風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

切手の愉しみ

2010-11-09 00:41:12 | たまに文学・歴史・芸術も
 中国にとって、北京オリンピックに続いて上海万博を成功裏に開催しただけでなく、上海万博の入場者数が大阪万博のそれをなんとか越えたことが何より誇らしいことだったと思いますが、私はむしろ、40年も前に、中国の人口の十分の一以下の国で開催された大阪万博が、現代の北京万博並みの規模だったことの方が驚きでした。当時の日本人は、敗戦後四半世紀、国際復帰して20年足らずで到達した万博開催という快挙に熱狂したであろうことが想像されます。勿論、それは大人の世界の話であって、子供の私は、そうした晴れがましさを、浮き立つ気持ちとして僅かに肌で感じた程度でしたが、この万博は子供の世界にも別の形でちょっとした熱狂を残しました。もとより携帯電話やゲーム機もない時代で、経済的に余裕が出来つつあったからこその楽しみと言えますが、各パビリオンに入場した記念としてスタンプ帳にスタンプを集めたことがきっかけで、後に旅行した時には駅や観光地のスタンプを集めたものでしたし、大阪万博記念の切手やコインを買ったことがきっかけで、切手収集やコイン収集することがマイ・ブームになりました。
 なかでも切手の意匠の美しさに惹かれました。何故か印象派の絵画ばかりに人気が集まる日本にあって、写楽や歌麿や広重や北斎などの浮世絵や、岡田三郎助や岸田劉生や伊藤深水などの日本画を知ったのは切手によってでしたし、国立公園や国定公園があること、日本三景があること、そして国民体育大会があることなども、切手から知りました。小・中学校の図画工作で、切り絵の時間に北斎の赤富士(凱風快晴)を選び、多色刷り木版画の時間に高松塚古墳の壁画を選んだのも、今思えば切手の影響があったのだろうと思います。
 そうした意匠の素晴らしさのほかに、切手は国家が発行し、国内・外の多くの人々の目に日常的に触れるものであることから、いわば権力の表象として、時にプロパガンダとして利用されて来た側面に光を当てて一冊の本をものしたのが「事情のある国の切手ほど面白い」(内藤陽介著)。知人に借りてこの週末に一気に読みました。例えば、こんな話題が取り上げられています。
 (1)北朝鮮が1988年に、ソウル・オリンピックに対抗して平壌で開催した第13回世界青年学生祭典の宣伝のために発行した切手は、なんと反核をデザインしたもので、その10年後には長距離弾道ミサイルの発射実験をするという厚顔無恥は、1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ヨーロッパではウィーンを中心に盛り上がり、その後、日本にも飛び火した反核運動が、左翼の市民運動の形を借り、ソ連や中国をはじめとする東側の核については不問に付していたことを反映したものだろうと説明されます。
 (2)オーストラリアと並び、今ではシーシェパードに多くの活動家を輩出するニュージーランドでは、1970年代以降、環境保護運動が社会的な影響力をもつようになり、環境NGOのグリーンピースの活動に同調して、1979年のIWC(国際捕鯨委員会)において反捕鯨国へ立場を転換したのでしたが、先住民のマオリ族は捕鯨を民族固有の文化であり権利であると、今なお主張し、1989年に発行された「ニュージーランドの遺産」シリーズの切手の一枚には、マオリ族が捕鯨を行う様子が描かれるなど、複雑な国内事情を垣間見させます。
 (3)キューバでは、存命中の特定の人物のモニュメントを公式の場所に飾ることを固く禁じて来たのは、革命前に私利私欲に溺れたバティスタ独裁政府と同一視されるのを忌避するためで、カストロとともにキューバ革命を成し遂げた同士ゲバラの肖像が、キューバ国内でも革命の理想を体現したイコンとして溢れているのは、彼が次に革命を目指したボリビアで殺害され、亡き者であったからこそというわけです。ところが、2005年にカストロの肖像切手が二種類発行されたのは、もはや肉体的な衰えが著しく、政治指導力も衰えが著しい中で、キューバ政府は彼の権威を借りているのだろうという見立てです。
 本書は、こうした表象としての切手の背後にある発行国の政治や社会の裏事情を興味深く解説するもので、ここ10年位の間に発行された新しい切手を取り上げていますが、私のように1970年代で切手収集を止めてしまった過去のコレクターにとっても、なかなか興味が尽きません。
 本書の最終章には、第二次大戦後に、切手を輸出して外貨を稼ぐ手法が、ソ連をはじめとする東側諸国だけでなく多くの途上国にも広がり、途上国と、切手の企画・制作から輸出・販売までを手掛ける切手エージェントとの間で、切手の発行権を売買するビジネス・モデルが確立されたことが紹介されています。切手収集家からは“いかがわしい切手(doubtful stamps)”と呼ばれ、公式の切手カタログでは部分的に紹介されるだけの扱いでしかありませんが、そのモチーフには、それぞれの時代の繁栄国へのメッセージ性をもち、その繁栄国のコレクターに訴えて売り込む意図がミエミエです。そう言われれば、私も、大阪万博の際に、外国政府が発行する浮世絵切手を見たことがありますし(日本の切手エージェントが企画したものらしい)、時代は移って、40年後の今年、上海万博を祝うハロー・キティのグリーティング切手が、よりによって日本で発行されたそうで、なんとも皮肉なめぐり合わせです。
 上の写真・下段のダイヤモンド型切手は、本書でも紹介された“いかがわしい切手”の一つで、1970年にシエラレオネで発行され、「鉄とダイヤモンドの国(Land of Iron & Diamonds)」をアピールするデザインになっています(3.5セント)。上段の鳥の形をした切手も同じ趣向のものと思われます(同じシエラレオネ発行、同じキャッチフレーズ「鉄とダイヤモンドの国(Land of Iron & Diamonds)」があしらわれ、こちらはAir Mailと明記され9.5セント)。いずれも私の従兄が、アフリカ諸国を股にかけて商売をしていた当時、妹に送った葉書に貼られていたものです。寝る時には、枕の下に拳銃を隠し持っていて、片時も手放すことが出来なかったと語ってくれた物騒な記憶が蘇ります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立科学博物館・空と宇宙展

2010-11-08 00:54:43 | たまに文学・歴史・芸術も
 今日は子供たち二人と上野の国立科学博物館で開催中の「空と宇宙展」を見に行きました。ライト兄弟が有人動力飛行を成功させたのは1903年のことでしたが、日本でも、1910年12月19日、代々木の練兵場から飛び立った徳川好敏・日野熊蔵の両陸軍大尉が初めて動力飛行を成功させて100年になるのを記念し、航空・宇宙の技術開発の歴史と成果を集めて展示しています。
 展示の多くは日本の航空史上に残る貴重な写真や模型で、多くの航空ファンの興味を惹いていたようでしたが、宇宙への関心をかきたてる下心をもって上の子を連れて行った私にとって、目指すところは「はやぶさ」の実物大モデルや宇宙ヨット「イカロス」と、今日までの期間限定で奥の間に展示されていたパラシュート(実物)で、カプセルを見逃した我が家としては、感慨もひとしおでした。このパラシュートを見ただけで満足して、そのまま常設展示の地球館をぶらぶら散策して時間を潰し、博物館を後にしましたが、常設館(日本館と地球館)だけでもなかなか見応えがあって歩き疲れるほどです。この常設展示だけなら高校生以下は無料で大人600円のところ、特別展は高校生以下500円で大人1300円でした(前売りならそれぞれ400円と1100円)。
 上の写真は上野公園から見た今日のスカイツリーです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早慶戦

2010-11-06 11:38:56 | スポーツ・芸能好き
 先日、早稲田が優勝を決めた早慶戦をテレビで見ました。途中からとは言え、大学野球をまともに見たのは初めてで、50年振りの早慶による優勝決定戦と言うより、いわば斉藤佑樹効果、さらにはドラフト一位投手を三人も輩出した早稲田を一度見てみようと思ったわけです。試合は7回まで斉藤のパーフェクト・ピッチングで、8回に味方エラーが続いたのをきっかけに連打されたのは、心理面と言うより、さすがに中二日では、少なくとも私が見始めた時には、変化球(スライダーの切れ味は抜群でしたが)でかわすピッチングを続けていたところからすると、疲れが出ていたのだろう、それもご愛嬌かと思いますが、後続は、同じドラフト1位の大石がぴしゃりと抑えて、横綱相撲のように圧勝しました。
 早慶戦と言えば、吉永小百合さんを思い浮かべます。早稲田OBの義弟によると、大和なでしこの代名詞のような小百合さんが、顔を隠しながら男まさりの怒号を・・・いや声援を送るのが常だそうですが、確かにテレビを見ていても、叱咤したくなるような、高校野球と大して変わらない長閑さを感じました。そりゃそうでしょう、事実としてドラフトでプロに進む選手は、高校野球と比べて決して多いわけではありません。野球の技量と言う意味では、ある程度、高校生の段階で完成し、そこで一度ふるいにかけられてから、斉藤のように好んで大学に進む例外はあるにしても、大部分は選抜から漏れた遅咲きの高校球児が大学に進んで、好きで、あるいはプロを目指して、野球を続けているわけです。
 試合後のインタビューもふるっていました。斉藤は何か持っていると言われて来たが、それは仲間だと、臭い青春ドラマのような台詞を吐いたわけですが、そこにいかにも斉藤らしさを見ました。それは高卒でプロで活躍する田中まーくんと比べてみれば分かります。まーくんは、目つきが良くないため、闘志を漲らせるとなかなかワルに見えますが、笑顔がかわいい、喋り始めると幼い、そこの落差から愛される、見るからに野球好きの子供がそのまま“なり”が大きくなっただけの腕白小僧といった風情です。しかし斉藤は、高校時代から、話題を呼んだハンカチで汗を拭くといった仕草からしても、ちょっと並みの野球少年とは違い、野球にどっぷりと浸かるわけではない、ある意味ではごく普通の高校生として、好きな野球をして、注目を浴びつつも、自分の思うまま大学へ進み、大学生活も楽しんだ上で、プロの道を歩むと言う、どちらかと言うと清原より桑田、もっと言うと江川卓さんに近い唯我独尊のオトナのタイプの野球人のように感じました。それはそのまま、球威で押すより、頭がよく駆け引きがうまいと大沢親分に評されたプレー・スタイルにも表れているように思います。
 古くは松坂世代(1980年生まれの松坂・杉内・和田・村田・藤川・永川など)が有名ですが(1975年の上原・高橋由伸・松井稼・川上憲伸・岡島などもなかなかですし、1973年のイチロー・松中・小笠原・石井一久・中村紀も錚々たる顔ぶれですが、世代として呼ばれることはありません)、1988年生まれも、今回のドラフト一位の早稲田トリオと中央・沢村のほかに(などと言いつつ、どこまでプロで活躍するか分かりませんが)、既に活躍している田中まーくん、沢村賞を獲ったマエケン、巨人の坂本など、松坂世代に迫り得るポテンシャルを秘めてなかなか多士済々です。特に田中まーくんと斉藤の投げ合いは、野球ファンならずとも話題を呼ぶ待望のカードになりそうです。クライマックス・シリーズはおろか日本シリーズすらも全試合が地上波で放映されなくなったプロ野球を盛り立てて欲しいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六十五回目の夏(8)火事場泥棒

2010-11-03 17:12:46 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回に続き、戦争の記憶に関して、今度はロシア(旧・ソ連)を取り上げたいと思います。
 先日(10月31日)、ロシアのメドベージェフ大統領が、旧ソ連・ロシアを通して国家元首として初めて、日本の北方領土である国後島を訪問しました。ロシアによる実効支配を誇示したものですが、このロシアといい、尖閣諸島問題における中国といい、政権交代が起こって外交がぐらついている日本を試していることは間違いありません。「試す」という言い方は曖昧ですが、日米同盟の絆に緩みが生じ、対外関係に不慣れな民主党が政権を執る日本を、少なくとも彼ら自身の内政問題に利用しようとしていることは明らかで、こうしてロシアや中国に付け入るスキを与えることによって損なわれる国益は甚大です。
 ロシアが利用しているという意味では、既に7月初めに択捉島で大規模軍事演習を実施し、7月末には日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を事実上の「対日戦勝記念日」に制定しており、今回の大統領による国後島訪問はその延長上に位置づけることが出来そうです。
 とりわけ後者については、名称に「軍国主義日本に対する戦勝」といった過激な文言が冠せられていたものを、ロシア大統領府は議員らの法案提出に先だち、その文言を外して正式名称を「第二次大戦終結の日」としたほか、休日扱いにしないなど、日本への一定の配慮を示したとされますが、実態は日本の反発を封じるためのものに過ぎず、現に当時の岡田外相は遺憾の意を表しただけで、日本政府として抗議しないというように、まんまと丸め込むことに成功しました。その制定理由について、ロシア政界筋では、西部では対独戦勝を盛大に祝うのに対し、東部では何もないからだと説明し、5月9日の対ドイツ戦勝記念日と対をなすことは明らかです。しかし、そもそも対ドイツ戦は、1941年~45年の間に2700万人とも言われる犠牲者を出し、「大祖国戦争」と呼ばれて重視されるのと比べ、対日戦は、ソ連が日ソ中立条約を破って宣戦布告した8月8日から、択捉・国後・色丹島を占領した8月28日~9月1日に続き、歯舞群島の占領を完了した9月5日(対日終戦よりも遅い)まで、僅かに一ヶ月足らずの間に、戦死者はロシア側の発表でも8200人に過ぎず、対ドイツ戦との差は、規模、認知度ともに歴然としています。それが、何故、今頃になって対日戦勝記念なのでしょうか。
 この対日戦勝記念日制定の動きは、実は1990年代にも盛り上がり、北方領土を事実上管轄するサハリン(樺太)州の議員らが陳情し、1998年には上下両院で法案が可決されたものの、当時のエリツィン大統領が拒否権を発動して廃案にした経緯があります。そういう意味では、戦後65年が経ち、退役軍人が高齢化する中で、何らかの形を残すには最期のチャンスと捉えたのかも知れません。折りしも日本では北方領土特措法(1982年成立の「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」)が昨年7月に改正され、北方領土が「我が国固有の領土」と明記されたことに対する報復だとする見方もありました。根本的には、米ソ冷戦時代に築かれた二大超大国の地位から転落したロシアにとって、国連安保理・常任理事国に代表される「戦勝国」の地位はますます重要な意味合いを持ち、いわば過去の「戦勝」の記憶以上にロシア国民を統合するものはないとまで言われます。そして、シベリア開発など、日本の経済援助を欲しつつも、下手に出ると領土問題を交渉の材料にされかねないことを懸念しつつ、当の日本が、従来、四島一括返還で一環していたのに、麻生元首相は「面積二等分」論などと言い出し、鳩山前首相は「就任後半年か1年以内に領土問題を解決する」などと一見現実的な目標を掲げながら(半年や1年というのは非現実的ですが)、「友愛」というナイーブな理念を表明するばかりで、同盟国・アメリカとの関係をこじらせた上、外交無策な状態を続ける間に、ロシアとしては着々と既成事実を積み重ねる魂胆といったところではないでしょうか。
 その時の「戦争の記憶」が問題です。ロシアの有力議員によると、旧ソ連軍が極東で日本の関東軍を粉砕し、中国東北部と北朝鮮、南サハリン(樺太)とクリール諸島(日本の北方四島と千島列島)を解放し、それによって(原爆投下よりもむしろこちらの方が)第二次大戦の終結を早めた、というような説明をするわけですが、勿論、史実として見れば、アメリカに助けられて辛うじて対ドイツ戦を戦っていたソ連に、それほどの力があった筈はありません。確かに2月のヤルタ会談で、ソ連は、ドイツ降伏後三ヶ月で日本に侵攻することが協議され、ドイツ降伏が5月7日だったことから、結果としてほぼ予定通りに実行されたと言えますが、仔細に見ると、米・ソの間で、微妙な駆け引きがあったことが分かります。当初は、兵力や武器弾薬が揃わないため、8月22日から25日の間に国境を突破する計画だったと言われますが、アメリカが7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功したという情報が、ポツダムで会談していたスターリンのもとにも届くと、アメリカは早晩日本に原爆を落とすに違いないと察して、侵攻を早めて8月11日にせよと、ワシレフスキー極東軍総司令官をせっつきます。実際に8月6日に広島に原爆が投下されたため、11日まで待っていられないと、8日(日本時間9日)の強行に至ったのでした。関東軍は、昔こそ優秀でしたが、南方に兵を割かれて、戦争末期には殆ど“もぬけの殻”だったのを誤魔化すため、師団数だけは減らさないように現地召集をやったりして、手にする武器もないのに単なる員数合わせをしたと言われます(「日本のいちばん長い夏」で、終戦直前まで関東軍参謀副長だった池田純久氏談)。当時の関東軍は、戦車2百両、飛行機2百機、火砲千門程度とされていますが、満州に侵攻したソ連軍は、戦車5千両、飛行機五千機、火砲2万4千、兵員174万人と、圧倒的でした。日本がポツダム宣言受諾を通告した8月14日の段階で、満州の重要都市は全く陥落していませんでしたし、その後、日本軍の武装解除が進む中でも、また日本が降伏文書に調印した9月2日の後にも、ソ連軍は侵攻の手を緩めることなく、ようやく9月5日に北方四島の占拠を完了したというのは、いわば火事場泥棒と言えます。
 その間、8月16日に、スターリンはトルーマンに宛てて、北海道を半分割譲するよう要求し、拒否されます。そこでスターリンがワシレフスキー大将に指示したのが、悪名高いシベリア抑留でした。更に、ワシレフスキー大将はマッカーサー連合国軍総司令官に対して、ソ連兵を北海道に上陸させるよう要求しますが、勿論、拒否されます。こんなソ連を仲介役にして、ぎりぎりまで和平交渉に望みを託していた当時の日本は、如何に世界情勢に疎かったかが分かります。
 ロシアは、2012年に大統領選を控え、既に政治の季節に入っていると言われますし、一足先に後継がほぼ決まったとされる中国においても、現国家主席はあらゆる機会を捉えて影響力を保持することを狙い、いずれにしても、強いロシア、強い中国を訴えようとすることは間違いありません。そんな両国は先ごろ共同声明を発表し、「解放戦争史観」で一致しました。戦争の記憶は、取り扱いを誤るとかくも難しい。菅首相や仙谷官房長官のように自虐的な歴史観で周辺諸国を気遣うばかりでは、付け込まれるばかりであり、そんな国々に囲まれている日本の地政学的な現実を認識した上で(国民は認識を深めたと思いますが)、当たり前と思われることでも、自らの立場、正当性は主張し続けることが重要だと分かります。さもないと、終戦時に1万7300人が四島に住み、今は7800人が根室市などに暮らすとされる、北方領土の旧・住民はなかなか浮かばれそうにありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする