蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

許せない

2017-11-08 | わたし
許せない気持ち、というテーマのブログを読んだ。
「許せない気持ちとの向き合い方、対処法」がその記事の内容だが、許せない気持ちを抱く背景、経緯が書かれ、さて、いまからその方法をお教えします、と導かれて『つづく』となっていた。
次の記事を読んだら、全く関係ない記事だった。
もう少し、前後にパラパラとページをめくってもよいのだが、スマホだし、初めて目にするブログだし、なんだか出鼻をくじかれ、もうそのブログを離れた。

さて、その方法は、、、?
と、人の教え(記事)を頑張って探して読むよりは、自分で考えたほうが面白い。

たいがい、こころの深い傷は家族との人間関係に根ざしていることが多い。
人に聞いてもらったり、発散したりするのも一つの方法だが、限界がある。
解決は自分が鍵を握っている。
自問自答。自分に聞いてみる。
こんがらがった糸を解いて、(自分で解けないなら、他人の力を借りて)、冷静に自分と対峙してみる。
なんらかの解決の糸口が見えるはず。

他人のアドバイスは、自分を発見するための手助けにしか過ぎない。
人から及ぼされる影響は、よくわかった。
で、自分はどう考えるか?
自分だけのこころに、問うてみる。

未熟な人や、神経や精神に問題を抱える人、経験の浅い人、異常な経験をしている人、トラウマに襲われている人、などなど、健全なこころを維持するのが力不足の場合もある。
神経内科で受診し、専門家に適切な処置をしていただくのが、ひとつの方法。
そんなのわかりきってるわ、という人には、それぞれの自分自身の切り開き方で。

昔の人は良いことを言います。
日にち薬。

自然に任せる。
あんまり頑張らない。
傷が癒えるまで触らない、動かない。
よく効く薬草とかあればいいが、ゆったりした時間だとか、休養だとか、大好きなモノを食べるとか、接するとか、そういうものでもいい。

処方された薬で、気が楽になるならそれでもいいが、わたしは所詮、素人。
病気未満の、揺れる気持ち。

自分のことは、自分に聞くのが一番はやい。

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オンでオフ。

2017-11-07 | 日々のこと
わたしは、いま、完全にオフ。
来年に向けて充電中である。
充電器に繋いでオンキープだが、オフ、という状態である。

最近、アタマもカラダも老化が一段と進み、新しい自分と向き合っている。
年齢は、老齢としては入り口、まだまだ若い部類、黄金期なのであるが、気持ちは年配、先輩の皆様方の胸中を先取りしている。

新しい、老化した自分には、なにもかも新しく感じて、新米はキョロキョロ、きょときょとする。
以前のように旅行に出かけるにも、トイレへの配慮が色濃く心配性になっているため、行き先や日程を変えざるを得ない雰囲気である。
気の問題でもあるので、今のところ、神経が先走っている感があるが。

なにしろ、新しい自分は、マックス能力は、以前の自分であり、そこからどれだけ減退しているのか、経過観察しなければわからない。

意外に、大して変わらなければいいなあ、と、楽観的に考えている。
ポカミスに関しては、限りなく寛容になっている。
が、夫に指摘されると、ものすごく頭に来る。
自分でも自覚しているが、人に言われると腹が立つ。
いたって、普通の感情動物である。

さて、来春、オン予定となっている。
さらに、来年夏からは、本格的オン。
ああ、しんど。
今の間に、思いっきりサボっておこうと、欲を張っている。
わたしの場合、サボることにかけては、貪欲だ。
といっても、一昨日の遊園地で見た、「ナマケモノ」のように、微動だにしないだけである。

もっと能動的な、積極的な、活動的なサボり方はないものか?
老化した新しいわたしには、とりあえず、ぼーっと、何もしないことしか、考えつかない。
陽だまりの居眠りなんかは、最高であり、至福の時であるのだが、また、別のことを考えつく可能性もある。
それはそれで、楽しみである。

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北風と闘う、陽だまり睡魔

2017-11-06 | 日々のこと
わたしのブログ。
アップしない日は、閲覧数がガクンと極端に落ち込む。
閲覧数同様に、わたしの首もガクンと、うな垂れ落ちるのだが、逆に考えると、アップした日は、閲覧数が上がる、ということだ。
(小学生にでもわかる算数)

友達は相変わらず、いないし、いなくても全く平気だし、むしろ友達は煩わしいと感じているぐらいだ。
こういうわたしに、友達が出来るとすると、それは、友達ではなく、連帯を求めない、個、単体である。
単体ばかりが集まって集合体を構成すると、ある意味、不気味なような、へんな安心感のようなものがある。

例えば、おひとり様限定ツアー。
おひとり様が参加条件なので、全員おひとり様で、でも、ゾロゾロ。
これは、不思議な図である。
おひとり様団体ツアー。
おひとり様なのか、団体なのか、ミステリアスな旅か?
(実態は、普通のパック旅行)

例えば、日曜日、朝のモーニングショー。
朝の討論会。
井戸端会議より、ずっと面白い。
わたしが知らない情報を元に、各専門家がコメント、意見を述べる。
友人とディスカッションするより、濃い。
ただし、テレビの出演者が言っているからと鵜呑みにすべからず。
ちょっと情報通の一人の個人が言っているのに過ぎない。
意外と、安酒場の隣のおっちゃんの言っている事のほうが、まともだったりすることもある。
が、まぐれ当たりの、当てずっぽうのことが多い。
基本知識もない、ろくすっぽ調べもしない、情報採集にも偏りがあるだろう。
信用はできないが、感覚発言も、ひとつの意見である。


さて、友達なんか要らないわ、というスタンスのわたしだが、家族は割と大切にしている。
ただ、大切にする想いが、あまり行動に現れない。
目に見えない。
なので、孫たちからは、除け者にされている。
全く人気がない。オファーがない。
不人気ぶりは、皆んなでお出かけした時に、顕著に如実に露呈される。
いつも、その現実に直面する度に、わたしのこころに、冷たい風がヒューと吹き、何度、この風に当たっても、慣れることはなく、寒く冷たく、寂しさで打ち震えている。

と、ここまで書いて、可哀想すぎて、気の毒すぎるわたしに、笑いがこみ上げてくる。
にやけながら書いているのは事実だが、疎外感に打ちひしがれているのも事実だ。

「三つ子の魂百まで」で、幼い孫たちのわたしに対する想いは、直感に基づくもので、一生続くかも知れない。
あんなに除け者にしていたおばあちゃんが、実は孫のために、爪に火を点してお金を貯めていたりするのかも知れない。
ベタ可愛がりしないのは、スポイルしすぎて甘やかして堕落させないための愛の鞭かも知れない。
が、少なくとも、今の孫たちにはそんなことは、一切知らないし、感じていない。
しかし、親が「おばあちゃんを大事にしなさい」と言って聞かせていたら、大事にしているのかも知れない。
今は、現状から見ると、言われていなさそうだ。

とは言うものの、親に言って聞かされていようが、そうでなかろうが、孫が寄って来ないのは現実である。
普通、おばあちゃんは、孫をぎゅーっと抱きしめて、美味しい出来たて料理や、手作りお菓子、運動会のおにぎり&お弁当をたっぷり作って来て、孫たちを喜ばせるのではないのか?
(わたしの姑が、そうしてくれたように)

まあ、していないのだから、見返りがなくて当然だ。
オヤツも、お土産も、プレゼントも、孫たちの気を引くようなことは何もしていない。(いまどきの子供は、生活水準が高いし)

なので、北風ビュービュー、零下マイナス10度でも、自分のしたことを鏡で見て、ブーメランのように返ってくるのを感じるだけ。

で、いまさらながら、それもちょっとわたしが寒すぎるので、安易な策を練った。
一番下の孫なら、まだ間に合う。
食糧は母乳のみ。
何もまるでわかっていないので、今から愛情作戦に出て、ベタベタしようと企んでいる。
たまたま上二人は、男の子、一番下は女の子なので、接する態度が違っていても、言い訳する余地はあるだろう。
しかし、見返りを求めるベタベタは、やはり、悪かも知れない。
被害者は、一番下の孫かも。
そうなっては、お互いのためにも、周りにもよくない。

友達が要らない志向は、孫に対しても同一線上になければならない。
が、人間だもの。
いい加減。
都合のいい時だけ、相田みつをの言葉を借りる。
と、適当にだらだら書いているうちに、だんだん今度は睡魔が襲ってきた。

陽だまりの午後、こっくりこっくり居眠り。
極上の幸せを享受している。

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どんより薄暗い

2017-11-04 | 趣味
前日、どんなに楽しいことがあって、爽やかな朝を迎えるはずであっても、
新しい朝は、のんびり解放された時間であっても、ぼんやりしたアタマに、ふとまたトラウマが蘇る。

大嫌いなAさんのことを思い出しているのだ。
別SNS。スマホでいつも見ているので、画面を指でスクロールする時に、会員の皆さんがアップしている写真コーナーみたいなのがあり、そこを通過しないと、目的のところにたどり着く操作が出来ない。
大嫌いなAさんが何枚も公開している写真の束のところをそおっと指をスルスルと滑らせているのだが、今朝は指の押さえ方、力の入れ方をミスったようだ。

Aさんの写真のところで、たまたま指が強く押されたのか、Aさんのページを開く流れになってしまった。
ページを開くまでもなく、猛スピードでUターンしたのだが、わたしのハンドルネームは、Aさんのページにくっきりと足跡として残されているはずだ。
足跡をつけた時間と共に。

よく日記をアップするわたしとは違い、Aさんはほとんど日記を書かないので、Aさんのところには、あまり訪問する人は多くないはずだ。
だから、わたしの唐突なアクセスは目立つはず。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
意図せずアクセスしてしまった。

日記を新たに書いて、「指ミスで偶然、訪問する場合がありますが、全くのミスですので、無かったこととしてスルーしてください」とでも知らせようかと思ったが、やめた。
逆効果。

どんより、重い、黒いどろっとしたものが、貼りついた気分。
単に、足跡がたまたま付いただけなのに、それがキッカケとして、嫌な想いが喉から逆流してくる。

今朝は、別のある人が、「性ホルモンが減少し、ダンスでもドキドキしなくなった」と日記に書いていた。
Aさんに関しては、わたしは男性的魅力を全く感じなかった。
背もそこそこあるし、顔も悪くないのに、どうしてあんなに男性として、アピール力がゼロなのだろう。
逆に、ギラギラして嫌悪感、拒絶感を抱く人もいるのに、性的に全くニュートラル。
全ての機能は、もうとっくに終了して、今はロボットなのかも知れない。
赤ちゃんや子供のように中性的、というわけでもない。
ロボットのよう。

別れることが出来て、本当に嬉しい。
しかし、喜びよりも、痛みや、怒り、無念さ、情けなさを折につけ思い出す。
そこまで嫌わなくてもいいようなものだが、ある意味、自己嫌悪も含まれている。
だから複雑でタチが悪く、後を引く。

結果的には、最小の被害で、最大の経験が出来たのだから、良しとすべし。
やはりこの経験を得るには半年はかかる。
1日や2日では、この経験は、経験とは言えない。
半年の経験で、貴重な体験が出来て、ある意味、エコ、能率が良かったのかも知れない。

この経験をしないと、趣味関係のことで、モノ申すには深みがない。
説得力に欠ける。
気分の悪い、指ミスから始まった朝であるが、まあ、そういう日もある。
晴でも雨でもない、薄暗く、どんより曇った今朝の天気と同じだ。

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考えてみたら、なにも考えてないということがわかった

2017-11-02 | わたし
老人ホームへの勧誘DMが、ちょいちょい入る。
親の入所先を検討するにあたり、情報を求めた時の個人情報からだろう。
親を入れるのではなく、自分が入るイメージで、DMを見ている。
夫は、冗談で、(本気で?)、「私が入るところ」と思っている。

わたしの子供たちも、子供や孫にお金を使ったり残したりしないで、自分の老後に備えよ、と言う。
自立心は結構だが、つまり、親子、孫、世話する側、される側が立場が逆になっても、最低限度しか支えないよ、と釘を刺されている。
アリとキリギリスはやめてね、と。
現役世代と同じような生活をしていると、収入が減った時はどうするの?と。

なるほど、ご無理ごもっともで。
べったり寄りかかるのではなく、持ちつ持たれつ、距離感を保って、ということだ。
子供(孫)が小さい時だけ、いいように親を便利に使っておいて、あとは知らないよ、ではないわけだ。
親は便利に使われる代償として、貴重な、2度と来ない幼い時代の孫と接し合える。
こんなありがたい、幸せなことはない。

お互い、少しだけ寄りかかり、少しだけ接点を持ち、でも、自分たちの道を歩く。
それは、わたしの理想である。

いつの間にか、自分の理想スタンスを歩きはじめている。
老人ホーム入所の終焉が、現生に思い残すことのない、わたしのハッピーエンドかも知れない。

ありがとう、楽しかったよ、と、老人ホームに入り、その日からあとはもう記憶にないのだろう。
終焉の楽園では、自分がいつこの世を去ったのかもわからないのかも知れないが、自分の意思で生きる寿命が尽きた時が、区切りだろう。
こころと、脳は生きても、身体が思うように行かない時は、意思はあるが、自分を動かせない。
その時は観念するしかない。
さてさて、諦め切れるだろうか。

たぶん、わたしは、どう考えても先にアタマからダメになっていくと思うので、取り越し苦労になると思う。

楽しく毎日を暮らせば、それでよし。
あまり先のことを考えても、よくわからない。
きっと今のまま、楽しい時間が続くだろうと楽観的に考えよう。
というか、なにも考えてない。

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人と同じように出来ないのは、病気なのか?

2017-11-01 | わたし
わたしは、典型的発達障害と思われる。
なぜなら、「こんな人、こんな行動、こんな傾向は、発達障害です」というチェック項目に、どんぴしゃりと当てはまる。

発達障害の人の求人サイトというものもある。
発達障害のために、仕事を辞めざるを得なかった人の求人、、、、
喜ばしいことだとは思うが、ぬか喜びでなければよいが。
ちょっと首を傾げる。

わたしの今の年齢であると、発達障害もそう深刻ではない。
活躍されている人々もおられるが、わたしは、活躍していない。
なので、わたしの場合、活躍の場が限られようが、無かろうが、あまり影響はないのだ。

もし、わたしが若い年齢なら、えらいことだろう。
学業、成績、仕事に直結して悲惨な結果と向き合うことになる。
しかしながら、問題は、わたしは、実は今に始まったことではなく、昔から、若い時から、こんなのなのだ。
若い時から発達障害なのだろうが、当時は、さして、取り沙汰されていなかった。
先生のチェックや、監視の目をたまたま逃れていて、発覚、発見されなかったのだろう。

しかし、普通に仕事をし(事務職ではないものの)、普通に結婚し、子供を育てた。
子供たちも普通に育ち、普通に結婚し、普通に子育てしている。
孫たちも今のところ、普通のようだ。
発達障害の疑いが濃いわたしではあるが、とりあえず、普通にきている(と、自分では思っている)。

では、発達障害とは、いったい、何なのだろう?
アインシュタインや織田信長やリンカーン?なども発達障害らしい。
特殊な能力だけが飛び抜けていても、その他の細々とした全般的なこと、全てを網羅して出来ないと、発達障害なのだろうか。

だとすると、スーパーマン以外は、発達障害ということになる。
そうなら、世の中の多くを占めるかも知れない発達障害の人の求人があっても、おかしくない。

真正発達障害と、擬似発達障害があるのだろうか。
発達障害もどきの人は、どこに属すと、正しい場所なのだろう。

などと、スマホの画面にチラチラ出てくる広告の「発達障害」をちょっと読んだだけで、たいして深く研究もせず、発達障害のことを述べるのは、軽率、軽薄である。
なので、よくわからない、ってことにして、お茶を濁そう。

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