風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

バンクーバー・オリンピック(後編)

2010-02-27 03:25:23 | スポーツ・芸能好き
 まだオリンピックは終わっていませんが、もはやこれで打ち止めで後編と銘打つほどに(まだゲームが残っている選手の方々にはごめんなさい)、今日の女子フィギュアスケートは、後半戦のクライマックスとして、今回のオリンピックの中で全国民が首を長くして待ちに待った一日でした。そして予想と期待に違わぬ展開を見せてくれました。全ての有力選手が、四年に一度のこの日のために全てを賭ける、オリンピック・ゲームの醍醐味を感じます。
 浅田真央選手はよく健闘したと思います。シーズン序盤の不調から、このオリンピックに照準を合わせて見事に立ち直り、ベストに近い演技を披露し、女子で史上初めてとなる三度のトリプルアクセルを成功させたところは圧巻でした。対するキムヨナ選手は憎らしいほどに完璧な演技で、敵ながら天晴れ、脱帽するしかありません。対照的な二人ですが、何が金メダルと銀メダルを分けたのか、私には得点ほどの差があったとは思えません。強いて素人の勝手な感想を言うならば、服装のセンスと選曲の重さが明暗を分けたと言えましょうか。浅田真央選手は、技術的には十分に優れていたと思いますが、芸術的高みに達するほどの技術力を見せようとする余り、最後まで、選曲通りの何とも言えない重苦しい雰囲気が拭えませんでした。時に悲壮感が漂うほど、それが見る者をハラハラさせるほどで、以前にもこのブログで触れた通り(http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20091028)、満面の笑顔はついぞ見えませんでした。対するキムヨナ選手は、もともと情感溢れる表現力が持ち味ですが、今日の演技でも、伸び伸びと全身で、それこそ手の指先から足のつま先まで神経が行き届くほどに、スケートを滑る喜びを実に見事に表現していました。艶やかですらあり、その余裕が見る者に安心感を与えていました。もともとフィギュアスケートは、リンク上に図形(フィギュア)を描くように滑ることから始まったスポーツですが、技術力以上に表現力豊かな演技力のスポーツであることを実感します。
 それにしても浅田真央とキムヨナという、同じ1990年9月に生まれ(僅かに20日違い)、同じ5歳からスケートを初めて、ジュニア時代から好敵手、前回のトリノ・オリンピックではともに3ヶ月の差で年齢制限に引っ掛かって出場出来なかった二人が(幸運だったのは二人の欠場と一・二位の転倒により金メダルが転がり込んだ荒川選手でした)、隣国同士の日本と韓国にいるという幸運と不運を思います。勿論、お互いがお互いの存在を認め、相手あってこそ今の自分があると、お互いに言う通りだと思いますが、そのことがまさに幸運でもありその裏返しの不運でもあると思います。
 ある研究によると、オリンピックでは銀メダルより銅メダルの方が幸せなのだと言います。多分に心理的なものですが、銀メダリストは「もしかしたらXXXだったかもしれない」と後ろ向きに考える「反事実的思考」がある一方、銅メダリストは「何はともあれメダルを手にすることができた」と前向きに思考して、銀メダリストよりも素直に喜びを感じるためで、結果として、競技の出来栄えと満足度は必ずしも一致しないと言います。その真偽はともかく、今日の浅田真央選手はまさに悔し涙に暮れ、次のソチ・オリンピックでのリベンジを誓いました。とりあえずオリンピックで銀メダルを獲得したわけですから、明日からは、あらためて滑ることが出来る喜びを全身で伸びやかに表現し、体形そのままに軽やかに、見る者にその幸せを満面の笑みとともに伝えられるような、ひと皮剥けた姿を見せて欲しいと思います。
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