かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

消えた街と人、まぬがれた街と人・・・仙台・石巻の旅(5)

2011-11-06 19:09:37 | アズワンコミュニテイ暮らし
 石巻に住む高橋真也・和子夫妻は、今回の大地震と津波で家を流された。
 石巻訪問は、事前に白鳥牧美さんと綿密な日程を組んであった。

 10月30日(日)朝8時ごろ、われら3人は高橋真也さんが運転する車に載って、「ふくや」さんを
出発した。
 真也さんは、「塩竃に出て、海岸沿いの道で行こう。震災後、まだ走っていない。通れないところも
あるかもしれない。その時は、その時で・・」と言った。
 この地方の街については、はじめて。震災では、仙台以北の太平洋沿岸の地名をたくさん聞きて、
地図で見たりした。それらの街が、どこの位置にあるか、なかなか覚えなかった。
 「道はきれいにかたづいているなあ」と真也さん。
 車も渋滞していない。
 意外に早く、松島の瑞巌寺あたりまで来る。
 静かだった。観光バスが一台も見当たらない。
「日曜日だろう。観光客が来ないんだな」と真也さん。

 「この辺は、沖の島々が自然の防波堤になって、松島地区は津波の被害に遭っていないんだ」
 「海がそこまで迫っているのに・・」ぼくらは、砂浜を見つめた。

 真也さんは、松島の東南に位置する岬、奥松島に寄り道してくれた。
 奥松島にある展望台に登る。
 頂上から太平洋を背にして眼下を見ると、左は松島の湾、被害なし、右側、石巻に通じる海岸線、
はっきりは見えないけど、あったはずの建物の姿があまり見えない。



 石巻に通じる海岸沿いの道を北上した。
 右側には、人気のない、一階部分がメチャメチャになった家々がずっと続く。




 ほどなくして、石巻の街に入る。
 「日和山と言う高台から、石巻の街を見てみましょう」

 今回の旅の前に、石巻日日新聞社編「6枚の壁新聞――東日本大震災後7日間の記録」という本を
手に入れた。来るフェリーの中で、読み終えた。
 「日日新聞」に記者たちも、あちこちで、各人各様に被災している。ある記者は一旦は津波に
のまれ、海まで連れていかれたが、奇跡的に助かっている。
 その記者たちが、お互いの無事を確かめあい、そこからまた被災現場に出かけていくという場が
日和山だった。
 
 真也さんは、展望台の南側の眼下に見える、廃墟の街を黙って見つめていた。

 「北側にも行ってみましょう」とぼく」。

 北上川が婉曲しながら、海に注いでいる。
 「橋が見えるでしょう?津波があの橋の方まで遡っていった。ぼくはその時、鳴子にいて、和子の
無事は分かったが、和子の妹や家がどうなっているか、石巻まで車を飛ばして来た。
 あの橋は、もう渡れなかった。それでずっと北の方の山に登って、車が行けるところまで行った。
大きく迂回して、やっと我が家のある付近まできたが、家や車の瓦礫が一面覆うっていて、歩くに
歩けず、どこに我が家があるかも分からず、妹の安否を確かめるすべもなかった」
 高橋さんは、淡々と話してくれた。


 日和山を下りて、海岸方面に行く。
 焼けただれた小学校がそのままであった。
 二宮金次郎の石像が破壊された墓石のなかにあった。



 真也さんは、家のあったところに案内してくれた。
 土台だけがあった。この家は、和子さんが生まれ育った家だった。
 20メートルも行くと、堤防があり、その下は波が静かに打ち寄せていた。




 「あそこに松林があるでしょ。3週間後に、ここに来た時、あそこで引っかかっていた瓦礫のなかに
我が家の痕跡があった。妹が、もしかしたらいるかも・・。自衛隊の人がすぐ来てくれた。
 人が居るかもしれないとわかると、重機も一回一回止めて、慎重に瓦礫をどけてくれた。
 妹が見つかった」見つけたのは、真也さん。遺体の回収は自衛隊の人が丁寧に行ってくれたという。

 仮設住宅に行く。和子さんの家から5,6分。万石浦(まんごくうら)という、公園だったところ。

 「いらしゃい!」と中年の女の人が、ニコニコと迎えてくれた。
 「あれ、和子さんって、こんな感じの人だったかなあ」と思う。
 そしたら、手前野」玄関から、ほんものの和子さんが顔を見せてくれた。
 隣のおばさんだった。ぼくらの来訪を知っていてくれた。
 和子さんと萩原秀子さんは、再会の喜びをお互い交わしていた。

 仮設住宅は、思い掛けず、早く抽選に当たったという。
 和子さんは、石巻の南隣の東松島市にある老人介護施設で食事づくりをしている。
 3.11は、早番で午後2時46分の地震の時は、職場にいた。
「津波が来るというので、家にいる妹をどうなっているか、車で走ったの。途中、これ以上行ったら
ダメだと止められたの。どうしようもないし・・。もし、行っていたら、どうなっていたか」
 
 介護施設も一階まで水が来た。2階に逃げた。
 その後は、そこに寝泊まりした。あちこちから避難してお年寄りも受け入れた。食事づくりも
材料も乏しくて、苦労した。妹の安否確認に避難所も回った。
 遺体安置所の前に貼ってある写真を毎日見て回った。
 「似ていると言うと、実際に中に入って顔を見せてくれる。つらかった」

 仮設住宅は、4畳半の部屋が二つ、台所、風呂・トイレ、冷蔵庫、テレビがある。
「ちょっと、落ち着いた」といいながら、和子さんから「よく、来てくれた」と涙があふれてきた。




 長男勇気くんが載った新聞記事を見せてくれた。
 勇気くんは、ニューヨーク州立大に留学している。
 今回の震災では、友達に募金を募った。
 そして、ふるさと石巻にやってきて、ボランテイアの活動をした。
 それが、地元の河北新報で取り上げられた。
 彼はその後、進路を変え、ネバダ州立リノ校で、「公共災害援助」の勉強をしはじめている。
クラブもレスキュー隊に入って、訓練をしているらしい。
 白鳥牧美さんが和子さんから引き継いだ餃子づくりは、この勇気くんの学費ためだった。
 なにか、やっと合点がいった。


 仮設住宅は、2年。念書を書いている。
 ここの仮の自治会の世話役さんと話す機会があった。
 この方は、カキの養殖をやっていたが、船も道具もすべて流されたと話された。
 これからのこと、2年後のことなど、いま分かろうはずもないだろう。

 何もないと言えば、何もないのだろう。
 不安は、たしかに漠然とあるように見える。
 希望はないのだろうか?

 その昼は、和子さんのつくった、石巻の郷土料理をいただく。
 和子さんは、料理の腕がある。
 こころ尽しの一品一品が心温まるものだった。
 

(つづく)