風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ブランド信仰

2013-11-20 01:28:27 | 日々の生活
 「多くの人が知り、限られた人が持ち、誰もが夢見る」とは、今朝の日経新聞で見つけた言葉で、フランスの時計・宝飾品ブランドのカルティエが広告などで謳うフレーズだそうです。カルティエのサイトがメンテナンス中なので原文を調べられませんでしたが、高級ブランドの本質が鋭く切り取られ、まさに言い得て妙です。
 私が子供の頃は、高度成長が盛りを過ぎ、豊かさを実感すると言うよりは、左翼運動が追い詰められ、あるいはオイルショックにより狂乱物価に見舞われるなど、安定成長へとギアチェンジして行く騒然とした世の中だった印象ばかりが残っています。とりわけ私の親は兄弟が多く都会に出稼ぎに出て来たクチですから、贅沢は言えないと子供心にも感じとっていて、今から思えばそれは質素な(!)生活をしていたものでした。その反動か、自分で稼ぐようになると、独身寮の同僚と競うようにスーツやワイシャツの着こなしに凝るようになり、Brooks BrothersやJ.PRESSをはじめ、今はなきChippというブランドもありましたし、ワイシャツではSchiattiを好んで身に着けたものでした。そのうち、毎月のように海外出張に出るようになると、そのたびにブランド品を一つずつ買って帰るようになって、生意気にもそれも身につけるようになりました。20代の若造ですから、ネクタイや財布やペンなどの小物がせいぜいですが、さぞチグハグだったことでしょう。時は折しもバブル経済、当時はまだ内外価格差が顕著だった頃で、海外の免税店で購入するインセンティブが働いたわけです。そうして、手探りながら、世界の一流ブランドの品質を肌で感じ、選別して行きました。
 たとえばネクタイは、ディオールやサンローランやロンシャンよりもジバンシーやダンヒル、万年筆やボールペンはモンブラン、財布はカルティエやダンヒル、時計はオメガやダンヒル、小脇に抱えるバッグもダンヒル、フレグランスはディオール「オーソバージュ」やシャネル「アンテウス」なども試してみましたが、結局、アラミス「900」、自分が使うわけでもないのに、ゲランの「ミツコ」「夜間飛行」やシャネルの「五番」「九番」を買っては、香りを楽しんだりもしました。しかしそんな贅沢も独身時代ならでは。
 ブランドとは、もとは「放牧している家畜に自らの所有物であることを示すため」に押した「自製の焼印」の意味であり、そこから派生して「識別するためのしるし」という意味を持ち、「他の売り手・売り手集団の製品・サービスを識別し、競合他社(他者)のものと差別化することを目的とした、名称、言葉、シンボル、デザイン及びそれらの組み合わせ」、ひいては「消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体」(Wikipedia)と説明されます。
 一般には高い価値を保証するものであるとともに、自分にとっては期待する通りの価値を常に約束するものであるとも言えます。かつての自分のように、似合いもしないのに、とっかえひっかえブランド物で身を飾るよりも、また逆に、ブランド品ではない安物をどんどん使い捨てにするよりも、ちょっと遠回りしましたが、高価でも品質の高いブランド物を擦り切れても手直ししながら終生大事に使い続け、古びるほどに味が出るような、そんなブランド物の使い方をしたいと思う今日この頃です。私ほど極端ではないにせよ、日本人はブランド(とりわけ国産ブランド)信仰が強い国民と言われ、食品偽装表示問題は、まさに日本人のそんなブランド信仰に付け込んだ詐欺事件でした。騙す方が悪いに決まっていますが、騙される方にも隙があり、無暗に背伸びしてあるいは自分の理解の範疇を越えてブランド物を求めても足元を掬われる・・・ということかも知れませんね。
コメント
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