徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル5 犬神家の一族』(角川文庫)

2018年10月21日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

『犬神家の一族』(1950)もタイトルだけ知っている作品のひとつでした。今までどんな話なのかという粗筋すら知らなかったのですが、なんというかドロドロですね。

犬神財閥の創始者犬神佐兵衛が生涯正妻を持たず、3人の側室を置いて、その三人にそれぞれ娘が一人ずつ、松子・竹子・梅子の異母姉妹。これだけでもすでに複雑な家庭環境と言えるのに、娘たちが結婚してまたは結婚を控えていた頃に老いらくの恋をしたとかでわが子たちよりも若い娘にうつつを抜かした挙句に息子まで産ませ、この母子は松竹梅姉妹に追い詰められて失踪。また、犬神佐兵衛がそもそも実業家として成功できたのはひとえに那須神社の神官、野々宮大弐のおかげだったということがあり、大弐の孫である珠世が祖父母両親を失うと、彼女を犬神家に引き取り、自分の娘たちや孫たちよりも可愛がったという歪みっぷり。そして残された遺言状は、この珠世に全財産を相続させるというもの。ただし、珠世は松竹梅姉妹の息子たち佐清(すけきよ)・佐武(すけたけ)・佐智(すけとも)のうちの誰かと結婚しなければならない。また、珠世が死んだ場合は行方不明になっている佐兵衛の息子・青沼静馬が条件に応じて一部~全部を相続することになるという争いが起こらない方がおかしい不穏な状況。佐清が復員してきて、顔に大けがを負ったために往時の顔に似せたマスクを着けて帰郷したという事情も一家の中で疑心暗鬼を生じさせずにはいませんでした。

しかし第一の殺人の犠牲者は犬神家の者ではなく、犬神家の相続にかかわる法律事務所の弁護士の一人若林豊一郎で、金田一耕助に会って事情を話そうとした矢先に殺されてしまいます。その後、犬神家の家宝に関わる斧(よき)・琴(こと)・菊(きく)(=「良きこと聞く」という祝言でもある)と関連付けられた連続殺人が行われ、「ほら言わんこっちゃない」という事態に発展してしまいます。

犬神佐兵衛の過去の秘密がものすごい威力の爆弾のように白日の下にさらされるところも印象的ですが、松竹梅姉妹の父の愛人に対する所業の告白も相当陰惨です。

真犯人はそれほど意外な人物ではないのですが、本人のあずかり知らぬところで謎の共犯者があるらしいことが事件を複雑怪奇なものにしていたようで、あまり金田一耕助が素晴らしい推理で事件を解決に導いたという印象は受けません。例によって真犯人は自殺してしまいますが、最後に一つの恋が実るところは、ちょっとした救いになっているかもしれません。


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル1 八つ墓村』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル3 獄門島』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル4 悪魔が来りて笛を吹く』(角川文庫)



書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル4 悪魔が来りて笛を吹く』(角川文庫)

2018年10月19日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

『金田一耕助ファイル4 悪魔が来りて笛を吹く』は題名からしておどろおどろしいホラー色が出てますが、そういう不気味な舞台設定や、呪いやたたりや幽霊などの何か非現実的なまたは非科学的な背景を暗示しつつ、あくまでも現実の人間が起こした事件を事実追求の積み重ねで解いて行くのが横溝作品の特徴なのかなと4冊読んで思っているところです。

『悪魔が来りて笛を吹く』はフルートを嗜む椿子爵が行方不明になり、その死体が発見された後、椿邸に親族が集まっている際に彼の作曲・演奏した『悪魔が来りて笛を吹く』のレコードが電気蓄音機で勝手にかかったり、椿子爵に似た人(本人?)が目撃されたりして、残された家族・親族が恐怖する中、彼の妻の伯父である玉虫伯爵が密室状況で殺害され、さらに妻の兄である新宮利彦が殺害され、最後に恐怖でノイローゼとなった妻が屋敷から逃げ出した鎌倉の別邸に逃げ延びたところで常用薬に混入されていた青酸カリで毒殺されるという陰惨な連続殺人事件の物語です。しかし陰惨なのは殺人事件ばかりでなく、殺人被害者側の過去の関係も相当ドロドロしています。

またこの殺人事件は、同じ年(昭和22年)に起きて世間を震撼させた「天銀堂事件」と呼ばれる宝石商強盗殺人事件との関係も暗示され、実際にどう関係しているのかを解くのが重要な事件解決のキーとなっています。

上述の椿家の3人以外に口封じに一人殺され、犯人も最後に自殺を遂げるため、前置きで「後味が悪い」と宣言されている通りに後味の悪いストーリーですね。

殺されて当然と思うわけではありませんが、被害者の側にあまり同情できない非道さがあり、容赦なく殺人を行った犯人の境遇と動機に同情したくなってしまう事情があるところにまたやるせなさを感じます。

それにしても青酸カリって本当にそんなに入手しやすいものだったのでしょうか。重要な工業用薬品の1つであるため、あるところにはあって入手しやすいというのは事実らしいですが、昭和22年という戦後の混乱期だからこそ管理もルーズだったというような時代背景もあるのでしょうか。


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル1 八つ墓村』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル3 獄門島』(角川文庫)


スペイン旅行記~マドリード(4)UNESCO世界遺産アルカラ・デ・エナーレス

2018年10月18日 | 旅行

Alcalá de Henares(アルカラ・デ・エナーレス)へ出かけたのは2018年9月29日。マドリードから近いし、UNESCO世界遺産に登録されているし、ということでなんとなく足を延ばした次第です。下の写真を見てお分かりのように、天気は快晴。気温は28~29度でした。

Alcalá de Henares(アルカラ・デ・エナーレス)はマドリード州東部にある小都市で、Recoletos駅から鈍行で約45分のところにあります。「アルカラ」はアラビア語の「城」という語に由来し、一般名称のようなものなので、区別するために「デ・エナーレス」が追加されています。エナーレスは川の名前です。ローマ帝国時代もエルアンダルス時代も特にこれと言って意味のある街ではなかったのですが、12世紀にトレド司教のイニシアティブの下でイスラム教徒から奪還され、1498年にシスネロス枢機卿がここに大学を創立したことで、一躍大学都市として注目を浴びることになりました。スペインで2番目に古い大学で、ヨーロッパ全体でもかなり古いうちに入ります。その由緒正しい校舎Colegio Mayor de San Ildefonsoは素敵なルネサンス様式の建物です。ファサードは1537年、Rodrigo Gil de Hontanónによるもの。上の写真もこの校舎を写したものです。

 

アルカラ・デ・エナーレス大学は中世から現在に至るまで継続してきたわけではなく、1836年にマドリードに移設されました。これによって町は以前の意味を失い、また首都マドリードから近すぎるためにかえって地方都市としても力を付けられなかったようで、スペイン内戦による荒廃も手伝ってそのまま朽ちていくかのように考えられましたが、1973年再び大学を招致することが叶い、経済的文化的に復興したそうです。現在のアルカラ・デ・エナーレス大学は厳密には中世の大学とは別物なのですが、同校は「正統な後継者」みたいに考えているようです。

アルカラ・デ・エナーレス駅から寄り道をしなければ徒歩10分くらいです。でも、寄り道しないなんてもったいないことです。

駅から旧市街に向かう途中にはイスラム建築のお城Palacio de Laredoがあります。小さいですが素敵なお庭があって、覗いてみる価値は十分にあります。建物自体はそれほど古いものではなく、1882年に昔のムデハール様式に倣ってネオムデハール様式で建てられたものです。

  

そこからさらに旧市街の方へ向かって歩くと、Via Complutenseという大通りに出ます。その通りを渡らずに右折し、ちょっと通りに沿って歩くと涼しげな公園があり、その修道院か何かの中庭のような公園の奥に区役所が隠れています。ま、区役所はどうでもいいのですが、カンカン照りの日差しの中で、このうっそうと気が生い茂り、噴水のある公園はまるでオアシスのごとくつかの間の憩いの場を提供してくれます。

先述の大通りを渡るとアルカラ・デ・エナーレス旧市街に至ります。

大学からすぐ近くに「ドン・キホーテ」の作者に因んだセルバンテス広場があります。

  

12世紀にキリスト教の手に落ちて以来キリスト教会に支配されてきたため、現在でも修道院や教会がたくさんあり、この街の特徴となっています。

セルバンテス広場の北端に面し、南西に走るCalle Mayorはこの街のメインストリートで、実はヨーロッパで一番長いアーケード付きの道なんだそうです。柱の種類や太さや高さなどがまちまちで、歴史を感じるということもできますが、統一感のなさはやはりなんか変です。

  

この通りにある「Cocina La Bienvenida」というタパスバーでお昼にしました。ランチメニュー(Menu del dia、前菜、メイン、デザート、飲み物のセット)は外の席だと2€の追加料金が取られて17€でしたが、美味しゅうございました。

    

さて、このメインストリートを西南に向かうと、セルバンテスの生家らしい博物館「Museo Casa Natal de Cervantes」があり、前庭にはドン・キホーテとサンチョパンサがベンチに腰かけていたりします。

 

「ドン・キホーテ」はまともに読んだことないのですが、読んでみたら面白いかも知れませんね。

Plaza de los Santos Niños

 

Palacio Arzobispal

Convento de San Bernardo

残念ながら、大学以外の建物の由来等の説明はあってもスペイン語だけだったりするので、この街ではあれこれ蘊蓄を聞くことも読むこともなく、なんとなく散歩して回って終わりました。

 

ここからマドリード方面へ2駅のところにTorrejón de Ardoz(トレホン・デ・アルドス)という街があり、そこの市立歴史博物館がマルチメディアをふんだんに使った展示方法でいいらしいという情報を得たので、ちょっと覗いてみることにしました。入館料はありません。

Torrejón(塔)という名の通り、この街はアルカラ・デ・エナーレスの防衛の要所として12世紀に要塞と数多くの見張り塔が作られました。17世紀まではアルカラ・デ・エナーレスに属していましたが、その後はトレド司教の所領として農業を主とする共同体でした。1960年ごろから米軍空港周辺に工場や研究機関などが設立され出し、そこそこ発展してきたようです。

 

博物館入口

ローマ人のヴィラを説明するインタラクティブなスクリーン

  

アルカラ・デ・エナーレス~トレホンの防衛システムを説明するビデオもありました。映像主体でしたので、説明がスペイン語でもおおよその内容を掴むのには問題有りませんでした。

 

ただ、上の階に行くと近世の出来事が割と詳細に説明されていて、スペイン内戦の際にトレホンでどの勢力がどう衝突したかなどを語るビデオはさすがにスペイン語だけではいかんとも理解しがたかったのですが。説明されている事情が複雑すぎるのと、私のスペイン近代史に関する予備知識が少なすぎるのが敗因ですね。

スペインだから仕方ないんですけど、スペイン語オンリーでした。何度もスペインに旅行に行っているからといってスペイン語ができるわけではないので残念ですね。食べ物の名称やいくつかの重要単語は覚えましたけど、本格的にスペイン語を勉強する気力まではないので。。。。

 

スペイン旅行記~マドリード(3)観光名所その2」へ戻る。

スペイン旅行記~マドリード(5)UNESCO世界文化遺産トレド」へ続く。


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(1):マラガ

スペイン・アンダルシア旅行記 II(2):グラナダ~アルハンブラ宮殿

スペイン・アンダルシア旅行記 II(3):シエラネヴァダ山脈

>スペイン・アンダルシア旅行記 II(4):アルメリア

スペイン・アンダルシア旅行記 II(5):カボ・デ・ガータ(アルメリア県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(6):アルムニエーカル

スペイン旅行記~マドリード(1)

スペイン旅行記~マドリード(2)観光名所その1

スペイン旅行記~マドリード(3)観光名所その2

 


書評:雪村花菜著、『紅霞後宮物語 第零幕 三、二人の過誤』

2018年10月18日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

『紅霞後宮物語』の新刊が出たので早速購入し、あっという間に読み終わってしまいました。さすがライトノベルですね。

第零幕、三『二人の過誤』は、小玉が皇女(後の王太妃)の護衛に抜擢されてから、皇帝死去、約1年間の田舎暮らしを経てまた中央軍に戻るまでを語る番外編です。小玉と文林の「過誤」、すなわち酔った勢いで肉体関係を持ったとしか思えない状況で目覚めたが、どちらもそのいきさつを全然思い出せないというおまぬけな事態が起こり、文林の無自覚と小玉の無頓着で何やら決定的に気持ちのすれ違いを起こしている二人が滑稽です。しかし、小玉にとっては仕事に忙殺されている間に兄を亡くし、母を亡くすという辛い時期でもあります。

また王太妃の少女時代と小玉の出会いやおかしなやり取りなど、後の二人の関係の基礎が築かれる模様もなかなか楽しく読めます。

文林と薄幸の謝月枝の出会いもこの巻に収められています。謝月枝は本編でもかなり早い時期に文林のスパイとして活躍し、彼のために亡くなってしまっていたので、誰だったか思い出すのにちょっと苦労しましたが。

印象的なシーンは、文林をよこせと言ってそれを断った小玉を、手柄横取りや左遷などでいろいろと嫌がらせをしてきた魏光が汚職で摘発されて粛清され、その首がさらされているところでしょうか。勢いづいてあっという間に出世したものの、転落もあっという間という無常感が無様にさらされた首によって象徴されているようです。魏光の転落と小玉の王都への呼び戻しには文林が一役買っていたようですが、どうやったのかその経緯は詳しくは書かれていません。

番外(過去)編も悪くないですが、早く本編の続きが読みたいですね。


書評:雪村花菜著、『紅霞後宮物語』第零~七幕(富士見L文庫)

書評:雪村花菜著、『紅霞後宮物語 第八幕』(富士見L文庫)


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル3 獄門島』(角川文庫)

2018年10月16日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

『金田一耕助ファイル3 獄門島』(1947)は戦後間もない瀬戸内海の獄門島で起こった連続殺人事件の話です。「本陣殺人事件」から9年後という設定です。金田一耕助は復員船で亡くなった戦友・鬼頭千万太(きとう ちまた)に「3人の妹が殺されないように」と頼まれて、獄門島へ向かいますが、その甲斐なく、彼が島に着いて間もなく鬼頭本家の娘の一人・花子が梅の古木に逆さ吊りになって殺されてしまいます。次に雪枝が島に戻って来たばかりの寺の釣鐘の中で死んでいるのが発見され、二人の通夜をまとめて執り行って間もなく、島外から侵入したという海賊を捕まえるための山狩りが行われている隙に最後に残った娘・月代が絞殺されてしまいます。

島の状況や人間関係の確執、過去の経緯などが徐々に明らかになっていきますが、なぜ網元の本家鬼頭家の嫡男である千万太が死ぬと、その妹たちが殺されることになるのか、その因果関係は最後の最後でようやく解明されます。奇妙な見立て殺人で、しかも連続殺人であるにもかかわらず実行犯人が一人ではないというところに事件の複雑さがあります。

続々と戻ってくる復員兵たち、待っている家族たち、そして混乱した状況を利用して「戦友」と偽って家族のもとを訪れ、「生きて帰ってくる」と嘘をついて知らせに来た謝礼を騙し取るという詐欺を働く者たち。戦争の混乱で崩壊していく封建的な「家」。この『獄門島』が書かれた時代はそういうことがきっとタイムリーな問題・話題だったのでしょうね。ミステリーとして面白いばかりでなく、その時代の風俗・風潮を知ることのできる興味深い作品でもあります。なるほど、『獄門島』は東西ミステリーベスト100(2012)で1位に輝くだけのことはある、ということでしょうか。


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル1 八つ墓村』(角川文庫)

書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』(角川文庫)



書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』(角川文庫)

2018年10月15日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』(1946)はタイトルすら知らなかった作品ですが、密室殺人トリックの登場するなかなか面白い「いかにも」なミステリーです。東西ミステリーベスト100(2012)の10位に入っているのもうなずけます。

事件は昭和12年、岡山県だかの田舎で名家・一柳家の当主の婚姻の晩に起こります。本陣の末裔だという一柳家で起こった事件では、飯屋で一柳家への道を聞いたみすぼらしい風体の三つ指の男が取り沙汰されたり、当主の「生涯の仇敵」なる者が登場したり、分家の者の思惑だとか、何やらいろいろな妖しい事実でミスリードされますが、アメリカ帰りの金田一耕助が謎を解くと「なあんだ」という感じです。ただ、殺人の動機として、根底に凄まじい男尊女卑プラス潔癖症があり、時代と田舎という環境を鑑みれば、それがあり得るのかも知れませんが、現代的男女平等感覚では受け入れがたいものがありますね。ミステリーとしての面白さはそれによって減るわけではありませんが。

この本には他に『車井戸はなぜ斬る』と『黒猫亭事件』の2作品が収録されています。

『車井戸はなぜ斬る』は昭和21年に本位田家という名家で起きた事件で、本位田家の病弱だけど観察眼の鋭い17歳の娘が結核療養所で静養中の兄(次男)に宛てた手紙をベースに語られます。本位田家の先々代・先代当主がやり手で、その昔は並び称されていた3つの名家の中で唯一羽振りのよい家として残り、他の2家は凋落したことによって買った恨みや、先代当主の不倫によって本位田家本家と凋落した秋月家にひと月違いでうり二つの息子が生まれ、それを苦にした病がちな秋月家当主が自殺し、1年後に息子を親戚に預けた後に妻も後追い自殺(両者とも車井戸で)するという不幸な経緯が事件の遠因となっています。戦地から復員した特に目を失って復員した本位田家長男にして現当主が果たして本人なのか、戦地で一緒だったが戦死したという秋月家の息子が入れ替わっているのかといった疑惑の中から生まれた不幸な事件です。

金田一耕助の活躍はなく、ただこの娘さんの書簡やその他の資料を入手したので、探偵小説かである作者に渡しただけ、ということになっています。

これに対して、『黒猫亭事件』は「顔のない死体」というトリック(大抵加害者と被害者が入れ替わる)と「一人二役」という最後までばれてはいけないトリックを組み合わせた「事実は小説より奇なり」という設定のミステリーです。この作品中で何度か「獄門島」事件に言及されますが、時系列的には「獄門島」事件から時を置かず昭和22年に東京で起こった事件とのことです。このトリッキーなミステリーは前置きの通り、顔のない女性の死体が黒猫亭という酒場の裏手(雑木林がうっそうと生い茂る崖に三方を囲まれている)で掘り返されるところから始まります。その死体の身元確認が難航し、黒猫亭を最近売り払って神戸に行ったという夫婦の行方やその夫婦がそれぞれ持っていたらしい不倫の関係などが徐々に明らかになっていくわけですが、隠れた共犯者の供述や行動により捜査が攪乱されます。その絡まった糸を金田一耕助が解くパターンですが、動機は非常に陰惨で残酷無比な上、最後には真犯人自身も自殺するので、何とも後味の悪い作品でした。

横溝正史の本はこれで2冊目ですが、慣れない言葉遣いに結構戸惑っています。時代や出身地の違いもあるかと思いますが、ある意味日本語の勉強にもなります。たとえば「効顕いやちこ」。これは「霊験あらかた」と同じ意味らしいですが、今まで見たことも聞いたこともありませんでした。

次は『黒猫亭事件』で再三言及されていた『獄門島』を読むつもりです。『獄門島』は東西ミステリーベスト100(2012)で1位の作品です。


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル1 八つ墓村』(角川文庫)


【フェイクニュースに要注意】「ドイツが東京オリンピックボイコットの可能性」はデマ

2018年10月15日 | 社会

しばらく前から「ドイツが東京オリンピックをボイコットするかも」というデマ・フェイクニュースがネットで拡散されています。真に受けないようにご注意ください。

とはいえ、「火のない所に煙は立たぬ」というように、このフェイクニュースの火元はなくはないです。その「火元」と思われるのが、Sayonara Nuke Berlinでも紹介されている、「IPPNWドイツ支部キャンペーン”2020年東京「放射能」オリンピック”」です。

呼び掛け文のドイツ語原文はこちらです。この呼び掛け文を全文読んでいただければお分かりになるかと思いますが、決してオリンピック自体をボイコットしようとするものではなく、オリンピックというマスコミ注目度の高い催し物を利用して、被曝の危険性に関する啓蒙キャンペーンおよび日本政府による「日常生活が戻った」かのような印象操作に対する抗議活動を行うというものです。

恐らくタイトルしか読まないネットリテラシーの低い方が「放射能オリンピック」という刺激語を見て「オリンピックボイコット」を連想し、それを拡散したということではないかと思われます。ほんの少し中身を確認すればそういう早とちりはしなくて済むものです。脊髄反射的に刺激的な内容の拡散をする人が多いのには呆れるばかりです。クリック数を稼ぐための意図的なフェイクニュース拡散なら、なおたちが悪いと思います。そのようなものに踊らされないように情報を吟味していただきたいものです。

ちなみに現在、ドイツのホットな話題が東京オリンピックでないことは明々白々です。オリンピックの「オ」の字すら話題になっていません。今、最もホットな話題は「ポスト・メルケル」でしょう。昨日(2018/10/14)CDUの姉妹党であるCSUがバイエルン州議会選挙で史上2番目に悪い結果を出して、CSU党首・現職バイエルン首相の今後の動向やメルケル退陣のタイミング(自らの意思決定の余裕のあるうちに辞任するか、退陣に追い込まれるまで在任し続けるのか)などが一層注目されています。

 

以下はSayonara Nuke Berlinの日本語紹介文の転載です。

IPPNW核戦争防止国際医師会議ドイツ支部のキャンペーンを日本語翻訳で紹介します。


2020年東京「放射能」オリンピック

2018年7月16日付
日本は世界各地からアスリートを招こうとしています。2020年に東京でオリンピックが開催されることになっているからです。私たちは平和でフェアなスポーツ競争を願うものですが、同時に大変懸念もしています。というのは福島県の県庁所在地でもオリンピック競技が開かれる計画だからです。野球とソフトボールの試合が福島市で開催されるということです。ここは原発事故のあった福島第一原発から50キロほどしか離れていません。2011年にはここで複数の原子炉事故が相次いで起き、放射能雲が日本と周辺の海を汚染しました。この災害と唯一比較できるのはチェルノブイリ原発事故だけです。

これによって生態系と社会は深く影響を受け、それらは日本ではまだ消滅していません。故郷を失ってしまったたくさんの家族、住民がこぞって避難して人のいなくなってしまった地域、汚染土を入れた何百万というフレコンバッグ、放射能で汚染された森林、川、湖。「通常な状態」などに日本は戻っていないのです。

事故を起こして破壊した原子炉もまだまだ危険が去ったわけではありません。今も変わらずここから放射能汚染が出続けています。海、空気、土の放射能汚染は日々増えているのです。大量の放射性物質は壊れた原子炉建屋に今もあるだけでなく、原発敷地にも屋外で放射性物質が放置されたままです。この状況では、もし次に大地震があった場合に人間と環境におびただしい危険を及ぼす可能性があります。放射線災害はまだ続いているのです。この警告はそして、当分解除されることがないでしょう。

2020年のオリンピックの日本での開催にあたり、IPPNWドイツ支部では国際キャンペーンを始めることにしました。私たちは、参加するアスリートと競技を見物する観客たちがフクシマ近郊で被ばくするのではないかと懸念しています。特に放射線感受性の高い妊婦や子供たちが心配です。

日本政府は、このオリンピック開催には最終的に120億ユーロかかると予測しています。しかし同時に日本政府は、避難指示解除後、故郷に帰還しようとしない避難者たちには支援金の支払いを止めると脅しています。

国際的に、放射線災害があった場合に住民は、自然放射線を除いて年間で1ミリシーベルトしか放射線を被ばくしてはいけないと規定されています。フクシマの帰還政策により帰還を促された地域では、住民はそれより20倍も高い20ミリシーベルトまでの被ばくは我慢するように求められているのです。すでに村や町が除染された場合でも、森や山は放射線汚染を「貯蔵」する役割を果たすため、風や天気次第ですぐにまた汚染させられる可能性は高いのです。

この国際キャンペーンを通じて私たちはまた、世界中にまだ一つとして放射線廃棄物の最終処分場すらないことも改めて訴えていく次第です。原子力産業が残す猛毒の負の遺産を安全に保管できる場所はないのです。

オリンピックに対しては世界のマスコミが注目します。これを利用して私たちは、日本の脱原発の市民運動を支援し、世界的なエネルギー政策変換を訴えていきたいと思います。化石燃料と核燃料に別れを告げ、再生エネルギーへ向かわなければならないと訴えます。

キャンペーンでは、世界中の政治家がいかに軍産複合体と一緒になって政策を推し進めているか、より明確に指摘していきたいと思います。

IPPNWは放射能に汚染された地域にあたかも「日常生活」が戻ったような印象を世界に与えようとする日本政府に対しはっきり「ノー」を突きつけます。

このキャンペーン趣旨に賛同する個人または団体は、次のメールアドレスを通じてキャンペーンチームに連絡をくださるようお願いします。
olympia2020[at]ippnw.de

(翻訳:Yu Kajikawa von Sayonara Nukes Berlin)

#IPPNWGermany #IPPNWドイツ支部 呼びかけドイツ語 原文:http://www.ippnw.de/atomenergie/artikel/de/tokyo-2020.html

 


書評:横溝正史著、『金田一耕助ファイル1 八つ墓村』(角川文庫)

2018年10月13日 | 書評ー小説:作者ヤ・ラ・ワ行

横溝正史の『八つ墓村』は数多くあるタイトルだけ知っている小説のひとつでしたが、文春の「東西ミステリーベスト100(2012)」の少なくともベスト10は制覇しようなどと思い立ち、そこに複数作品ランクインしている横溝正史の作品を読むことにし、最初の一作として『八つ墓村』を読んだ次第です。

まずは「八つ墓村」という物騒な名前の由来から始まります。戦国の頃、三千両の黄金を携えた八人の武者がこの村に落ちのびたが、欲に目の眩んだ村人たちは八人を惨殺。その後、不祥の怪異があい次ぎ、以来この村は“八つ墓村”と呼ばれるようになったという――。大正×年、落人襲撃の首謀者田治見庄左衛門の子孫、要蔵が突然発狂、三十二人の村人を虐殺し、行方不明となりますが、この時要蔵の妾・鶴子とその息子・辰弥は神戸に逃げていたために難を逃れます。そして二十数年、太平洋戦争が終わって数年の頃、辰弥が田治見家の後継ぎとして八つ墓村に呼び戻され、それと同時に謎の連続殺人事件が再びこの村を襲います。動機が全く分からず、本当に次々に毒殺、時に絞殺されて行くので、かなり怖いです。

語り手は辰弥なので、探偵・金田一耕助は完全に脇役で、重要な役割を果たすものの、「探偵小説」的な色合いはかなり薄いです。それよりも辰弥の味わった恐怖、村人から憎しみを一心に浴び、謂れのない殺人の犯人に仕立て上げられ、追い詰められていく恐怖が前面に出ているので、ホラーですね。

だけど結末が意外にハッピーエンドなのが救いがあると言えます。


スペイン旅行記~マドリード(3)観光名所その2

2018年10月12日 | 旅行

スペイン旅行記~マドリード(2)観光名所その1」では主にガイドさんに案内された旧市街の蘊蓄を書きましたが、ここではガイドさんなしに自力で回ったところを書き留めておきたいと思います。

Estación de Atocha

ドミニカ修道院に因んで命名されたアトーチャ駅は、1891年に完成しました。迫力あるレンガ造りの建物はロンドンのセイント・パンクラス駅を見本にして設計されたそうです。現在この建物は電車のホームとしては使われておらず、「Emperor Carlos V 出口」としてなんと熱帯植物の温室になっており、カフェの他にベンチもたくさん配置してあり、なかなか素敵な憩いの場になっています。池もあって、カメがたくさんいたりします。

 

  

AVE 発着駅としてポストモダンな駅舎が1992年に開設されました。外から撮影する機会はなかったので、下の写真はウイキペディアからの借用です。

中は大きい駅としては普通な感じです。

 

AVE の乗り場にはいるには荷物コントロールを通る必要があり、コントロールの場所は上と下の階にあるので、AVE の出発ホーム番号が上と下のどちらなのか確認する必要があります。コントロール場所に入る前に切符を見せる必要があるので、遅くともその時に間違っていれば「ここじゃない」と教えてもらえます( ̄∇ ̄;)

下の写真はトレド行きの AVE 乗り場。辿り着くのに結構時間がかかりました。

 

Parque del Retiro

レティーロ公園は交通量の多いCalle de Alfonso XII、Calle de Alcalá、Calle de Medéndez Pelayoの3本の道路に囲まれた都会のオアシスで、正門はPlaza de Indenpendenciaの方にありますが、オープンな庭園なので、出入り口はたくさんあります。私たちはアトーチャ駅の方から入りました。

スペインのルーブル美術館とも言うべきプラド美術館からも近いですが、一日に両方回るのはかなりの健脚でないと無理なのではないかと思います。レティーロ公園は120ヘクタールの広さですので。

この公園には宮殿や記念碑がいくつもあります。フェリペ2世の時代にはれっきとした街の「外」の王宮Real Sitio del Buen Retiroとして使用され、エンリコ4世によって設立された修道院サン・ヘロニモと一体となっていました。フェリペ4世の時代に修道院の庭園が改修され、王に献上され、以降は王宮の催事に利用されたため、国外でも有名になりました。18世紀に市民にも一部が開放されました。レティーロ公園全体がマドリード市に譲渡されたのは1869年になってからです。

公園内には展示場として使われるネオルネサンス様式の宮殿が二つあります。どちらもRicardo Valázquez Boscoによって建てられたものです。Palacio de ValázquezとParacio de Cristalですが、後者のクリスタル宮殿の方が有名です。クリスタル宮殿は元々はエキゾチックなアジアの植物を展示するために建てられたものですが、現在は芸術品の展示に使用されています。宮殿前には池と噴水があり、なかなか素敵なロケーションですが、観光客でいっぱいなのと、その観光客を狙ってお店を広げる人たちが邪魔と言えば邪魔です。ちなみに池にはカメがたくさんいます。

   

頭隠して尻隠さずのアヒル。

 

Paracio de Cristal

 

Palacio de Valázquez

クリスタル宮殿からPalacio de Valázquezの傍を通ってゆっくりと7~8分歩くと、ボート遊びもできる大きな池(Estanque Grande del Retiro)に着きます。池を見ながら食事できるレストランもあります。場所柄割高で、お味の方は「まあ食べられる」というくらいのレベルですので、別の場所で食事をしてから公園に行くか、お弁当を持って行くのがいいかと思います。

  

アルフォンソ12世の記念碑。

  

 

Paseo del Prado & Museo del Prado

プラド美術館はハプスブルク王家とブルボン王家が収集した絵画コレクションを主体としてしていますが、19世紀初期までのスペイン絵画が集められています。

私たちは絵心があるわけでもないので、中に入る気はなかったのですが、1819年に完成した古典主義の建物だけでも見ておこうと緑多いPaseo del Pradoを渡って、美術館の方へ足を運んだのですが、肝心の建物は改装中で大部分包まれちゃってました(´;ω;`)

   

San Jerónimo el Real

仕方がないのでプラド美術館のわきを通って丘を登っていったところにあるサンヘロニモ教会をのぞいてみました。イザベリアン・ゴシック様式というのだそうで、イザベラ1世の時代に修道院として建築され、その教会でアウストゥリアのプリンスにして未来の王フェリペ2世の叙任式が1528年に執り行われました。そのフェリペ2世が1561年に居城をマドリードに移した際にPalacio del Buen Retiroを拡張して、この教会の内陣の向かい側に彼の寝室を作り、寝室で教会のミサを聴けるようにしたそうです。

現在レティーロ公園になっている敷地に合ったこの王宮もサンヘロニモ教会もナポレオン占領時代に相当破壊されてしまい、19世紀中葉のイザベラ2世の時代に再建されたとのこと。

大袈裟な建築様式ではなく、すっきりと優雅な感じがして私はこういうのの方が素敵だなと感じました。

  

Museo municipal de historia de Madrid

このマドリード歴史博物館は、本当は私たちが目指したところではなかったのですが、マドリードの旅行ガイドを3冊も買ったのがおよそ10年近く前で情報が古くなっており、本来の目的であったMuseo de la ciudadというCruz del Rayo駅近くのマルチメディア展示の歴史博物館がなくなっていたんです(T_T)
その跡地には市役所関係の施設がまだあり、そこの人がこの市立マドリード歴史博物館を勧めてくれたので行ってみた次第です。最寄り駅はTribunal。

この博物館のファサードはマドリードを代表する美しいバロック建築の一例です。地下に展示されている17世紀のマドリード市のモデルと、1830年のマドリードのモデルが見ものです。同じ室内にビデオを見られる一角があり、17世紀のマドリードのモデルを実際の通りの名前を交えて説明するビデオが流れています。なかなか興味深いものでした。

1階から3階に上がるごとに時代が新しくなっていく展示の仕方です。展示されているのは様々な工芸品、陶器、絵画、装飾品など。一応英語の説明もありますが、全体的に退屈な従来型の博物館という感じですね。入場料無料だから許せるような( ´∀` )

     

Taberna 9

Tribunalの界隈は何か独特のガラの悪いような若者たちがたむろするような雰囲気のするところのような印象を受けました。でも食事のためにわざわざ他へ移動するのも面倒でしたので、博物館を出た後に近辺でレストランの類を探し、「Taberna 9」という居酒屋を見つけました。Googleの口コミではなかなか評判の宜しい所のようです。コロッケ、イベリコ豚の生ハム、カツオの燻製、サラダなどを美味しく頂きました。

   

スペイン旅行記~マドリード(2)観光名所その1」へ戻る。

スペイン旅行記~マドリード(4)UNESCO世界遺産アルカラ・デ・エナーレス」へ続く。


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(1):マラガ

スペイン・アンダルシア旅行記 II(2):グラナダ~アルハンブラ宮殿

スペイン・アンダルシア旅行記 II(3):シエラネヴァダ山脈

>スペイン・アンダルシア旅行記 II(4):アルメリア

スペイン・アンダルシア旅行記 II(5):カボ・デ・ガータ(アルメリア県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(6):アルムニエーカル

スペイン旅行記~マドリード(1)

スペイン旅行記~マドリード(2)観光名所その1


スペイン旅行記~マドリード(2)観光名所その1

2018年10月10日 | 旅行

ーーー注意:ブログのエディタに使用できる書式や文字に制限があるため、スペイン語表記が部分的に正しくない場合がありますのでご了承ください。ーーー

マドリードで私たちが参加したツアーは2つです。9月27日にドイツ語ガイドとともに歩いて旧市街を回ったのが1つ。もう1つは9月30日に観光バスでちょっと広い範囲を回るツアーでした。

まずはマドリード全体の印象が分かるバスツアーの写真をご覧ください。私たちのスタート地点はプラド国立美術館からほど近いネプチューンの噴水があるPlaza Cánovas del Castilloでした。そこから南下してAtocha駅の方へ向かい、Plaza Emperador Carlos Vで左折し、さらに左折してレティーロ公園のわきを通るCalle Alfonso XIIを北上、Plaza de la Independenciaで向きを変えて、Plaza de la Cibelesに向かい、そこでまた北上して、高層ビルやオフィス街を通ってスタジアムまで行き、そこでUターンして少し南下したところまでのルートははっきり覚えているのですが、その後はちょっと方向感覚を失ってしまい、どこをどう通ったのかは分からなくなってしまいました。大使館がたくさんあり、お金持ちのビラが多い地区を通って、いつの間にかGran Viaあたりに出て、Templo de Debodという古い遺跡の前を通って、王様の住んでいない王宮Palacio Realに向かい、短いトンネルをくぐってPlaza Mayorの近くで停車した時に、私たちはバスを降りました。 

                 

バスは赤いSightseeing Busの方ではなく、黄色い方のバスで一人12€と安価な方を選びました。結果的にそれはいい選択ではなかったのですが、後の祭りです。赤い方に21€払って乗った方がよかったと悔いても始まりません。(T_T)

何が悪かったかと言えば、まず、若くてなかなかイケメンのお兄ちゃんがガイドとしてスペイン語と英語でべらべらしゃべっていたことです。普通は観光バスには多言語対応の音声ガイドがついていて、人間のガイドがライブで案内をすることなどまずないのですが、そのように喋りまくられては音声ガイドの方は聞けたものではありません。まあ、聴こえた限りでは大した内容でもなく、ほとんどの時間音楽がかかっていただけだったのですけど。その音声ガイドの内容の薄さもマイナス点ですね。

こういうところでケチってはいけないというのが教訓ですね。

歴史的な市街地の方の歩きツアー(ドイツ語)は9月27日に参加したのですが、こちらはドイツ語ネイティブ(おそらくスイス人)によるガイドでしたので、言葉の至らなさといった問題はなく、またガイドの質も上々でした。歴史的データを盛り込み過ぎず、面白い歴史の裏話などを交えて生き生きとマドリードを語ってくれました。

コースは、Puerta del Sol -- Calle del Arenal -- Teatro Real - Plaza de Oriente -- Palacio Real -- Catedral de la Almudena -- San Nicolas de los Servitas -- Plaza de la Villa -- Calle del Codo -- Iglesia de San Miguel -- Mercado de San Miguel -- Plaza Mayor。

Puerta del Sol

Puerta del Solはそのまま訳せば「太陽門」ですが、その広場の名のもとになった門は、すでに1570年に取り壊されました。場所を作るためにその周辺にあった多くの建物が取り壊されたそうです。こうして広くなったこの広場に建つReal Casa de Correos(王立郵便局)はカルロス3世が建てさせたもので、この広場で最古の建物です。その入り口前に「キロメートル・ゼロ」のプレートが置かれています。この地点からスペイン各地に伸びる国道の距離が等しいという地理的な中心点を示すものです。このプレートと自分の足を写真に収めようとする観光客で常に人だかりができているようです。私たちは自分で写真を撮るチャンスがありませんでしたので、下の写真はウイキペディアからの借用です。

広場の端の方にはマドリードのシンボルである「熊とイチゴの木」のブロンズ像があります。なぜマドリードのシンボルがこれなのかについては諸説ありますが、一番もっともらしい説は、教会と貴族の共存を象徴するという説です。中世ヨーロッパでは貴族も教会も同じように領主として領土から上がる収益を得ていましたが、マドリード市では貴族の所領と教会の所領が重複していたため、貴族が狩猟獲物(熊に象徴される)、教会が農作物(木に象徴される)を取得するという棲み分けのための取決めがあったということらしいです。

ともあれ、この「熊とイチゴの木」は待ち合わせ場所として人気があり、私たちが参加したツアーの集合場所もここでした。

 

この広場は地理的な中心点というばかりでなく、政治的にも重要な役割を果たしました。ナポレオンの弟ジョセフ・ボナパルト(ホセ1世として即位)による支配に対して反旗を翻し、6年間にわたる抵抗運動が1808年5月2日に始まったのがこの場所でした。抵抗勢力は翌日圧倒的な軍事力で殲滅されてしまいましたが、抵抗運動はやむことがなく、ついにフランス軍を追い出して、1814年、フェルディナンド7世の帰還を迎えたのでした。スペインは1700年以降フランスのブルボン王家の支配下にあり、このフェルディナンド7世もフランス王家の人なのですが、王家の人はよくても、コルシカ出身の平民皇帝ボナパルトの弟は受け入れがたかったということでしょうか。 

Calle del Arenal

Calle del Arenalはそのまま訳せば「砂堀通り」です。このため、通りの名を示すタイルには砂の山が描かれています。

この通りは元は小川があり、その川沿いに肉屋がたくさんあったのだそうですが、肉屋が処理済みの動物の残骸を川に捨てて流していたので、その下流に当たる王宮前では腐敗した動物の残骸がたまり、見かけも臭いもひどいことになっていたそうです。このためこの小川は埋められて道路になったらしく、その埋め立ての様子がタイルに描かれているらしいです。

 

肉屋に関して興味深い話を聞きました。8世紀以降イスラム教徒の支配下にあったスペインでは、「豚肉」に特別宗教的な意味があったそうなのです。イスラム教徒は豚肉を食べません。また、スペインに数多くいたユダヤ教徒も豚肉は食べません。このため、店先に豚の脚を吊り下げるということは、肉屋であることと同時にキリスト教徒であることも示していたわけです。

現在この通りは高級ブティックなどがあるショッピング街ですが、ひょっこり下の写真のような古色蒼然とした教会が姿を現したりします。San Gines教会は、11/12世紀に建てられたモサラベの教会が破壊された跡に、17世紀中葉に建てられました。

 

その教会の壁に建て付けられている本屋も「1650年に建てられた」旨が瓦屋根のすぐ下に記されています。老舗の本屋、すごいですね。

この業界を取り囲むPlaza de San Ginesという広場にはマドリード最古のチョコラテリア(ホットチョコレートとチューロという焼き菓子を出す喫茶店)があります。ホットチョコレートとチューロの組み合わせはアンダルシアではあまり見かけませんでしたが、マドリードあたりでは随分人気があるようです。カロリー爆弾ですが(笑)

Teatro Real

 

Calle del Arenalは、Teatro Real(王立歌劇場)に突き当たります。今年は「設立200周年」を祝っている歌劇場ですが、1818年には礎石が置かれただけで、工事は王家の財政難のために中断し、1830年になってようやく本格的な建設が始まり、1850年に完成したので、200周年はちょっとインチキっぽいですね。フェルディナンド7世の娘イザベラ2世によってオープンした歌劇場ですが、先述の埋めた川の上に建てられたため構造上の問題があり、1925年に改修工事のために一時閉鎖されました。1960~66年にコンサートホールとして改装され、以降ずっとコンサートホールだったのですが、大掛かりな改修工事の後、1997年から再びオペラハウスとして使用されています。

Plaza de Oriente

Plaza de Orienteは直訳すれば「東の広場」です。王宮と歌劇場の間に位置しています。先述のホセ1世が王宮と街の間の緩衝地帯として造営し始めたものですが、結局追い出されてしまったので、現在の形に完成させたのはイザベラ2世です。

この庭園に配置されている歴代王の彫像は、王宮の屋根を飾っていたのですが、イザベラ2世だったか、そののちの王妃だったか覚えていないのですが、「彫像が落ちて来るのが怖くて眠れないから、全部どけるまで王宮には入らない」と言ったので、屋根から降ろされたそうです。

 

この庭園のほぼ中央にあるフェリペ4世の騎馬像はじっくり見るに値します。なぜなら、この騎馬像は馬が前脚を宙に浮かせている画期的なデザインだからです。後部に詰め物をし、馬の尻尾を長くすることでバランスをとっています。Plaza Mayorにあるフェリペ4世の父・フェリペ3世の騎馬像よりも立派なものが欲しくて特別にデザインさせたそうです。父親を超えたい願望は身分や国にかかわらず普遍的なもののようですね。

 

Palacio Real

現在Palacio Realが建っている丘には、元々はイスラム教徒の要塞アルカサルがありましたが、そこを11世紀からキリスト教徒のスペイン王たちが若干手を入れて使うようになりました。1561年にハプスブルク王家のフェリペ2世がマドリードを首都にした際に、このアルカサルも大幅に改築・拡張されました。彼がマドリードを首都にした理由の一つは狩猟場がすぐ近くで、狩猟好きの彼にとって魅力的な土地だったからだそうです。しかし、ハプスブルク王家は長年の近親相姦のために精神薄弱などの障害を持つ者が多く、最後の王位継承者もその理由で廃嫡となったため、王位継承権を巡ってフランスのブルボン王家とオーストリアのハプスブルク家が争い、結果的にフランスが勝って、1700年にスペインの王位を継承しました。ハプスブルク家のアルカサルは1734年のクリスマスに火事でほぼ全焼しましたが、これはわざとだという噂もあります。ベルサイユ宮殿のきらびやかなロココ風建築に慣れた目には、ハプスブルク家の居城は古臭く、やぼったく見えたに違いないので、新しくベルサイユ宮殿に倣った、しかしそれよりも大きな宮殿を建てられるように古い居城を燃やしたのではないかという推測です。とにかくブルボン王家のフェリペ5世はイタリア人建築家のフィリッポ・ジュヴァーラに宮殿の新築を依頼しました。ジュヴァーラ死後は、弟子のジョヴァンニ・バッティスタ・サッケッティが引き継ぎ、設計に一部変更を加え、ファサードにはロレンツォ・ベルニーニ設計のルーブル美術館のファサードを借用しました。1764年に完成し、カルロス3世が新宮殿の最初の住人となりました。2800室以上あるという王宮は、現在は王の居城としては使用されていません。一部一般公開されており、武器コレクションが見ごたえがあるという話です。私たちは興味がないので外から見るだけにしましたが、中を見学したい場合は、前売りチケットを買った方が並ばずに済むのでお勧めです。

以下の写真はツアーが終わってから戻ってきてアルムデーナ大聖堂側から撮影したものです。

  

Catedral de la Almudena

アルムデーナ大聖堂が現在の姿になったのは1960年のことなので、教会としてはかなり新しい部類に入ります。この場所には16世紀には立派な教会が建っていましたが、1870年になぜか取り壊され、その13年後にネオゴシック様式の教会建設が始まりました。工事は遅々として進まず、先に完成した納骨堂が教区教会として1911年から使われていました。1940年になってようやく工事がまともに進むようになりましたが、この際に一部設計が変更されました。王宮に面している側のファサードは王宮の建築様式に合わせて作られたため、大聖堂全体としては様式も色合いも変に混じっていてちょっと奇妙な雰囲気を醸し出しています。非常に古い教会で、数百年もの間に何度も建て替え・建て増しされたものだとよく建築様式が混じっている場合がありますが、それはそれで、それぞれの建設時期の歴史が感じられて味わい深いものがあると思うのですけど、アルムデーナ大聖堂のように数十年の建設期間で混合様式というのはやはりいただけませんね。

ツアーの後に戻ってきて、中に入りました。入場料は1の寄付金のみです。天井やステンドグラスの色彩が新しいだけあってとても鮮やかですが、それを除けば比較的質素な内装です。

            

大聖堂を出て右側(南側)の道を50mほど降りると、納骨堂の入り口があります。ここも入場料は1€の寄付金のみです。この納骨堂はネオロマネスク様式で統一されています。ネオロマネスクは6-10世紀のロマネスク様式の焼き直しのようなものですが、ロマネスクの柔らかな曲線と暖かみを残しつつ現代的に洗練されているのが素敵です。>ゴシック様式に比べて、人間に対して優しい感じがします。

               

現代的な施設に相応しくWifiがあり、wifimuseum.com から案内が聞けるようになっていますが、中では音楽もかかってて、オーディオガイドを聞き取るのは至難の業です。

納骨堂ですので、当然ご遺体が安置されているわけなんですけど、側壁のチャペルの中とかなら違和感がありませんが、床下に埋葬するのはちょっと違和感がありますね。数百年も昔の司教さんとかならその上を歩いてもあまり気にならないかもしれませんが、あんまり新しいとその上を歩いてしまうのにはやはり少々抵抗があります。下の写真のようにお花がお供えされていればもちろんよけますが。。。

また、歴史が浅い分空きスペースもまだあるのが何というか新鮮な驚きみたいな… 歴史ある教会をたくさん見てきたので余計そう感じるんでしょうね。

 

San Nicolas de los Servitas

この教会はマドリード最古の教会だそうです。San Nicolasはサンタクロースのことです。モスクだったところに建てられた教会のようです。塔はイスラム建築の影響を色濃く受けたムデハール様式です。

 

Plaza de la Villa

Plaza de la Villaは「町の広場」という意味で、ハプスブルク王家がここに建てた町役場(Casa de la Villa、1644年、下の写真の右の建物)に由来します。またの名を「3つの牢屋の広場」というそうです。この広場にある建物(Casa de la Villa、Casa de Cisneros、Torre de los Lujanes)にはそれぞれ牢屋があるからだそうです。

 

Casa de la Villa

Casa de Cisneros(シスネロスの家)は15~16世紀の枢機卿フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスの甥が枢機卿のために建てたもので、下の写真のようにCasa de la Villaと渡り廊下で繋がっています。シスネロスの政治的影響力の大きさがうかがわれます。

 

Torre de los Lujanes(下)はマドリード最古の非宗教的なイスラム建築(15~16世紀)です。この塔にカルロス5世が1525年のパヴィアの戦いの後捕らえられていました。とはいえ、勝手に出て外を散歩することは許されていて、中もかなり豪華な作りだったようですが。そして彼は自分の居室の入り口をかがまなければ中に入れないように小さくさせて、わざわざフランス王フランソワ1世を呼びつけたとか。結果、フランソワ1世はその入り口のために部屋に入る際にカルロス5世に向かって深くお辞儀するようにかがまなければならず、それでカルロス5世の気が済んだという話です。なかなかせこい真似をしたものですね(笑)

 

Mercado de San Miguel

サン・ミゲル市場は1835年から現在の位置にあります。20世紀の初めに鉄骨構造が完成し、さらに今世紀になってガラスの壁がはめられ、暑さ寒さに対応できるようになりました。長期にわたる改装工事が終わり、再オープンしたのは2009年5月なので、市場としての歴史はあるものの、外装・内装共にとてもきれいな印象を受けます。

中は常に観光客で賑わっており、私たちのような人ごみの苦手な人間には混んでいる中並んで何かを買うというのはなかなか難しい課題です(;^_^A

今回はツアーの一環として中を見学したものの、その時もその後のマドリード滞在中も何も買うことができませんでした。次回はそれに挑戦したいですね。

  

 

Plaza Mayor

 

Plaza Mayorを「マヨール広場」と訳している旅行ガイドサイトを見かけますが「Mayor」は固有名詞ではないので、「大広場」または「中央広場」と訳すのが適切かと思います。

サン・ミゲル市場から下り坂のCava San Miguelを下りて行くと、様々な伝統的なレストランが並んで壁に埋め込まれています。洞窟のように掘ってあるので「Cava」と名付けられているわけですが、実際に中に入ってみると、天井が丸くなっています。上階が建て付けられているので、地形を認識することは難しいですが、崖のような斜面になっていると思います。こうした洞窟レストランがならぶ崖の上がPlaza Mayorです。

Meson del Champinon(マッシュルーム専門店)の店内

 

La Bodega Bohemiaの店内

  

下の写真の階段を上っていくと、Plaza Mayorに出ます。

 

下の写真が階段を上ってすぐのところから撮影した写真です。一部のファサードが改修中で、その面の絵が描かれた布が張ってありました。一応それでオリジナルの雰囲気は掴めますけど、やっぱりちょっと興醒めですね。 

Plaza Mayor 120 X 90 mの長方形で、四方を同じ様式の建物に囲まれています。豪華に見えますが、元々は肉屋やパン屋として使われていました。この広場は商業の中心地であるばかりでなく、王様が重要事項を交付したり、処刑が行われたり、闘牛や演劇または騎士の剣術大会などのイベントも行われました。一時期公園のように木が植えられたこともあるようで、現在またそのようにしてはどうかという案が議論されているそうです。

   

フェリペ3世の騎馬像は、最初からここにあったわけではなく、もとはCasa de Campoにあったそうで、1847年になって現在の位置に移設されました。移設のために騎馬像は分解されたのですが、その際に中からたくさんの鳥の骨が出て来たそうです。馬の口が開いていたため、小鳥が中に入り込み、出られなくなってしまったらしいですね。このため、現在の場所に移設する前に馬の口が閉じられたのだとか。

この騎馬像が、息子のフェリペ4世が張り合って自分の騎馬像を作らせたもとで、馬の前脚が1本だけ上げられています。馬のお腹が異常に大きく騎手のフェリペ3世が小さく見えるので、必ずしも優れたデザインとは言えないのですが。Plaza de Orienteにある両前脚を上げた躍動感溢れるフェリペ4世の騎馬像の方が数段芸術的だと思います。本人が意図した通りに父親を超えています( ´∀` )

ガイド付きのツアーはここで終了でしたので、私の観光名所案内もここで一度中断し、(3)で続きを書こうと思います。

「スペイン旅行記~マドリード(1)」へ戻る

「スペイン旅行記~マドリード(3)観光名所その2」へ 


スペイン・アンダルシア旅行記(1)

スペイン・アンダルシア旅行記(2):セビリア

スペイン・アンダルシア旅行記(3):モンテフリオ(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記(4):グラナダ

スペイン・アンダルシア旅行記(5):グアディックス(グラナダ県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(1):マラガ

スペイン・アンダルシア旅行記 II(2):グラナダ~アルハンブラ宮殿

スペイン・アンダルシア旅行記 II(3):シエラネヴァダ山脈

スペイン・アンダルシア旅行記 II(4):アルメリア

スペイン・アンダルシア旅行記 II(5):カボ・デ・ガータ(アルメリア県)

スペイン・アンダルシア旅行記 II(6):アルムニエーカル

スペイン旅行記~マドリード(1)