風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(8)火事場泥棒

2010-11-03 17:12:46 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回に続き、戦争の記憶に関して、今度はロシア(旧・ソ連)を取り上げたいと思います。
 先日(10月31日)、ロシアのメドベージェフ大統領が、旧ソ連・ロシアを通して国家元首として初めて、日本の北方領土である国後島を訪問しました。ロシアによる実効支配を誇示したものですが、このロシアといい、尖閣諸島問題における中国といい、政権交代が起こって外交がぐらついている日本を試していることは間違いありません。「試す」という言い方は曖昧ですが、日米同盟の絆に緩みが生じ、対外関係に不慣れな民主党が政権を執る日本を、少なくとも彼ら自身の内政問題に利用しようとしていることは明らかで、こうしてロシアや中国に付け入るスキを与えることによって損なわれる国益は甚大です。
 ロシアが利用しているという意味では、既に7月初めに択捉島で大規模軍事演習を実施し、7月末には日本が第二次世界大戦の降伏文書に署名した9月2日を事実上の「対日戦勝記念日」に制定しており、今回の大統領による国後島訪問はその延長上に位置づけることが出来そうです。
 とりわけ後者については、名称に「軍国主義日本に対する戦勝」といった過激な文言が冠せられていたものを、ロシア大統領府は議員らの法案提出に先だち、その文言を外して正式名称を「第二次大戦終結の日」としたほか、休日扱いにしないなど、日本への一定の配慮を示したとされますが、実態は日本の反発を封じるためのものに過ぎず、現に当時の岡田外相は遺憾の意を表しただけで、日本政府として抗議しないというように、まんまと丸め込むことに成功しました。その制定理由について、ロシア政界筋では、西部では対独戦勝を盛大に祝うのに対し、東部では何もないからだと説明し、5月9日の対ドイツ戦勝記念日と対をなすことは明らかです。しかし、そもそも対ドイツ戦は、1941年~45年の間に2700万人とも言われる犠牲者を出し、「大祖国戦争」と呼ばれて重視されるのと比べ、対日戦は、ソ連が日ソ中立条約を破って宣戦布告した8月8日から、択捉・国後・色丹島を占領した8月28日~9月1日に続き、歯舞群島の占領を完了した9月5日(対日終戦よりも遅い)まで、僅かに一ヶ月足らずの間に、戦死者はロシア側の発表でも8200人に過ぎず、対ドイツ戦との差は、規模、認知度ともに歴然としています。それが、何故、今頃になって対日戦勝記念なのでしょうか。
 この対日戦勝記念日制定の動きは、実は1990年代にも盛り上がり、北方領土を事実上管轄するサハリン(樺太)州の議員らが陳情し、1998年には上下両院で法案が可決されたものの、当時のエリツィン大統領が拒否権を発動して廃案にした経緯があります。そういう意味では、戦後65年が経ち、退役軍人が高齢化する中で、何らかの形を残すには最期のチャンスと捉えたのかも知れません。折りしも日本では北方領土特措法(1982年成立の「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」)が昨年7月に改正され、北方領土が「我が国固有の領土」と明記されたことに対する報復だとする見方もありました。根本的には、米ソ冷戦時代に築かれた二大超大国の地位から転落したロシアにとって、国連安保理・常任理事国に代表される「戦勝国」の地位はますます重要な意味合いを持ち、いわば過去の「戦勝」の記憶以上にロシア国民を統合するものはないとまで言われます。そして、シベリア開発など、日本の経済援助を欲しつつも、下手に出ると領土問題を交渉の材料にされかねないことを懸念しつつ、当の日本が、従来、四島一括返還で一環していたのに、麻生元首相は「面積二等分」論などと言い出し、鳩山前首相は「就任後半年か1年以内に領土問題を解決する」などと一見現実的な目標を掲げながら(半年や1年というのは非現実的ですが)、「友愛」というナイーブな理念を表明するばかりで、同盟国・アメリカとの関係をこじらせた上、外交無策な状態を続ける間に、ロシアとしては着々と既成事実を積み重ねる魂胆といったところではないでしょうか。
 その時の「戦争の記憶」が問題です。ロシアの有力議員によると、旧ソ連軍が極東で日本の関東軍を粉砕し、中国東北部と北朝鮮、南サハリン(樺太)とクリール諸島(日本の北方四島と千島列島)を解放し、それによって(原爆投下よりもむしろこちらの方が)第二次大戦の終結を早めた、というような説明をするわけですが、勿論、史実として見れば、アメリカに助けられて辛うじて対ドイツ戦を戦っていたソ連に、それほどの力があった筈はありません。確かに2月のヤルタ会談で、ソ連は、ドイツ降伏後三ヶ月で日本に侵攻することが協議され、ドイツ降伏が5月7日だったことから、結果としてほぼ予定通りに実行されたと言えますが、仔細に見ると、米・ソの間で、微妙な駆け引きがあったことが分かります。当初は、兵力や武器弾薬が揃わないため、8月22日から25日の間に国境を突破する計画だったと言われますが、アメリカが7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功したという情報が、ポツダムで会談していたスターリンのもとにも届くと、アメリカは早晩日本に原爆を落とすに違いないと察して、侵攻を早めて8月11日にせよと、ワシレフスキー極東軍総司令官をせっつきます。実際に8月6日に広島に原爆が投下されたため、11日まで待っていられないと、8日(日本時間9日)の強行に至ったのでした。関東軍は、昔こそ優秀でしたが、南方に兵を割かれて、戦争末期には殆ど“もぬけの殻”だったのを誤魔化すため、師団数だけは減らさないように現地召集をやったりして、手にする武器もないのに単なる員数合わせをしたと言われます(「日本のいちばん長い夏」で、終戦直前まで関東軍参謀副長だった池田純久氏談)。当時の関東軍は、戦車2百両、飛行機2百機、火砲千門程度とされていますが、満州に侵攻したソ連軍は、戦車5千両、飛行機五千機、火砲2万4千、兵員174万人と、圧倒的でした。日本がポツダム宣言受諾を通告した8月14日の段階で、満州の重要都市は全く陥落していませんでしたし、その後、日本軍の武装解除が進む中でも、また日本が降伏文書に調印した9月2日の後にも、ソ連軍は侵攻の手を緩めることなく、ようやく9月5日に北方四島の占拠を完了したというのは、いわば火事場泥棒と言えます。
 その間、8月16日に、スターリンはトルーマンに宛てて、北海道を半分割譲するよう要求し、拒否されます。そこでスターリンがワシレフスキー大将に指示したのが、悪名高いシベリア抑留でした。更に、ワシレフスキー大将はマッカーサー連合国軍総司令官に対して、ソ連兵を北海道に上陸させるよう要求しますが、勿論、拒否されます。こんなソ連を仲介役にして、ぎりぎりまで和平交渉に望みを託していた当時の日本は、如何に世界情勢に疎かったかが分かります。
 ロシアは、2012年に大統領選を控え、既に政治の季節に入っていると言われますし、一足先に後継がほぼ決まったとされる中国においても、現国家主席はあらゆる機会を捉えて影響力を保持することを狙い、いずれにしても、強いロシア、強い中国を訴えようとすることは間違いありません。そんな両国は先ごろ共同声明を発表し、「解放戦争史観」で一致しました。戦争の記憶は、取り扱いを誤るとかくも難しい。菅首相や仙谷官房長官のように自虐的な歴史観で周辺諸国を気遣うばかりでは、付け込まれるばかりであり、そんな国々に囲まれている日本の地政学的な現実を認識した上で(国民は認識を深めたと思いますが)、当たり前と思われることでも、自らの立場、正当性は主張し続けることが重要だと分かります。さもないと、終戦時に1万7300人が四島に住み、今は7800人が根室市などに暮らすとされる、北方領土の旧・住民はなかなか浮かばれそうにありません。
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