梅雨の入りのころ。永野さんがFBでかたつむりの写真を載せていた。
この頃は、かたつむりはわが暮らしの周辺では見かけなくなっている。
写真を見て、久しぶりに、その姿にお目にかかって、なつかしい
気持ちになった。
永野さんは、かたつむりが感染する菌をもっているので、触るのは注意
したほうがいいと、注意書きをしていた。
ちょうどその時、6月末の句会の投句を思案していた。
かたつむりを季語にして、一句、ひらめいた。
そこで、ひねり出したもの。
かたつむり38億年を渡りけり
38億年というのは、アフリカやオーストラリアで発掘された化石から、
この地球上に生命がはじめて誕生した、その痕跡が発見され、それが
解析の結果、38億年前だったと言われている。
大阪の高槻市に生命誌研究館がある。
生命誌の提唱者中村桂子さんが開設した。
研究館には生命誌絵巻がある。
この絵巻を見ていると、この地球上に多様ないきものが生息しているが、
これが語っているのは、その先祖は一つということ。
扇の要から見なくとも、自分がどうしてここにいるのか、それを辿っていくと、
母がいて、父がいて、その母がいて、父がいて、とどこまでも遡れる。
辿ってけば、38億年の生命誕生にまで行き着く。
記録はなくとも、そういう、これまでのあらゆるものとの関連がなければ、
いや、そういうさまざまの存在や出来事の関連があったればこそ、いまの
自分は漸くここに、こうして存在している。
生きとし生けるもの、みなこの関連の中にあり、自然のなかにあり、
この扇のなかにいる。
中村桂子さんは「科学者は人間である」という著書のなかで書いています。
「目の前を小さなアリが這っていると、なにげなくつぶすこともあるのでは
ないでしょうか。でもその時、このアリの中に38億年という時間がある、
それだけの時間があって、このアリがここにいるのだと思ったら、そう簡単に
つぶせなくなります。いのちの重みという言葉には多くの意味が含まれて
いますが、このとてつもなく長い時間も重みの一つに違いありません」
かたつむりを季語にした俳句は、こんな気持ちからポッとできました。
中村桂子さんは、科学者の人たちに自戒込めて、こういう実際の
中にいるにもかかわらず、意識や心の状態があたかも、こういう扇、
自然や関連のなかには居ない、その外にいるような錯覚に陥って
いないか、警鐘を鳴らしていると受け取った。
省みて、ここにこうして、生きている、日々暮らしているぼくらは、そういう
実際をどんなふうに受けとめているのだろう?
もしかしたら、そんなこと殆ど考えたことはないし、関心もない場合も
あるかも。(心の深いところでは、そうかどうか分からないけど)
そういうことは聞いたことはあるし、知識としてあっても、まさかそれが
日々の何気ない一挙手一投足にどのように現れているなんて、思っても
みないかもしれない。
アリやかたつむりならまだしも、蚊やゴキブリに出会ったりするとムラムラと
いろんな気持ちが、意識とは別に湧いてくる。
まだまだ、自分のなかで一つの世界の住人にはなり切れていないのかなと
思ったり。
蚊やゴキブリが好きになれなくとも、少なくとも、自分とは異質ないきものじゃ
ないような、すこしゆとりのある心の状態って、あるよう気がする。
何とか、そう思うおうというのでなく。
1990年代に、中村桂子さんがNHKの生物の講座で、一個の受精卵が
分裂を繰り返しながら、人間の身体ができてくるという話をしていて、
とても面白かった。
とくに、分裂していく細胞はあらかじめ、「おれは心臓になる」とか「脳」に
なるとか、決まっているわけではない。その時の細胞間の相互の関連の
なかで、状況によって何にでもなれるという。
おどろいたのは、手の部分は指に分かれていないでつながっている
のが、指の間の細胞が自分で壊死して、指ができてくるという。
飛躍するようだけど、この細胞の話から、社会が形成されていく過程も
こんなふうになっていくのが、理に適っている、あるいはそういう理が
一貫しているじゃなかろうか?
それが、細胞のなかの遺伝子やゲノムの働きにとどまらず、自然界を
貫いて働いているらい。
人間にも、人間社会にも、そいうものがあるのではないか。
そういう働きに適った暮らしがあるのじゃないか?
かといって、そういうことを知ったら、そうなっていくとかいうのじゃ
ないようだ。
もし、そういうものなら、こんなに人間はこんなに自然界と対立
したり、暴走したりはしていないだろうな。
このような自然界の理を知ることと、その理に適った、あるいは
適っていこうという心の状態、ここに焦点を当てていくことかなと
最近、思っている。
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