蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

絵が下手すぎる

2020-11-08 | 日々のこと
気持ちいい秋晴れ。
皆んな、気持ちいいブログを読みたいだろうなあ、、、と。
でもサービス精神のないわたしは、今日も気分まかせの独り言をたらたら。

バイデン氏、勝利宣言。
トランプさん、今から、もつれにもつれ、法廷闘争。
橋下徹氏の、元政治家&法律のプロの記事を読むと、トランプさんサイドの意見にもなるほど、と頷くものがある。
郵便投票について。
その意見を知るまでは、100パーセント、トランプさんはアカンと思っていたが。
両方の意見に耳を傾けてこそ、自分の考えを確立すべきだと感じた。
とは言っても、他国の事情、全く関心のない人もいる。
毎日、連続ドラマを見ているごとく、わたしはニュースを楽しみにしていたが、それも対岸の火事だからゆえ。
昨夜、 NHKのアメリカ大統領選特集を見ながら、いつの間にか居眠り。
所詮、そんなものである。
必死で熱意を注いでも、たいして理解していない人が当たり障りないいい加減な考えをブログで書いても、似たり寄ったり。

しかし、77歳という年齢。
世界の大国を引っ張って行くにはあまりにも重いだろうなあ、、、ほんと、頭が下がる。
普通なら、そこらへんの毎日サンデーのおじいちゃんである。
健康には十二分に注意されていることだと思うが、任期全うできることをお祈りしている。

と、最も薄い感想になった。
まあいい。

ちなみに、小学2年孫。
母親(わたしの長女)が「絵が下手すぎる」とラインで彼の絵を送ってきた。
ん、、、そ、そうでもないよ、、、と、次女やわたしは、慰めコメントを送る、、、。
が、結構、下手。
こんな認知能力で大丈夫か?
象を描いているのだが、取り敢えず唐突に顔らしきアンパンみたいなものから何か細長いものが出ている、丸い四本足の生き物であることぐらいしかわからない。
まあいいか。
あれがキリンなら、首が長い四本足。
ニワトリや犬だと描くのに困るだろうなあ、と。
イメージを真っ白の紙に一から絵にしにくい。

大人もこんなものかも知れない。
取り敢えず、知っている情報を付け加える。
それ以上の情報は自分には必要なければ、最低限でよい。
象などは、動物園や写真、動画で見るぐらいで、実際に縁はないだろうし。
(と書きつつ、そう言えば、タイで象に乗ったことはあったなあ)

まあよい。
基本にどのように色付けしていくか、である。
こどもから大人になり、さらに年老いていく。
老いるのは、色を落としていく作業と捉える人もいるだろう。
わたしは、色を落とすのではなく変化させていくと思う。
良い味わいを加え、最後には、カサカサと枯葉を踏んだ音とともに、木っ端微塵になる。
何色になるのだろう。


総合的、俯瞰的、宇宙的

2020-11-07 | 日々のこと
わたしは、両極端の性質がある。
真ん中はないのだが、平均すると真ん中になる。
どうにか真ん中に位置して、平穏無事な毎日を過ごしている。

喜怒哀楽は、あまり極端ではない。
わりとクールだ。
善悪基準は社会的一般的。
ただ、自分はたいしたことがないのに、見る目が厳しい。
これで自分の首を絞める。
当然ながら友人が出来ない。
でも、自分の蒔いた種、因果応報なので、致し方ない。

自分を含め、俯瞰的に見てしまう。
この、「総合的、俯瞰的」は、今年の流行語大賞にノミネートされている菅総理大臣のお言葉でもある。
が、わたしは、ああいう風に煙に巻くためには使っていない。

他人も自分も、宇宙から見ると所詮小さな生き物。
そう思ってしまう。
なので、大きな力を感じると、へんに感動してしまったりする。
このあたりも、両極端思考の表れのひとつか。

宇宙から見過ぎて、日常のどおってことない事態を軽視する傾向にある。
バランス感覚が必要だ。
が、どおってことないのに、オタオタする。
例えば、、、孫同士のきょうだいゲンカ。
長男(小学2年)に次男(保育所、最年長組)が負ける。
長女(3歳)に次男が負ける。
次男は負けてばっかり。不甲斐ない。
「優しい」のと「弱い」のは違う。
ビービー泣いて、可愛そうという気にはならない。
自分で解決しろ!!と、ばあちゃんは見て見ぬ振りをする。
ちなみにこの次男、醤油顔で年配の女性に、ルックスの受けが良い。
将来のイケメン予備軍、マダムキラー??

わたしの子供たちはきょうだいゲンカをしなかった(と多分思う。見てないだけか?  ネグレクト?)
長女が恐怖政治をしていた模様。
長男がそう言っていた。
「お姉さんはロベスピエールだ」と。
次女は、「おねえちゃんが死ぬ夢を見た」と、かつて子供の頃、言っていた。
ということは、ケンカをわたしが知らないだけか。

どっちにしても、孫の誰をどう肩をもてばいいのか、わからない。
母親である長女は、じつに上手くさばく。
さすが四児の母。元ロベスピエール。
わたしは、うちの子供はこんなんじゃなかった、と、ただ単に忘れているだけかも知れないのに、幼いきょうだいゲンカを成敗できないでいる。

こうやって、きょうだいは、家庭内で揉まれて成長していくのだろう。
宇宙から見守ろう。


ある秋の一日

2020-11-05 | 日々のこと
今日はアポ付きスケジュールが3つ、大まか時間の予定がその他に2つある。
移動も、アポ1.徒歩→最寄り駅隣接商業施設10:00→アポ2.徒歩、最寄り駅→電車移動、隣の県(夫の実家)13:00→アポ3.自動車移動、自宅→徒歩、自宅近隣17:00

あと、イレギュラーの夕食準備、いつもより5人分追加。
これが、娘婿の分が要るか要らないかで、気合いが全く違う。
出来合いの既製品惣菜は、主婦の沽券にかかわるため(小さな小さなプライド)、下手でも不味くてもワンパターンでも、取り敢えずはメニューに頭を悩ませながら作る。
すでに、彼のほうが料理は上手だろうけれど、気にしない。
気にしていては、何も出来ない。
気にしても気にしなくても、たいしたものは出来ない。

まあ、そういうわけで。
一つ目アポの時間に間に合うよう、自宅を出て、娘宅前を通って目的地に向かった。
孫の小学校を歩いて通り過ぎる。
学童たちの元気な声が聞こえる。
孫もその声の中に入っているかなあと。
孫も娘も同じ小学校に通っている。
なんと幸せなことかと、しみじみ思った。
娘は自分の出身校に子供を通わせている。
同じ校舎、同じ通学路、同じ自宅。
彼女は東京勤務の時期もあったが、今は親元近くに落ち着いた。
娘婿は、お嫁さんの実家に吸収されそうな勢いではあるが、自宅をあくまでもお嫁さんの地元に構えただけ。
親には吸収されていない。
娘はシッカリ者で、かつ策士なので、周りをうまく使っている。
わたしや夫は、喜びながら使われているわけだ。
嫌なら断ることも出来る選択肢を残し、何ごとも余裕があることは良い流れになる。

一番下の孫が保育所に入るまでの、娘が育児休暇を取っている間の、束の間の楽々時間。
これが職場復帰になると、選択している場合ではなく、否が応でも、孫にギャン泣きされようが、子育てサポートへと移行する。
まあそれも、楽しい思い出、彩りになることだろう。

孫たちはやがて、大人の手が必要でなくなり、成長し、自立していく。
それまでの風景を楽しませてもらう。
孫が成長した頃には、わたしは、めいっぱいお年寄りになり、ひ孫が生まれる頃には、認知症になっていることだろう。
そんなに長生きできたら、幸せな認知症だ。

車窓から見える秋の気配を楽しみながらブログをたらたら入力していると、田舎の乗り換え駅に到着。
ぼーっとしていたら、乗り遅れそうになった。
さて、2つ目のアポにスタンバイしよう。






マザコンでテレビっ子

2020-11-04 | 趣味
なんで男性はこんなにテレビ(インターネット配信ドラマ含む)が好きなんだろう?
わたしの周りの男性、限定か?
孫達がせっかく一家で揃って遊びに来ているのに、ケーブルテレビのヘビーローテーション時代劇にかじりつく夫。
生放送ライブの大事な試合や選挙速報だとかならまだしも。

なぜ?なぜ?と必死で理解しようとするが、「理解できない」ということを理解するにとどまる。

それは夫だけかと思いきや、、、趣味分野でペアを組んでいる人物もそう。
大の動画好き。
依存症ではないかと思うぐらい、片時もスマホやテレビやタブレットから離れない。
自分から何も考えずに、ただただ与えられるものを楽しんでいることの、どこが悪い?
いえ、悪くないです。
視聴者やユーザーの存在によって経済は成り立っているのだから。

しかし、、、
孫や、目の前にリアル人がいるのに、そんなに動画が大事なのだろうか。
たまたま、わたしの周りのコア・メンバーはそうだったが、現代人の皆さんはこんなかんじで、これは世の中の縮図なのか?

自分が理解できないからといって、認められないのはおかしい?
相手だって同じように感じていることだろう。
認められないことを認めて、日々、同じ空間で暮らす、行動するのは、ある意味、今後の社会を生きるトレーニングになるかも知れない。

それと、この2人にはまだ共通点がある。
マザコン。
ああ、またもや。
なぜ、わたしが選ぶ人はマザコンばかり?

マザコンではない、もう一世代上の男性は、これはまた頭が古い。
ジェンダーって何?の世界。
わたしは、時代の変わり目の隙間世代なのだろうか。

マザコン男性は、甘い。
わたしは、自分が甘いため、相手が厳しい人だと着いていけない。
なので、結果的に甘い人を選んでしまうのか。
割れ鍋に綴じ蓋。

かといって、知的水準がわたしより下は嫌。
最低でもわたしレベル。
だから最低同士が釣り合うのか。
しかし、ママになるのは嫌だ。
甘えっ子の母親になどなりたくない。
可愛くもなんともない。
それよりもなによりも、甘えっ子と縁がある自分が許せない。
自分も甘えっ子だということを自覚せざるを得ない。
わたしの相方、1人だけならまだしも、2人とも、マザコンでテレビっ子。
これは、自分が変わるしかないのか。
自分が上に引き上がるが、下に引き下げられるか。
あるいは、変わりたくないなら、現状を受け入れて諦めるしかないのか。

というか、よくよく考えると、同じようなタイプばかりを選ぶ原因はわたしにあるのかも知れない。
マザコン、、、これは逆に考えると、自分の考えはなく、人の言うままに支配されるということ。
ママの代わりをわたしがして、デメリットと共にメリットを享受すればよいのでは。

テレビ人間、、、これまた、自分では何も生み出さないが、飽きることなく延々と時間を潰していく名人である。
じつに安易にイージーに束の間の幸せを手に入れる。
羨ましい限りだ。

おまかせ受動テレビに救いを求めざるを得ないほど、それぐらい、日々の生活に心身を磨耗させているのだろう。
もし、入院したり老人施設に入所しても、退屈することなく、毎日を過ごせる。

しかしながら、本当に深刻な病状になると、テレビを見る気にもならない実例をいくつか知っている。
テレビを見るということは、まだ興味や好奇心があり、こころが生きている証拠だ。
こころの病気になりにくいとすると、素晴らしい効果だ。

なんだか否定から肯定へ、この流れ、(若手漫才の)「ぺこぱ」のネタのようだ。

いやいや、テレビ人間を肯定したくない。
だが、認めないと自分の狭量、懐の小ささがバレてしまう。
まあ人の好みなど、なんだっていいのだが、自分と身近に関わる人だとある程度の距離感が保てずどうも気になる。
ぐーんと、こころから離し、お互いが邪魔にならないよう、刺激し合わないよう、透明人間のように接するか、、、。
最も身近な人々なのに、、、?

よくわからなくなってきた。


河原の石

2020-11-02 | わたし
自分の娘も大人になって成長すると、しっかり頼りになるものだ、と、しみじみ感心する。
その点、わたしは大して母に貢献してないなあと反省。
まあ、末っ子なので、可愛がられたらしいけれど。
ほんまかいな、と半信半疑で今も疑い気味ではあるが、母がそう言うので、そういうことにしておこう。

末っ子は、なんにもしない傾向にある。
これは自分の場合に限るかも知れないが。
上の子供たちに手がかかる母親は、末っ子は放ったらかし、、、のはず。
おかげでわたしは、年長者の後をついていくばかりになった、、、かも?
でも目利きは鋭い、、、はず。
良い人にしか着いていかない。
悪い人には着いていかない。
さらに、より良い人を探す、あるいは、育てる。
原石を見る目、原石を見つける目はあると勝手に自負している。
これ!と見込んだ人は、磨けば光る、、、はず。

結局は、磨いても予想通りに光らず磨耗して捨てることになる場合もあるが、わたし自身は捨てられた経験はない。
なぜなら、わたしは宝石の原石ではなく、河原の石、道端の野花なので、宝石だとはじめから思われていない。
それはとても楽である。

だが、あまりにも軽視されていて、わたしの発言したことをほとんど聞いてない事実がわかると、とてもガッカリする。
わたしは、自慢になってはいけないと思うような、自分の誇らしげに感じていることは、あえて言わない。
アピールしない。
きっと一生言わないんだろう。
河原の石のままで。
人に知ってもらう必要はないのだが、あまりにも軽視されていると感じると、その人との関係性を見直そうと考える。

自分も悪い。
わたしは、自分を河原の石だと実は思ってないということだ。
だが、誇りと自慢は違うはず。
人はプライドを持たないと生きていけないはずだ。
そのプライドは、人によって違うだろうけれど。

そもそもわたしは、哲学的テイストがあり、「それがどうした?」となってしまう。
だが、喜怒哀楽を表す人に否定的ではない。
特に涙腺は緩く、感情移入してしまう。
だが、優劣をつけたがる人には、わたしは冷たい。
「あっそ、よかったね」
しかし、なんの文句なくこころから絶賛する場合もある。
なんだろう?

自分は負ける主義だと言いながら、じつは負けたくないのだろう。
一種のプライドが顔を出す。
自分はどんな分野にプライドを持っているのか、人それぞれだと思う。
わかりやすいところでは、誰の目にも見える部分。
表面の美醜や能力、貧富。
わかりにくいところでは、誰もわからない、目に見えない、比べたりできない部分。
こころの中。
ややこしいのは、表面的に美しい所作や言動、態度で、能力があるように見える、幸せそうに見える、でも、実際は違う、というパターン。
色々複雑である。
目標に向かって外側から変える方法もある。

しかし、メッキはすぐ剥がれる。
頑張ってもいずれバレるのも時間の問題。
メッキではなく、本物なら問題ない。
偽物でも外側も中身も偽物なら問題ない。
外側が偽物で中身が本物ってあるのだろうか?
中には変わった人がいて、そういうのもあるかも知れない。
頓着せずボロを身に纏う?

謙遜したり、謙虚にしていると、軽視されることがある。
声を大きくしないと聞いてくれない。
でも、そんなのは嫌。
どうすればいい?どうしたい?

よく父が言っていた。
自分から言わなくても、わかる人にはわかる、見る人が見ればわかる、と。
でも、わたしの周りは、わからない人ばかりのように思う。
ということは、わたしは大したことがないということか。

説明しなくても周りが納得できるような能力や事実を持っていないのだろう。
隠された真実は何もない、ただの河原の石なのだろう。
それがどうした?
わたしは、自分はとても幸せだと思っている。
きっとどこかで無意識に人を俯瞰的に見ているのだと推測する。

自分を賢人と思っている賢人。
自分をアホと思っている賢人。
自分を賢人と思っているアホ。
自分をアホと思っているアホ。

自分は、いったいどれなんだろう?