友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

五木寛之氏の講演会

2008年12月22日 22時46分02秒 | Weblog
 この日はとても暖かな日差しが降り注いでいた。公園の横を通った時、ベンチで仰向けに寝ていた人がいたが、さぞかし気持ちがよいだろうと思った。初冬の頃のポカポカした陽気のことを小春日和という。そんな話から五木寛之氏の話は始まった。まるで春が来たような暖かな日差しは人々を快い気持ちにさせたのだろう。アメリカにもフランスにもロシアにも同じような意味の言葉があると五木さんは教えてくれた。

 五木さんは、「現在は、躁から鬱への大転換の時代」と言う。戦後の日本人、おそらく日本人だけでなく世界中の人々が第2次世界大戦の終了を喜び、同時に新しい時代に期待した。そこで何が時代の光を浴びたのかといえば、資本主義経済がいっきに羽ばたいたことだ。市場原理が徹底され、消費の拡大と資本の蓄積が進められた。金融商品のような資本主義の本質から外れたようなものが闊歩し、私もその恩恵にあずかっているパソコンのような情報社会も生まれた。

 その結果はあっという間に、世界経済の危機へと進んでいった。経済の発展は確かに人々の豊かな生活を築いてきたようにみえたけれど、同時に資本主義の限界へと突き進んでいたことまで、社会は予測できなかった。「戦後は前だけを見て、夢を追いかけてきたが、1990年辺りから“迷いの時代”に入った」と、五木さんは分析する。その最大のものは「9・11テロで、陽気なアメリカ人は世界中で活躍し、人々のために役立っていると自負していたのに、あのテロで、自分たちを憎んでいる人々がいることを知った」と話す。

 「アメリカ人は変わった。あれほど自由を愛し、自己主張を大事にしたアメリカ人が、あのテロを機に飛行場でもあるいは公共施設で、靴まで脱がされても誰も文句も言わずに従っている。明らかに、躁から鬱へ、時代が変わってきた。時代がどんなに変わっても、人の生き方そのものが変わるわけではないが、しかし、歩き方は明らかに変わった。躁の時代のような歩き方は出来ない。鬱の時代にはそれにふさわしい歩き方がある」。

 そこで、五木さんは鬱とはどういうものかを分析する。「鬱は文字からしても書けそうにない、いやな漢字だから、それだけで憂鬱になるが、鬱には3つある。1つは憂えるというポジティブなもの。2つ目は愁で心にシーンと来る。3つ目は悲で、慈と悲は対をなす」。この前のところまでは、ウンウンと頷いて聞けたのに、ここでよくわからなくなってしまった。五木さんとすれば、『歎異抄』へと繋げたかったのかもしれないが、ここで私のへそ曲がりが頭を持ち上げた。

 聖書にしても歎異抄にしても、言葉として理解しようとする気持ちが先に立ってしまう。私も五木さんが言われるように、現在は大転換期にあると思っている。だから、五木さんが言うように「鬱を悪いものと考えるのではなく、これからは心の時代だと考え、マイナス思考を見直す」ことに大いに賛成する。

 今の私は、昔の日本人が自然の中で悟った「無常」もまた素直に心に入ってくる。「無常」の持つ積極性も、キリストの言う「右の頬を打たれたなら、左の頬を出しなさい」の積極性に通じるものがあると思うのは間違いだろうか。
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