしてからでなく・・”
 じぶんをなんとかしたいというような思いの時って、いままでは「じぶんは真面目にじぶんに向き合っている」ぐらいに、自負の気持ちさえあったように思うけど、最近はどうも、このへんが、あやしい、あぶないのではないかと、感じるようになてきた。
 「心の狂った人の部類」という言い方もあるけど、もともとじぶんのなかにあるまともな心、たとえば「自分一人で生きていけない、たえずひととともにの心であふれている」のに、じぶんでなんとかせにゃならんという狭
い、小さい、暗い世界、このあたりを、こころが狂っているというのではないか。
 「ひととともに」と口先の人、そう頭では思っていても、「豹変しそうな
人」、じぶんのなかのどこを見るか、ともに生きている凡ての人々のなかの、どこみていくか

小出夫妻、ブラジルに帰る

2011-07-17 23:32:52 | アズワンコミュニテイ暮らし
 小出農夫也・恵子夫妻は、ブラジルのカンピーナスで暮らしはじめてから、15年余になる。
 昨年暮れ、小出さんが、たまたま撮ったレントゲンに影が見つかった。肺がんの可能性を医師から告げられた。考えて、日本で治療するというので、今年1月末、日本に来る。ヤマギシの豊里実顕地に滞在、がん治療をしてきた。肺がんの切除手術、そのあとの抗がん治療。今は転移は認められないとの診断を受けた。一安心。
 16日朝、お二人で訪ねて来た。「明日、ブラジルに帰る」と聞いた。

 
 小出さんは、じぶんのなかで起きていることを、たいそうには表さない。
 「がんと判ったとき、どんな気持だった?」
 「うーん、はっきりそうだとなったわけではなかったけどね・・」
 摘出手術のあと見舞いにいったとき。
 「どおう?」
 「痛いんだ。切ったところが・・眠れなかった」
 一晩の看護婦さんとのやりとりや、痛いという状態について具体的に説明してくれた。
  
 奥さま恵子さんは、にこにこ笑って聞いていた。

 長女は、結婚して二人の子供がいる。
 次女は、25歳、思春期からブラジルで育ち、ブラジルで暮らすのが無理ないようだ。いまは、日本に来ていて、パテイシエ、お菓子の職人を目指して、お菓子やさんで働きながら、勉強している。

消えたコトバ

2011-07-17 17:18:27 | わがうちなるつれづれの記
 いつのころからか、福島第一原発についての報道からメルトダウンというコトバが消えた。それに替って「循環注水方式」といういうコトバを見聞きするようになった。
 メルトダウンというのは、原子炉内の燃料棒が溶融して、塊りになって原子炉圧力容器内の底に落ちている状態と聞いている。メルトスルーは溶融した核分裂の塊りが圧力容器の底も破って、原子炉格納庫まで落ちて行くと聞いている。たしか、ここまでは、その可能性があることを東電や政府は認めていたと記憶している。
 最近、聞いた元原子炉技術者の話では、原子炉格納庫は溶融した塊りが落ちてくることを想定して、作られていない。もし、そこまで来たら、その床を突き抜けて、地下に浸透していく外ないということだった。
これを、メルトアウトというらしい。
 地下に浸透するとしたら、ヨウ素・セシウムに止まらず、ストロンチウムやプルトニウムなど半減期の長い、猛毒の放射性物質が地下水に流れ込む可能性がでてきているという。地下水に流れ込めば、海をはじめ、あらゆるところに放射性物質が拡散されることになりかねないそうだ。
 もし、そういう可能性があるとすれば、関心がそちらに向かざるをえない。
 細野原発事故担当大臣は、原子炉を冷却するための循環注水方式が順調に稼働しはじめており、原子炉の安定冷却を目標にしていたステップ1が完了したという見解を発表した。
 だいじょうぶだろうか?実際、メルトダウンしている溶融物のことが語られていないが、それは原子炉内にじっとしていてくれているのだろうか?あとで、よく調べたら、地下に浸透していましたと、そんなことになっていないだろうか?
 ありのままを語れる社会気風になって行きたいものだ。どうか、どうか、それまで、被害が少なからんことを・・

孫むすめの言い分・・

2011-07-17 15:48:21 | 家族あれやこれや
 娘桃子と二人の孫、小学4年生の女の子と5歳の男の子が、我が家から筋一つ離れたマンション一階に暮らしている。昨年末、大阪からここ鈴鹿に引っ越してきた。小さい庭があって、トウモロコシとかナス、枝豆など植えている。この猛暑続き。野菜畑の脇にビニールのプールがセットしてある。
 この7月16日土曜日、娘から電話。「風友(ふゆ、長女)のダンス教室で白子に行ってくる。2時40分ごろ帰る。晴空(はるく)がお隣の女の子と、プールで遊んでいる。帰ってくるまで、こっちに来て、いてほしい。」
 娘のマンションに行くと、晴空とお隣の娘さんが、キャキャと水遊びしていた。隣の小さい娘さんもやってきて、いっとき大騒ぎだった。そのうち、しばらくお隣さんに一団が消えた。そして現れた時は着替えていて、晴空のテレビゲームを三人でにぎやかにやりはじめた。水遊びは十分に堪能したのか・・
 娘と風友が、ダンス教室から帰って来た。風友のようすがおかしい。そのうち、「晴空の裏切り者!」と叫んで、泣きだした。娘によると、ダンスが終わって、汗だくになっているとき、晴空と一緒にプールに入りたかったのらしい。晴空と、バシャっとプールに飛び込む姿も描いていたかもしれない。ところが、晴空は、隣の女の子とテレビゲーム。
 晴空「なんで、泣いてるの」と母に聞く。母は、「うん、なんでかね」とあいまいに答える。晴空は怪訝そう。

 そのうち、風友どこかに居なくなっていた。娘「おばあちゃんのところかもよ」ぼくも、用済みになったので、我が家に帰る。風友がいた。おばあちゃんと、なにか話している。そのうち、南側につくったゴーヤの棚から、「ゴーヤ採ってもいいか」と言いだした。3,4本、大きくそだってきている。「よし」いっしょに採りに行く。高い。「じゃあ、肩車するか」「いやや」「まあ、乗ってみい」肩車してやった。一本採れた。
「やった!」そしたら、もう一本と言う。もう一回。孫の身体はずっしり重かった。
 風友の怒りは、晴空にとっては、理不尽なものだろう。風友の思い込みのなせる、自作自演の出来事であったかもしれない。でも、風友の気持ちから言ったら、それはわくわくするような期待だったろう。
 あとで、「風友は、晴空とプールに入りたかったんだろう?」と聞くと、それには答えず、「帰る」といって、ゴーヤを二本もって、玄関から歩きはじめた。

スローライフの会に招かれて

2011-07-17 06:15:42 | わが健康生きがいづくり三重の会記録
 なにかのめぐりあわせを感じた。また、じぶんが老いについてどんなイメージを持っているか気がついたし、老いとはどういうことか見直すキッカケができたように思う。

 ほんというと、その夜、片山弘子さんと一緒に大原興太郎先生宅に向かったが、そこでなにがあるのか、どちらかといえば、チンプンカンプンだった。先生の家は、津市の北西部にある豊里ネオポリスという団地のなかにあった。弘子さんは、何度も先生に電話して、場所を聞くが、なかなかわからない。反対方向に走ったりしながら、最後は先生に迎えにでてもらって、やっと定刻30分ほど過ぎて到着。


 本棚に本がぎっしり詰まっている一階を通って、二階に案内された。そこには高齢の人やぼくぐらいの老年の入り口に居る人が5,6人、すでに座っておられた。一瞬、正直、「あれ、老人会にきたのかなあ?」と思った。
 大原先生は、その会の夕食の準備を女の人とやっている。座っている高齢の方が、いとも腰軽く階下におりて、食器を運びはじめる。つい、ぼくも立ち上がる。弘子さんはカレー皿にご飯を盛った。女の人が、タレにつけてあったマグロの切り身をその上に何枚かのせる。先生は、青シソを添える。ぼくが、出来た皿を二階にあげる。階段の途中に出席者の一人が待っていて、中継する。おそらく上では机にならべている人がいるだろう。

 キューリのあえもの、海藻のサラダ、きゅーりの糠ずけ、先生のつくったミニトマトなど、持ち寄りの品々。


 ひとしきり食べたあとで、片山弘子さんが、プロジェクターで「鈴鹿カルチャーセンター」のホームペ-ジを大写しにしながら、その活動の紹介をはじめた。このあたりで、この会の今夜の話題がなんなのか判ってきた。


 この会は、大原先生が提唱してできたスローライフ協会の定期会合だ。その日は10人ほど集まった。三重県農業大学校の先生や津市でお店をだしている方、それに南伊勢町から三人の人もいらしていた。
 三人のうち、東さんは、南伊勢町泉で、ミカンを栽培している。同じく南伊勢町古和浦の野田さん、180頭の牛を息子さんと飼っている。70歳超えてみえる。同じく切原の右田(みぎた)さん、炭焼きなどやっている。 
 お三方の話を聞いていると、南伊勢には「楽農会」という有志の会があるようだ。野田さんが、「酪農」していると聞いて、「楽農」といっとき、混線してしまったが・・
 
 右田さんは、炭焼き窯に時々、街の子供たちを受け入れて、炭焼き体験をさせている。「”おくどさん”もある。これで、ごはんを作ったりする。けっこう、上手に炊くんだね」どうも、これからの子どもたちに受け継いでほしいものがあるらしい。目が輝いてみえる。
 野田さんは、芦浜原発のことで、30年青春のすべて、それにかけてしまったという。「そりゃあ、村のなかが、険悪になり、会合があると、身体を張って向かいあった。それにしても、福島のことがあって、原発を
受け入れなくてよかったな」
 弘子さんの話や、みんなの話をじっと聞いていたのが東さん。「どこの村でも町でも、山や海が荒れてきているのは同じやな。鈴鹿カルチャーセンターの話を聞いたら、いろいろ教えてもらわにゃと思うな。わしらには、刺激がいるわな。ぜひ、わしらのところにも、話にきてほしい」東さんは、「楽農会」の会長さんだとか。瑞々しい発言に聞こえた。
 
 南伊勢町には、海外青年協力隊を経験したことがある若夫婦が田舎暮らしを希望して、10年前に移住してきた。「いろいろ考えてやっておる。こんどは、麦をつくって、パン工房をはじめる。大豆もつくって、味噌にするとか、若い者がやっている・・・」
 
 お三かたの話を聞いていると、愚痴やぼやきみたいなものを感じない。子供のこころのような、いまを楽しんでいる喜びのようなものさえ感じた。
 南伊勢町には、6月末に、行ってきた。「健康生きがい協議会みえ」というネットワーク組織で、さざら浦で通所介護をやっている会員さんを訪ねたのだった。山が荒れ、海が荒れ、人が減って行き、高齢者の割合いが半分を越える。農も魚業も産業的には、担い手がいなくなる。「それ、どう考えるのだろう」と宿題になっている。
 その夜、会が終わったのが、9時半ごろ。南伊勢の人たちは、かたずけはいいというけど、みんなで、食器類をリレーでかたずけた。三人の方は、いまから2時間かけて、南伊勢へ帰る。「すごいことだなあ」と思う。なにが、この方たちをつきうごかしているのだろう?というより、その一挙手一投足が淡々としていて、一見、熱いものが感じられないのであった。ところが、どうして・・・
 老いというのは、どういうものか、老いて、なにか子ども子どもしてくる、そんな姿が描けそうだった。