高校野球全国大会の決勝戦、初めは両チームの投手の球が打てなくて、これは接戦になるなと思った。ところが結果は、仙台育英が満塁ホームランを含めて8点をあげ、1点しか取れなかった下関国際に勝利した。東北勢の悲願だった深紅の優勝旗は、これで「白河の関」を超えることになった。
「白河の関」は東北の蛮族の襲来を抑えるために設けられたものらしいが、義経が奥州の藤原氏を頼りにしたように、平安末期には名前はあっても関としての役割は無くなっていたようだ。それくらい奥州への行き来は盛んになっていたのだろう。人が行き交うのは、経済活動が活発な証拠である。
鎌倉時代は領地を守る地頭が力を得てきた。貴族や寺社から荘園を奪ったり、開墾して農地を増やしたりした。農産物が増えれば取引きに従事する者も現れる。市場のような場所が出来れば物が作られ、人が集まり様々な物が取引きされるようになる。鎌倉時代の末期には楽市楽座が生まれている街もある。
江戸時代のように、武士が頂点に立っていたのに、士農工商の最下位であった商人が武士よりも金持ちになっていた。物を取引するとなぜ利潤が生まれるのか、私には分からないが、結果としてはそうなっている。物の取引を無くすことは出来ないだろうと思うけれど、全く違う形になってしまうことはあるかも知れない。
不変なものはこの世に存在しないのではないか。イギリスが40度の高温になったり、南欧州が熱波で山火事が続いたり、世界中で異常気象が起きている。何かが少しずつ変わってきているのに、人はスパーンが長すぎると気付かない。中には気付いている人がいるかも知れないが、論理的に証明できずに黙っているのかも知れない。
仙台育英の優勝で、東北の人々は大喜びだろう。東北も北海道も沖縄もどこも、人の暮らしに大差は無い。地域の違いは無くなっていく。それが人間の歴史なのだろう。