3.11から8カ月、仙台の旧知の人を訪ねるということは、被災した後、その地が今、
どうなっているか、街や人が醸し出す空気に触れてみたいという気持ちがあった。
「物見遊山か?」そういう問いも、正直あった。
この目で、その場を見ておきたいという気持ちも強かった。
「なにを見ておきたいというのか?」いまは、答えに窮する。
仙台で一泊した翌朝、予定がない時間があった。
当時のテレビで、仙台の名取、若林、閑上という地名をずいぶん聞いたし、津波が海岸から内陸に
押し寄せて行くのをテレビで見た。
われら3人は、仙台駅の案内所で「若林区の津波被災地を訪ねたい」と
少しオズオズと尋ねた。隣に花束を手にした中年の男の人が、若林へ行くバスを探していた。
その方とバスが一緒になった。
彼は、岩手で冬物衣類を届けるボランテイアをしてきた帰りだった。若林地区で津波で
亡くなった知人を供養に行くと聞いた。
バスは海岸から3キロほど離れたところ、”笹新田”というバス停が終点だった。
そこから、海岸近くまで歩く。
道路にはひっきりなしにダンプカーが行き交っている。瓦礫運搬車だ。海の近くの瓦礫置き場に
運んでいる。
一面にひろがる田園地帯。
田んぼの上を覆った瓦礫も、なんとか大きなものは取り除かれていた。たまに、錆びた車が残っている。
海水を被った田んぼの土を削っているところもあった。
復興に向けて、急ピッチだ。
海岸近くの小学校は廃校になっている、校庭には、壊れてバイクが整然と並んでいた。
住宅街だった地域は、コンクリートの土台だけがどこまでも広がって見えた。
瓦礫は片付いているのが、かえって津波の凄まじさを物語っているようだった。
天体や地球の絶妙な保ち合いのなかで、暮らしているのが、実際と言えるのではないか。
ここに立ってみて、現在この地球に暮らす人間、ぼくらの在り様に根本から問われているもの、そういうものが、すぐコトバにはならないけど、心の中で疼いた。(つづく)
どうなっているか、街や人が醸し出す空気に触れてみたいという気持ちがあった。
「物見遊山か?」そういう問いも、正直あった。
この目で、その場を見ておきたいという気持ちも強かった。
「なにを見ておきたいというのか?」いまは、答えに窮する。
仙台で一泊した翌朝、予定がない時間があった。
当時のテレビで、仙台の名取、若林、閑上という地名をずいぶん聞いたし、津波が海岸から内陸に
押し寄せて行くのをテレビで見た。
われら3人は、仙台駅の案内所で「若林区の津波被災地を訪ねたい」と
少しオズオズと尋ねた。隣に花束を手にした中年の男の人が、若林へ行くバスを探していた。
その方とバスが一緒になった。
彼は、岩手で冬物衣類を届けるボランテイアをしてきた帰りだった。若林地区で津波で
亡くなった知人を供養に行くと聞いた。
バスは海岸から3キロほど離れたところ、”笹新田”というバス停が終点だった。
そこから、海岸近くまで歩く。
道路にはひっきりなしにダンプカーが行き交っている。瓦礫運搬車だ。海の近くの瓦礫置き場に
運んでいる。
一面にひろがる田園地帯。
田んぼの上を覆った瓦礫も、なんとか大きなものは取り除かれていた。たまに、錆びた車が残っている。
海水を被った田んぼの土を削っているところもあった。
復興に向けて、急ピッチだ。
海岸近くの小学校は廃校になっている、校庭には、壊れてバイクが整然と並んでいた。
住宅街だった地域は、コンクリートの土台だけがどこまでも広がって見えた。
瓦礫は片付いているのが、かえって津波の凄まじさを物語っているようだった。
天体や地球の絶妙な保ち合いのなかで、暮らしているのが、実際と言えるのではないか。
ここに立ってみて、現在この地球に暮らす人間、ぼくらの在り様に根本から問われているもの、そういうものが、すぐコトバにはならないけど、心の中で疼いた。(つづく)