今月、人生の大きな二つのイベントが終わった。孫の結婚式に、車で千葉まで行って妻と二人で出席したこと。もう一つは、新型コロナのワクチンの接種申し込みが終了したこと。この二つは、人生最後の、二度とないイベントだ。高速道路の長距離運転もおそらくあまりないように思う。コールセンターへの電話申し込みも、人気イベントのチケット購入の経験もなかったので、思いでになる出来事であった。少し落ち着いたので、戸外へ出てみると、まさしく花の季節。街路樹も、家々の庭で丹精された花たちが一斉に咲き誇っている。
いったい日本人はなぜこうも花が好きなのだろう。昔話には花にまつわる話がたくさんある。「花咲爺さん」もその一つだ。子のない老夫婦が、子をもらいに出かけるのがこの話の始まりだ。子は宝というが、子は授かるものという考えがこの国にはあった。桃太郎もかぐや姫も、子のない老夫婦に奇跡のように子を授かっている。花咲爺さんの場合、少し話が違っている。子を探しにいく途中で偶然見つけたのが、可愛い仔犬であった。老夫婦はこの犬を子ども代わりに可愛がって育てる。魚ひとつ食べるにも、身は仔犬与え、自分は骨と尻尾でがまんするという具合。
爺さんが仔犬を連れて山へ柴刈に出かけた。すると、仔犬は地面をクンクンして、ここ掘れワンワンと吠える。持っていた鍬でそこを掘ってみると出てきたのはたくさんの小判。たちまち金持ちになった爺さんを見た、隣の欲張り爺が謎を探りに訪れる。どうやら仔犬が小判に絡んでいると見た欲張り爺は、あの手この手で仔犬を借り受ける。ところが、この欲張りは、犬には骨しか与えず、自分ばかり美味しいところを食べている。いつまで経っても、犬が小判を生むわけもなかったので、腹を立てて殺してしまう。
話は長くなるので、ここから端折ってしまうが、仔犬の死骸を泣きながら厚く葬ると、そこから生える一本の松。その松の木を倒して作った臼から、杵で餅を搗くたびに小判がザクザク。隣の欲張り爺が臼を借りて餅を搗くとガラクタばかりが出てくる。怒ってその臼を燃やししてしまう。花咲爺さんが、その臼の灰を持ち帰って、木に撒くと、季節外れの花が咲いた。これを聞いた殿様が、爺さんを召して、「庭の枯れ木に花を咲かせてみい」といわれて灰を撒くとどの木にも、みごとな花が咲いた。
花の咲く春は古来、日本人が大切に考えてきた季節だ。木々の中に眠っていたエネルギーが枝に満ち、蕾に張りが出てくる「張るの季節」が「春」になった。冬は言えば、自然の魂を蓄え、殖やすという意味の「殖ゆ」に「冬」の字が与えられた。花が咲く春になるためには、エネルギー蓄える冬の間の準備が必要であった。