蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

河原の石

2020-11-02 | わたし
自分の娘も大人になって成長すると、しっかり頼りになるものだ、と、しみじみ感心する。
その点、わたしは大して母に貢献してないなあと反省。
まあ、末っ子なので、可愛がられたらしいけれど。
ほんまかいな、と半信半疑で今も疑い気味ではあるが、母がそう言うので、そういうことにしておこう。

末っ子は、なんにもしない傾向にある。
これは自分の場合に限るかも知れないが。
上の子供たちに手がかかる母親は、末っ子は放ったらかし、、、のはず。
おかげでわたしは、年長者の後をついていくばかりになった、、、かも?
でも目利きは鋭い、、、はず。
良い人にしか着いていかない。
悪い人には着いていかない。
さらに、より良い人を探す、あるいは、育てる。
原石を見る目、原石を見つける目はあると勝手に自負している。
これ!と見込んだ人は、磨けば光る、、、はず。

結局は、磨いても予想通りに光らず磨耗して捨てることになる場合もあるが、わたし自身は捨てられた経験はない。
なぜなら、わたしは宝石の原石ではなく、河原の石、道端の野花なので、宝石だとはじめから思われていない。
それはとても楽である。

だが、あまりにも軽視されていて、わたしの発言したことをほとんど聞いてない事実がわかると、とてもガッカリする。
わたしは、自慢になってはいけないと思うような、自分の誇らしげに感じていることは、あえて言わない。
アピールしない。
きっと一生言わないんだろう。
河原の石のままで。
人に知ってもらう必要はないのだが、あまりにも軽視されていると感じると、その人との関係性を見直そうと考える。

自分も悪い。
わたしは、自分を河原の石だと実は思ってないということだ。
だが、誇りと自慢は違うはず。
人はプライドを持たないと生きていけないはずだ。
そのプライドは、人によって違うだろうけれど。

そもそもわたしは、哲学的テイストがあり、「それがどうした?」となってしまう。
だが、喜怒哀楽を表す人に否定的ではない。
特に涙腺は緩く、感情移入してしまう。
だが、優劣をつけたがる人には、わたしは冷たい。
「あっそ、よかったね」
しかし、なんの文句なくこころから絶賛する場合もある。
なんだろう?

自分は負ける主義だと言いながら、じつは負けたくないのだろう。
一種のプライドが顔を出す。
自分はどんな分野にプライドを持っているのか、人それぞれだと思う。
わかりやすいところでは、誰の目にも見える部分。
表面の美醜や能力、貧富。
わかりにくいところでは、誰もわからない、目に見えない、比べたりできない部分。
こころの中。
ややこしいのは、表面的に美しい所作や言動、態度で、能力があるように見える、幸せそうに見える、でも、実際は違う、というパターン。
色々複雑である。
目標に向かって外側から変える方法もある。

しかし、メッキはすぐ剥がれる。
頑張ってもいずれバレるのも時間の問題。
メッキではなく、本物なら問題ない。
偽物でも外側も中身も偽物なら問題ない。
外側が偽物で中身が本物ってあるのだろうか?
中には変わった人がいて、そういうのもあるかも知れない。
頓着せずボロを身に纏う?

謙遜したり、謙虚にしていると、軽視されることがある。
声を大きくしないと聞いてくれない。
でも、そんなのは嫌。
どうすればいい?どうしたい?

よく父が言っていた。
自分から言わなくても、わかる人にはわかる、見る人が見ればわかる、と。
でも、わたしの周りは、わからない人ばかりのように思う。
ということは、わたしは大したことがないということか。

説明しなくても周りが納得できるような能力や事実を持っていないのだろう。
隠された真実は何もない、ただの河原の石なのだろう。
それがどうした?
わたしは、自分はとても幸せだと思っている。
きっとどこかで無意識に人を俯瞰的に見ているのだと推測する。

自分を賢人と思っている賢人。
自分をアホと思っている賢人。
自分を賢人と思っているアホ。
自分をアホと思っているアホ。

自分は、いったいどれなんだろう?

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