前回ブログでは「対話ドグマ」、つまり「対話」こそがコミュニケーションであるという思いこみや強迫観念の虚妄について書いた。それ自体、勿論、新鮮な驚きだったのだが、実はその研究者の何気ない話の中にドッキリする場面があった。その研究者は、コンゴの奥地に家を持たれていて、滞在する時には特に問題意識など持たないで出かけるのだそうである。想像するに、先ずはそこで生活し、観察する中で、問題意識が芽生えるのだろう。何と言うことであろう。私のような企業人は、問題意識や目的意識なしに出張に出ることはあり得ないし、会議に臨むこともあり得ない。思えば何と窮屈なことか。
以前、高名な僧侶の対談を読んだときにも、同じようにドッキリしたことがある。煩悩が生まれるのは、目標を持つから、計画を立てるから、と言うのである。営業の人なら売上予算(ノルマ)を、スタッフなら経費予算を、社長は全社予算を、そしてまたプロジェクトを始めるときには計画(プロジェクト・マネジメント)を・・・私たち企業人は常に計画をもたされ、実際の進捗と比較検証し、微調整しながら、目標を達成するというプレッシャーに晒されている。それが当たり前の世界にいる。ところが、そもそも計画がなくなったら、どれほど気楽なことだろう。
しばし「当たり前」を外してストレス・フリーな世界を想像してみる。しかしそうなったら企業人ではあり得ないのだが。因果な商売である。
以前、高名な僧侶の対談を読んだときにも、同じようにドッキリしたことがある。煩悩が生まれるのは、目標を持つから、計画を立てるから、と言うのである。営業の人なら売上予算(ノルマ)を、スタッフなら経費予算を、社長は全社予算を、そしてまたプロジェクトを始めるときには計画(プロジェクト・マネジメント)を・・・私たち企業人は常に計画をもたされ、実際の進捗と比較検証し、微調整しながら、目標を達成するというプレッシャーに晒されている。それが当たり前の世界にいる。ところが、そもそも計画がなくなったら、どれほど気楽なことだろう。
しばし「当たり前」を外してストレス・フリーな世界を想像してみる。しかしそうなったら企業人ではあり得ないのだが。因果な商売である。