風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

68度目の夏(中)

2013-08-18 14:09:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 堀越二郎さんの著作「零戦~その誕生と栄光の記録~」の中にも、当然のことながら、特攻隊の記述が出て来ます。抑制の利いた短い文章ながら、行間に、零戦の主任設計者としての無念の思いが滲んで、胸に迫ります。

(前略)余りにも力の違う敵と対峙して、退くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。また、何もかも戦争のためという生活に疲れ、絶望的になりかけていた国民を励ますように、「ベールを脱いだ新鋭戦闘機」として、零戦の名が新聞その他に公表されたのは、この直後の(昭和19年)11月23日のことであった。(後略)

 この文章のあと、ある新聞社が「神風特攻隊」という本を出版するので、特攻隊を称える短文を書いて欲しいと頼んだ各界10人に選ばれて、苦悩の末に寄稿される経緯が説明されます。あのご時勢ですから、書くことには制約があります。その一部を紹介しながら、次のような言葉で結んでいます。

(前略)私がこの言葉に秘めた気持ちは、非常に複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、本当に成すべきことを成していれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。(後略)

 手塩にかけて育て、かつては向かうところ敵なしの「名機」と称えられた零戦が、ろくに活躍の場を与えられることなく、パイロットとともにある時は敵艦船に突入し、またある時は海の藻屑となって散って行く姿は、想像するだに哀しいことだったでしょう。アメリカはこの特攻を狂気の沙汰と恐怖したと言われますが、私たち日本人は武士道を知るが故に、僅かながらも理解の範疇にあります。それだけに、堀越二郎さんには、私たち以上に遣り切れない思い、空しさが強かっただろうと思います。日本人としてむざむざと、ただ白旗を挙げて負けるわけにはいかない、特攻はいわば負けるための儀式のようなものだったのではないかと、私は今にして日本人の性(サガ)を哀しく思います。無論、やり場のない憤りはありますが、それを押し殺して、死に向かう者たちが残された者たちに残す、無言ながら強烈なメッセージ性を感じ、良くも悪くも日本人であることの性を哀しく思います。
 ジョージタウン大学のケヴィン・ドーク氏は、中国が日本の政治家の靖国参拝に反対するのは、公式には「軍国主義の復活」を理由に挙げますが、そうではなく、日本人のもつ宗教や信仰の力を恐れているからではないかと述べています(Voice 8月号)。

(前略)中国が反対する真の理由は、信仰の力によって日本人が一つに結束することです。靖国神社の性質についてはさまざまな見方がありますが、神道という信仰には精神的な側面、目に見えないような力があります。そうした力を、一党独裁の中国共産党は恐れているのではないでしょうか。(後略)

 そして、アメリカ国務省が、毎年、世界の宗教について報告書を出しており、宗教弾圧する国の上位にいつも中国が入っていることからも分かる通り、中国には、法輪功やチベット仏教だけでなく、あらゆる宗教を体制の脅威とみなす、「宗教に対する恐怖症(phobia)」があり、唯物史観と無神論を唱える共産主義の思想と関係があると分析されています。
 果たして今の中国にどこまで共産主義思想が残っているのか疑問ですが、少なくともドーク氏の分析は、当のアメリカ人にも当てはまるのではないかと思います。アジアで唯一植民地になることを免れ、開国後50年で当時の先進国のロシアを破って五大国に登りつめ、零戦を産みだす合理性にあふれた科学・技術力を有しながら、特攻を許容する精神主義を併せ持つこと自体、東洋の神秘そのものです。だからこそ、アメリカはGHQの戦後改革の中で日本解体を企図し、国の基本法である憲法を書き換えただけでなく、民族のアイデンティティを育む歴史すらも書換え、さらに当面の統治のために天皇を利用しながら、皇族を昭和天皇の兄弟に限定することによって皇統を危うくせしめたのでしょう。端的に、アメリカは、日本を敵(冷戦時代のソ連や、現代の中国)に渡したくない、しかし自立もさせたくない、ために、今もなお沖縄をはじめ首都圏の空域まで、半占領状態を続けているのでしょう。
 そんなことをつらつら思いながら、15日の靖国参拝の報道、つまり翌16日の各社の社説を読んでみると、複雑な思いに囚われます。最右翼と言ってもよい産経新聞は、「首相が参拝しなかったのは残念だが、春の例大祭への真榊(まさかき)奉納に続いて哀悼の意を表したことは評価したい。首相は第1次政権時に靖国参拝しなかったことを『痛恨の極み』と繰り返し語っている。秋の例大祭には、国の指導者として堂々と参拝してほしい。」と述べました。相変わらず勇ましい。片や最左翼と言ってもよい朝日新聞は、「(安倍首相の参拝)見送りは現実的な判断と言えるだろう。首相が、過去とどう向きあおうとしているか。中韓のみならず、欧米諸国も目を凝らしている。靖国問題だけではない。先に首相が『侵略の定義は定まっていない』と、日本の戦争責任を否定するかのような発言をしたことなどが背景にある。対応を誤れば、国際社会で日本の孤立を招く。そのことを首相は肝に銘じるべきだ」と述べた上、全国紙(朝日・毎日・読売・産経・日経)の中で、唯一、「政府主催の全国戦没者追悼式で、首相の式辞からアジア諸国への加害責任への反省や哀悼の意を示す言葉が、すっぽりと抜け落ちた」ことを批判しました。「気になるのは、式辞からなくなった言葉が、植民地支配と侵略によって『アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』という95年の村山首相談話の表現と重なることだ。首相はかねて村山談話の見直しに意欲を示している。そうした意図が今回の式辞に表れたとするなら、とうてい容認できるものではない。(中略)歴史から目をそらさず、他国の痛みに想像力を働かせる。こんな態度が、いまの日本政治には求められる」と結んでおり、まるで言い回しを柔らかくした中国・人民日報か環球時報のようです。
 勿論、さまざまな意見を表明できるのは、お隣の中・韓とは比べようもない、自由な社会の証拠であり、有難いことですが、68年を経てなお、あるいは冷戦崩壊後24年またソ連崩壊後22年を経てなお、東アジアだけでなく日本という国内にいわば冷戦状態が続き、国のありように迷いがある上、近隣諸国に利用されかねない状況は、必ずしも好ましいものではありません。次回はこの元凶とも言える憲法9条について書きたいと思います。
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