昨日の男女共同参画セミナーのトークセッションで、司会者が「コミュニケーションは取れていますか?」と、会場の人たちとパネラーに質問をし、赤青の紙を掲げて答えるクイズがあった。上手くできないという人は稀で、多くの人が肯定的であったのは、このような会に参加してくる人たちはそれなりの意識があるからだろう。
それでもパネラーたちが言うように、自分ではきちんと伝えているつもりでも、「相手があることなので」というのが本音だと思う。若いうちは無意識に相手の気持ちを知りたいと思うから、会話も続くけれど、年を重ねると会話も一方的になるようだ。先輩などはカミさんのことを「空気のような存在」と言う。大切という意味とともに見えないと揶揄しているのだ。
続いて司会者は「今の自分を変えたいと思いますか?」と尋ねた。この質問には「思わない」と多くの人が現状を肯定していた。若い人もいたけれど、多くの人が中年以上だったので、現在の自分を否定するほどの悩みを抱えていないから、当然の結果かも知れないし、変えたいほどの情熱を失いつつあるとも言えるだろう。
男と女が性の違いはあっても平等であるという意識はすっかり定着した。ただ、その表現は年代によっても、生まれ育った環境によっても異なる。男が台所に立たないから不平等という価値観もそれぞれによって違う。私たちの年代は結婚するまではSEXしないのが当たり前だったが、団塊世代はこの価値観を壊した。それは人の本来、どうするかは自分が決める当然の姿だったが、今、性の解放がどん詰まりまで行った結果、『コンビニ人間』(村田沙耶香著)の主人公のような人が生まれたと、エッセイストの酒井順子さんが昨日の中日新聞の書評欄で指摘していた。
朝、読んだ記事の話を午後の講演で聞く「不思議な縁」を私は感じた。講師の三砂先生は京都薬科大学の卒業で、津田塾大学で教えている。京都薬科大は私の中学からの友だちの初恋の人が進んだ大学であり、津田塾大はクラスでいつもトップにいた子の進んだ大学だった。そんなどうでもいいことなのに、何故か縁を感じたのは老いた人の特徴なのかも知れない。