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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

国際結婚

2015年01月20日 17時44分53秒 | Weblog

 「じゃー、ボクがニッポンのお父さんになってあげる」。そう言って、みんなで結婚パーティを開くことにした。あの頃はこの街にもたくさんのトルコ人がいて、私はその人たちに日本語と日本の風習を教えていた。その中に真面目でいかにもガンバリ屋の男性がいて、日本人の女性と「結婚する」と言うので、私が彼の父親役を引き受け、花嫁の両親、国際交流の仲間、彼の友人・知人が集まって結婚パーティを行なった。

 父親となった以上、どうしているかと気にかかり、毎年年賀状をやり取りしてきた。花嫁は結婚式の時に始めて会ったけれど、会の進行に気をとられ、話すことも無いままだった。外国の人との結婚を決意するくらいの女性だから、しっかりした印象だったけれど、困ることもあるだろうと思い、「何かある時はいつでも言って来て」と話したが、それも社交辞令の言い方だったような気がする。

 送られてくる年賀状には子どもたちの写真があり、年毎に大きくなっていくのが嬉しかった。今年の年賀状が届いてしばらくした後、1通の手紙が届いた。彼の花嫁で3人の母となった彼女からだった。「早いもので、結婚パーティを催して頂いてから10年になります。その間、年賀状のみでご挨拶にも伺えず、大変失礼致しました。この10年、3人の子宝にも恵まれましたが、育児と夫のサポートは想像以上に厳しいものがありました。夫もまた、異国で独立し、家族を養うことがどれほど大変か感じながらも、立ち止まる暇もなく、目の前の仕事をただこなしてきたという状況です。コミュニケーションがとれず、お互いに何を考えているかわからず‥『幸せにやっています』と胸を張って会いに行くことができなかったことをお詫びいたします」。

 そして、「私たちの始まりを祝福して下さり、見守って下さった皆さんとのご縁を深く感じ、そして、この10年という節目に、年賀状では書ききれない思いをお伝えしたく、ペンをとりました。おかげ様で今は3人育児に奮闘しながらも、夫婦二人三脚で頑張っています。まだまだ若輩者ですので、これからもどうぞよろしくご指導下さい。追伸 今年は家族そろって皆さんとお会いできたらいいなと思います。ご多忙かと思いますが、みなさんにもよろしくお伝え下さい」。

 人のつながりとはありがたいものだ。ぜひ、我が家へも招待しよう。

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長距離走

2015年01月19日 17時51分49秒 | Weblog

 昨日行なわれた都道府県対抗駅伝で、愛知県チームは失格となった。昨夜のテレビニュースでもその様子が報じられていたが、1区の高校生走者が中継地点のわずか手前で転倒し、見ていても気の毒なくらい身体が動かない。地面をはって進み、ラインのギリギリのところでタスキを次の走者に向けて放り投げてしまった。「手渡し」のルールに反したということで失格となってしまったが、さぞ悔しい気持ちでいることだろう。

 1区は強者が多く、競り合いが続く。愛知の走者は背の低い方だが、競り合いに負けずにかなり頑張って走っていたから、中継の手前まで来て一気に疲れが出てしまったのだろう。解説では脱水症状と言っていたが、マラソンのような長距離競技ではよく見かける。寒さも一因だと言う。コンディションを整える訓練は行なってきているはずでも、その時の気温や走るメンバーとの駆け引きで、こういうことも起きるのだろう。

 私は100メートルまでなら速い方だった。高校1年の時、友だちに「具合が悪いので代わりに走ってくれないか」と言われ、400メートル走に出場した。200メートルでガクッとスピードが落ちた。300メートルを過ぎた時は身体が重くて足が上がらない。ドンジリにならずに走り切ることは出来たが恥ずかしい結果だった。中距離は絶対に向いていないと確信した。

 高校では冬に校外を走るマラソンがあるが、全く歯が立たなかった。ところが女子で1番になったのは学年で1番の秀才で、背は低く体重も40キロ無いだろう。「長距離は頭脳プレーだ」と友だちが言っていた。それならと、翌年は力を貯めておいて最後の1キロをスピードを上げて走る作戦を立てて挑んだ。しかし、スピードは落ちるばかりだった。次の年は逆に、初めはトップグループにいてそのままゴールする作戦で臨んだ。これもすぐにバテテ、走り切るのがやっとだった。

 あの子はどうして毎年トップでゴールできたのだろう。東大へ入る実力があったのに、お茶の水大へ進学した。人生のゴール近くになってきたけれど、彼女はどうしているのだろう。輝かしい人生を歩いて来たことだろう。高校生の時に、一度だけ立ち話をしたことがあるけれど、とても素直で可愛いお嬢さんだった。クルクルとした可愛い目をしていた。

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阪神淡路大震災から20年

2015年01月18日 12時30分30秒 | Weblog

 阪神淡路大震災から20年になる。もうそんなに経ってしまったのかと思う。私にとっても大きな分岐点だった。まだ、私は地域新聞を発行していた時だ。震災の惨事をテレビで見た若いお母さんたちが役所に、「私たちも何かできることはありませんか?」と話しに行った。ところが役所は、「あなたたちはボランティアの経験はあるのか?」と逆に問い、「経験がない者はダメだ」と切り捨てられ、私のところに相談に来た。「市民に向き合う行政を確立しよう」。私は首長に立候補する決意をした。

 震災後、神戸の街は甦った。実際の街を歩いて見たわけではないが、テレビで見る限り、街はキレイになった。にもかかわらず街の人々は「復興していない」と言う。半分以上の人々が街を去り、新しい人が街にやって来た。街は見たところ以前よりも大きくなったように見えるのに、そこに住む人々は「人のつながりがなくなった」と嘆く。最も切実なのは、燃える前の家のローンに加え新しく家を手に入れたためのローンが重なり、「先の見通しが立たない」と。

 東北大震災でも同じことを聞いた。街という形ができても、それだけでは生きていけない。国はインフラ整備を進めれば、また人が集うようになると目論むが、「お金が無い」「働く場所がない」と人々は嘆く。行政も人々のことを全く無視して事業を進めているわけではないけれど、どうしてこんなに行政と人々の間に乖離が生まれてしまうのだろう。なぜ、人々の思いが行政に反映されないのだろう。

 1月24日(土)の大和塾の市民講座は『地方は消滅するか?』である。講師を勤めてくれるのは、元長野県経営戦力局長の松林憲治さん。田中康夫長野県知事の時代に右腕と言われ、二人三脚で長野改革に取り組んできた人だ。けれども改革は頓挫してしまった。なぜなのか、どうすることが地方を活かすことになるのか、その体験から面白い話が聞けそうな気がする。民主主義は何かと言えば、自分のことは自分で決めること。その範囲は広く大きくなれば、委任が増える。狭く小さな単位から、「自分のことは自分で決める」習慣になることだろう。

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成人の祝いはホテルでのディナーだった

2015年01月17日 19時02分24秒 | Weblog

 先週の日曜日、長女が娘の成人を祝う会をするというので出かけた。会場はホテルの最上階のレストランで、入り口でメニューを見るとかなりの値段だ。30階からの夜景は実に美しい。5歳の孫娘は大喜びだ。「飲みもの付きだから、好きなものを飲んで」と長女は言う。フルコースを予約してあるというから胆が座っている。「せっかくだから赤ワインにしよう」と言うと、係りの女性がワインを持ってきた。

 成人となった孫娘は「ビールは苦いから」と言っていたのでワインにしたけれど、「これなら飲める」と口にした。しかし見ているとそんなにグイグイと飲める方ではないようだ。長女は全くと言っていいくらい飲めないのに、宴会担当と言われるくらい場を盛り上げるのが上手だ。適当におしゃべりするけれど決して出過ぎない。成人となった孫娘も友だちの信頼が篤く、母親の血を引いている。

 成人となった孫娘に決意をたずねると、「しっかり勉強します」と言うばかりで何をどうやるのか具体性はない。まあ、決意をしたのだから、そのうち自分の中で組み立てていくだろう。長女がこんな立派な祝う会を企画したのは、もちろんぼんやりとしている孫娘に気合を入れるためだ。「もう、あなたは成人。自分のことは自分で責任を持つのよ。母としては、ここまで育てた。この先のことは自分でやるのよ」との宣言だ。

 それは同時に、孫娘が小学4年からこれまでの10年間、よく耐え、素直ないい子のまま成人を迎えてくれたことに対する長女なりの感謝と償いだろう。長女のダンナは、自分の両親も呼んで欲しかっただろうけれど、私たちだけを招待したのは、長女の「これまでありがとう」という感謝の気持ちなのだろう。5歳の孫娘が成人となる時は、私たちは85歳で、長女夫婦は還暦である。そのことを考えて生活設計を立てて欲しいと思う。

 成人の孫娘に「大学を卒業したらどうするの?」と聞いてみた。「ママが家を出なさいと言うから」と孫娘は不安と決意の混じった顔で答える。そうか、長女がそう考えていることを知り、私は安心した。後は5歳の孫娘を立派に育て上げてくれることを願うばかりだが、間違いなくやってくれるだろう。そのためには健康でいて欲しい。それだけが心配である。

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タイヤを交換する

2015年01月16日 18時39分43秒 | Weblog

 先日、姉を見舞いに出かけた時、途中で車の右側からカチンカチンと音がした。車を止め、降りて車体の下にもぐり込んで調べてみた。タイヤに釘が刺さったのか、あるいは何かが巻き付いたのか、周期的に音が出そうなところを見てみるがそれらしいものはない。もう一度車に乗り込んで少しだけ動かしてみる。あった。タイヤに小さなネジが刺さっている。

 引き抜いて空気が抜けるようならスペアタイヤに取り換えなくてはならない。抜いてみると1センチほどのネジなので、5ミリくらい突き刺さったことになる。タイヤの溝を考えると運転していても大丈夫だろうが、もし万が一ということもある。普通の道路なら何とかなるかも知れないが、高速道路で事故を起こせば他人を巻き込むことになる。結局、車を買った店に行き、事情を話して点検してもらうことにした。

 整備士は「大丈夫だろうとは思いますが、絶対にとは言い切れません」と、当然の答だった。ここは安全を考え、タイヤを替えるべきだろう。4本とも取り替えるのがベストだけれど、金がないのなら2本でもいいはずだ。結局、新品の2本を前輪につけ、古いタイヤを後輪に回した。運転してみるとハンドルの切れもよくなった気がする。心配しながら運転するよりも安心して運転した方が精神的にもよい。

 昔はよくパンクしたが、最近のタイヤは滅多にしないし、一気に空気が抜けるようなこともない。テレビでは障害物があれば自動的に止まる車を宣伝している。そのうち運転者がいなくても目的地に着く車が開発されるだろう。運転を味合うことよりも、安全に着くことが優先されるのはいいと思うけれど、そうなるとドライブの楽しみはなくなる。車は移動手段としては極めて効率が悪い。何しろ4人も7人も乗れるのに、たいていは運転手1人しか乗っていない。

 水素で動く車が話題になっているが、20年か30年前、ホンダが水素で走る車を提案していた。「いずれガソリン車はなくなります」とトヨタに勤めていた卒業生が話していたのも20年以上前のことだ。技術は想像を超えて進歩していくが、人間の感情はなかなか進歩しない。だから人間は面白い。心のなかで新しい世界を思い描くことができる。誰にも束縛されない、自分の世界を持つことができる。

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雪の中、東京へ

2015年01月15日 18時32分22秒 | Weblog

 案の定雨降りだった。それでも約束だから出かけた。話し終わった夕方、西の空に光が差して来て、東の空に大きな虹が見えた。虹を見ただけなのに、不思議と幸せな気持ちになった。西洋の宗教画に虹を描いたものがあったが、キリスト教でも虹は幸せの象徴だったのだろうか。宗教画は教会がパトロンとなって職人(画家)に描かせたものだが、絵を描く側からすれば、絵の中に自分の思いを描き込んでいたはずだから、調べていけば違った世界が見えたのかも知れない。

 寒いから出かけるのはイヤだけれど、出かけてしまえばそれなりにやりたいことも生まれてくる。大学4年の1月、私はそれまで暮らしていた東京品川の下宿に、姉の知り合いから借りた車で残してきた荷物を取りに行った。東京は大雪で、途中の箱根を越すのが大変だった。大島渚監督がこの日の雪を材料に映画を撮影した映画があったが、何という題名だったのだろう。早稲田大学に通っていた高校の時の友だちの下宿があった上石神井にも寄った気がするが、その理由は覚えていない。

 中学からの友だちが付き合ってくれたので2人で交代しながら車を運転していったけれど、途中でタイヤチェーンを取り付けたり、そのチェーンの装着が悪くて外れ、車体にキズをつけてしまったり、大変なドライブだった。どこかに宿泊した覚えはないから、早稲田の友だちのところに寄ったのは彼の下宿で寝るためだったのかも知れない。上京する度に彼には世話になった。そのくせ、大学4年の5月から12月まで、東京で暮らしていたのに彼とは何度会っただろうと思うくらい行き来がなかった。

 4年生のほとんどが東京暮らしになったのは、私の大学の先生の思いやりだ。既に両親は亡くなっていた大学2年の1月、家業を継いでいた兄が破産し家族離散となった。私は先生の家に住み込み、先生の子どもを教えたり手伝いをして暮らした。新聞部にいて編集の仕事が好きと見た先生は、「東京で編集の仕事がある」と私を送り出してくれた。編集の仕事は楽しかったけれど、上司とうまくいかないと感じて帰郷してしまった。雪の中を荷物を取りに行ったのはそのためだった。

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「おしるこ」と「ぜんざい」

2015年01月14日 17時50分32秒 | Weblog

 空が薄暗くなってきた。明日は雨降りのようだ。灰色の空が何となく寒々しい。1月も半ば、明日は以前なら成人の日だ。15日を小正月とか女正月とか言って、小豆を煮て焼きもちを入れた「おしるこ」が食べられた。祖母が作ってくれた「おしるこ」は粒アンだったので、「それならぜんざいだよ」と言われたことがある。お店で食べる「ぜんざい」は粒アンだから、我が家の呼び方が間違っていたのかも知れない。

 「ぜんざい」という呼び方が仏教の言葉と知ったのは「夫婦善哉」を知ってからだ。甘い夫婦だから「ぜんざい」と呼ぶのだろうと勝手に解釈していた。ところが「善哉」は、「サンスクリット語の漢字表記で、すばらしいの意味。よいことをほめる」とある。知っているつもりでいたが、大いに恥をかいた。それからもうひとつ思い込んでいたことがある。1月生まれに色白の人が多いのは、雪に関係があると。

 偶々、好きになった女性が1月生まれで色白だったに過ぎないのに、雪の多い1月生まれに色白の人が多いのは雪のせいで肌が透き通るように白いと思い込んでいた。寒い時に生まれた赤子は太陽に当てず、風邪を引かせないようにと大変だっただろう。春から夏に生まれた赤子なら放っといてもいいけれど、冬の赤子は寒さ対策が不可欠だ。しかし、赤子を育てる点ではいつだって大変さは変わらないようだ。次女から送られてくる写メには、ハイハイができるようになった8ヶ月の娘に「目が離せない」とある。

 子どもの成長は楽しい。同じようにこの世界に誕生したのに、その場所が違えば喜びも全く違ってしまう。日本では脳死した赤子の臓器がこれを必要としている人に移植されている。世界では5歳未満の子どもの死亡数が年間1,090万人あり、そのうち6割が飢えや栄養不良で亡くなったと国連の機関が発表している。フランスやドイツではイスラム系の人々が「出て行け」と言われている。仕事に就けず、住む場所もない非白人系の人々が「希望のない生活」を強いられている。

 矛盾がいっぱいだ。「おしるこ」を「ぜんざい」と呼ぶくらいたいしたことではない。明日が雨降りであろうと、明日があればそれでいい。寒いのはイヤだと思うけれど、生きていられることが感謝である。

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「希望」と「野望」

2015年01月13日 18時32分30秒 | Weblog

 「希望」と「野望」は似ていても違うと何かにあった。確かに響きが違う気がして、旺文社の国語辞典を開いてみる。「希望」には「①願い望むこと。②よい事の到来を期待する感情」とあり、「野望」には「不相応な大きな望み」とある。「希望」を抱くのはよいけれど、「野望」は高望みということらしい。

 今日、施設で世話になっている姉の見舞いに、妹夫婦と出かけた。その道すがら孫たちのことが話題になった。妹の孫娘はAKB48のメンバーになりたいらしい。それはいとこにAKBのメンバーになった子がいることからの刺激のようだが、父親である娘のダンナの影響もあると妹は言う。

 娘のダンナは元々歌手になりたかったようで、ギターなどの楽器を弾くるそうだ。「定年退職したら、流しのギター弾きになると言っている」と、義弟は少々困った顔で言う。会社員を辞めて歌手になるのは困るけれど、定年退職したらギター弾きになると言うのも「野心」がないと義弟は思うのだ。

 しかし現実の生活を考えれば、定年退職してからなら「流しのギター弾き」になっても生活に困ることはないだろうし、彼もやっと「希望」が叶うわけだから幸せだろう。と、思うのは歳を取ってきた証拠でもある。私たちの時代は「青年は荒野をめざす」ことが求められた。けれど、ただ働いてやっと家を手に入れただけだ。

 それを見て来た子どもたちは、「野望」を抱いても結果はそんなにたいしたことはないし、努力したことを自慢するばかりでつまらない。努力せずに儲けることができるなら、その方がいいに決まっている。親父たちをアッと言わせるには金持ちになることだけれど、それが難しいなら、好きなことをやって生きた方が得だ。

 そんな父親たちを見て育つ、私たちの孫たちの世代はどんな生き方になるのだろう。「まあ、その時はその時。第一、私たちが生きているかも分からないのだから」と義弟は笑う。「そうだねぇ」と私もうなずく。

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話し上手は経験から

2015年01月12日 17時41分02秒 | Weblog

 成人式で歌う首長さんがいるが、式典でのエライ人の話はたいてい面白くない。首長や校長が話し下手というよりも、日本人は全般に話すのが下手である。ノーベル賞の授賞式でのスピーチでも、3人の日本人受賞者よりも17歳のマララさんの方が大いに説得力があった。今やすっかり影を潜めてしまったが、大統領選挙の時のオバマさんの演説は英語の苦手な私でも迫力を感じた。

 どうして日本人はスピーチに弱いのだろう。経験不足が一番の原因だと思う。というのも、私の市の首長がいろんな場で挨拶をするけれど、当選した当初はそれほど上手いとは思わなかった。それが20年間も首長の座にいると挨拶の機会は非常に多い。どんどん話し上手になってきた。素質もあるが場を踏むことが育てるようだ。議員になった友だちもやはり上手くなってきているから、自信を持って話すことが大事なのだろう。

 日本では昔から、「読み、書き、そろばん」が学びの基本だった。まず、お上が書いたものが読めることで、自分で書くことは二の次でよかった。そろばんも多少の計算が出来ればそれでよかった。それでも世界中で、これほど多くの人が「読み、書き、そろばん」の出来る国はなかっただろう。そんな基礎があったから、明治政府は「地域に不学の家がないこと、家に不学の人がいないこと」をめざした。

 ところが、話すことに力を置かなかった。戦後の教育でも話すことは後回しだった。最近になって、朝のスピーチとかグループディスカッションとかが学校で行なわれるが、まだまだ話し上手を育てるには至っていない。学校では文章を書くことの指導はあるが話し方の授業はなく、文章が上手な人でも話し上手にはならない。文章が魅力的だったのに、話を聞いたら全く分からなかったケースはよくある。

 私はどちらかと言えば文章に頼ってしまう方で、高校でも大学でも演説をしたことがあるけれど、文章通りでは迫力に欠けるし、箇条書きにして話すとまとまりを失うことばかりだった。やっぱり聞き上手に徹した方が我が身に合っているのだが、話を聞く相手が少なくなってきた。

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「今日の書展」

2015年01月11日 16時20分49秒 | Weblog

 午前中、県美術館で開かれている『今日の書展』へ大和塾の仲間と行ってきた。日展の「書」を見てもそれほどの興味は涌かなかったのに、玄々書作院の久保田関山さんに大和塾の季刊誌『風』の題字を書いてもらったことが縁で、書展を見る機会が増えた。幸いなことに、久保田さん自身から「書」を解説してもらうこともあって、なるほどと思うことが多い。

 「書」というと、白い紙に黒い墨で文字を書いただけのもので、極めて単純なものなのに、その形や色合いそして空間が「美」を作り出す。楷書体で一文字一文字を丁寧に美しく書き上げたものもあれば、何が書いてあるのか分からない前衛精神の作品もある。文字の印象を筆の勢いと墨の濃淡だけで表現する意欲的なものもある。

 「どんなに異様なものでも、基本を積み重ねた上での発想です」と久保田さんは言い、おもむろにサイフから3枚の雁皮紙を取り出した。そこには楷書で漢字がきれいに書いてあった。「毎日こうして楷書で繰り返し書いています」と言う。文字の意味、成り立ちや書く順序など、基本的なことが分かっていないと「書」は書けないようだ。

 小学校の4年の時、書き順にうるさい先生がいて私は注意を受けたが、なぜ書き順が大切なのかまで考えられない馬鹿な私は、「出来上がりがきれいなら書き順なんか関係ない」とばかりに先生の注意を聞き入れなかった。おかげで、「えっ、そんな書き方をするの!」と馬鹿にされたこともあって、ますます書道をすることが出来なくなった。

 自由に書いているような作品でも、「基本がしっかりしていないと書けませんね」と久保田さんに言われて恥ずかしかった。「書を見れば、どんな書き順で書いたのか直ぐに分かってしまいますよ」と、その見分け方を教えてもらい、皆さん「なるほど」と納得する。文字の美しさ、その流れを眺めながら、「書にもう一度挑戦してみようかな」と意欲に燃える人もいたが、やっぱり私は自信がない。

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