かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

いざ観察してみようとしたら・・・

2012-03-14 07:06:41 | サイエンズスクールのある暮らし
 もう3月もなかば。
 なのに、寒さで縮こまっている。
 隣人吉田順一さんのブログを見ていたら、この11日は鈴鹿の
神戸町にある龍光寺の”寝釈迦まつり”があった。忘れていた。
 昨年は、東北大震災、津波の惨状をテレビで見た翌日で
「こんなとき、まつりでいいのかなあ」とおもったりした。
今年はテレビをつけると「震災1年」のニュースをどこでも、
やっていて、津波後の光景や人々の語りなど、目や耳に入ってきて、
そういうもののイメージで知らずに満たされているのを感じる。

 じぶんの目や耳や鼻などは、周囲・外界をとらえるのが得手だし、
そのようなためについているのだろう。
 でも、いつのころか覚えていないけど、子どものころのどこかで、
人の気持ちやじぶんの気持ちを見たり、聞いたり、受け取ったり
してきているようにおもう。
 目では見えないけど、耳には聞こえてこなくても・・
 
 人の気持ちは見えないし、声に出さない限り、分かるのはむずかしい。
 じぶんの気持ちも、けっこうそんなものかもしれない。

 いつのころからか、この目で見たから、この耳で聞いたから、
「それは、そうだ」「もう分かった」というものが、当たり前すぎる
くらいにあたりまえになっているようだ。

 日常化レッスンの2日目。
 他の人の実例は、見えやすい、じぶんの実例を口に出し始めると
しどろもどろになる。迷路にはまっていく感じ。
 
 朝7時ごろ、三由紀さんから電話。
 携帯に「三由紀」という文字を見たとたん、「ああ、またなにか起こるぞ」
という反応。
 「肉が弁当屋にまだ届いていない。いまから、運んでほしいんだけど・・」
 「やっぱり」とぼく。
 「きのう、運んでおくと言っていたじゃやないのか?」とも。
 いま、やろうとしていたことがあって、すぐ「やる」と言えない感じ。
 「できるかな?できないなら、こっちでかんがえるけど」と三由紀さん。
 「できるといえば、できないことはない」とかおもう。
 ことの次第は、三由紀さんの方で、肉を運ぶことになったけど、この
やりとりの焦点をどこに当てるのか。

 これだけでも、焦点を当てたらおもしろそうなところがいくつも、ありそう。
 これは、こうやって、ブログに書いてみておもう。
 きのう、この実例を出しているときは、話ながら、何が言いたいのか、
どこがポイントか、分からなくなっていった。

 きのうは、「運んでほしい」という声をじぶんはどう聞いたか、
どうとらえたかでしらべた。
 しばし、見てみる。
 そのとき、じぶんは何をおもったのか。
 おもったというには、そのようにおもう、無意識であれ、なにか元の
こころの状態とうものがあるのではないか。

 「”運んでほしい”というのは、三由紀さんの気持ちを言ったのではないか?」
と佐藤さん。
 はっとした。
「そう、ぼくは三由紀さんの”運んでほしい”を、気持ちとして受けとって
いないようだ。”運んでちょうだい”とじぶんに指示してきているように
とらえている」
 「あれー、”運ぶ””運ばない”に関心がいっている。そこに人間、三由紀
さんが”どういう気持ちでいるか”などに関心がいっていない」
 

 「人が、他の人のやることを指図したりできるだろうか?」と佐藤さん。

 「そうだよな、人がいくら”やれ”と命令調で言ったとしても、
”やらそう”とその人はおもっているとはいえるけど、じっさいは
人が人をじぶんのおもいのままに”やらす”ことはできないのではないか」

 できないことを、できるとしている、こころの状態。
 ”指示される”というのがあるとすれば、指示するというのも、ある
だろう。
 ”させる””させられる”というこころの状態が、どうもいろいろな
反応のもとにはありそう。
 
 できないことをできるかのごとく、おもうのは錯覚だよね。
 錯覚とか、かりそめのこと。

 「あはは、実際に生きているとか、暮らしているとかいいながら、
かりそめに生きているとしたら、こんな滑稽なことないなあ」

 他の人の実例には、「おかしさ」がありあり見えて、実に屈託なく、
笑うことができる。

 じぶんの実例でじぶんのなかを観察する、いざやってみると、
「なかなかだなあ」というのがでてくる。
 
 そのように分かったからといって、そうなるものではなさそう。
 子どものころ、自転車に乗ろうともがいていたときのことおもいだす。
 「こんなことできないんじゃないか」とおもったりもした。
 でも、ほかの人はすいすいと乗っている。

 なぜ、そんなにまでして自転車に乗ろうとしたか?
 なぜ、そんなにまでして、じぶんのなかの状態をみようとしているのか?
 自問だけは、やめないようにしようとはおもっている。