徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ヴァルキューレ事件(ヒトラー暗殺未遂事件)75周年(2019年7月20日)

2019年07月20日 | 歴史・文化

1944年7月20日、Claus Schenk Graf von Stauffenberg(クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵)参謀大佐を含む200人余りの軍民取り混ぜた反ヒトラー抵抗グループによって慎重に計画され進められてきたヒトラー暗殺作戦「ヴァルキューレ」(Operation "Walküre")が、東プロイセンの「ヴォルフスシャンツェ(Wolfsschanze、狼の堡塁)と呼ばれる総統大本営(Führerhauptquartier)で実行に移されました。この暗殺計画は用意したプラスチック爆弾2個のうち1個しか安全解除できず、解除できなかったもう1個を持ち帰ってしまったために爆発の威力が不足して失敗したと言われています(Time-Freeze: Das Stauffenberg-Attentat | Galileo | ProSieben)。ヒトラーはこの時丈夫なオーク材のテーブルが盾になったこともあり、軽傷を負っただけでした。

フォン・シュタウフェンベルク大佐を含む主な関係将校らはその日のうちに逮捕され、7月21日に入った深夜に銃殺刑となりました。彼ら国防軍(Wehrmacht)の将校らは終戦直後はまだ「裏切り者(Verräter)」「誓い破り(Eidbruch)」などと否定的な評価しか受けていませんでしたが、時間が経つとともに英雄視されるようになりました。しかし、死刑に処された「裏切り者」将校たちの遺族は戦後隠然と続いていたナチス支配の司法のもとでナチス時代の判決は有効であり続け、それにより補償を受けられないなどの苦労を強いられていました。ようやく1998年になってドイツ連邦議会はナチス時代の国民裁判所(Volksgerichtshof)および特別裁判所(Sondergerichte)の判決を無効にし、2002年に軍事裁判(Militärjustiz)の判決を全て無効化しました。しかし、Kriegsverrat と呼ばれた反逆罪による死刑判決が無効化されたのは2009年になってからでした。この Kriegsverrat の罪状は1941年に導入され、以来多くの抵抗者たちがこれによって処刑されました。

ドイツの戦後司法の闇を表すほんの一例と言えます。

しかし今日では一般に7月20日の将校たちは特に国防軍(Wehrmacht)の後継組織である連邦軍(Bundeswehr)の誇りであり、また、「ドイツ人皆がヒトラーに賛同し、かの残虐極まりない犯罪に加担していたわけではない、抵抗する勢力もいたのだ」という一種の救いを見出しているようにも見受けられます。確かに国防軍はナチス親衛隊などの生粋のナチスたちとは一線を画しており、その狂気を必ずしも共有していなかったので、戦争に勝つ見込みがないことにより早く気付くことができたとは言えるかもしれません。最初はともあれ、負けが見えてきたので最後の一人まで戦うことを強要するヒトラーを暗殺して戦争を早く終わらせようとしたのは敬意に値するとは思います。

"Es ist Zeit, daß jetzt etwas getan wird. Derjenige allerdings, der etwas zu tun wagt, muß sich bewußt sein, daß er wohl als Verräter in die deutsche Geschichte eingehen wird. Unterläßt er jedoch die Tat, dann wäre er ein Verräter vor seinem eigenen Gewissen."(今何かをなす時なのだ。しかし、なにかをなそうとする者は、裏切り者としてドイツの歴史に名を遺すであろうことを自覚せねばならない。だがその行いをしなければ、自らの良心に対する裏切り者となろう)と言ってフォン・シュタウフェンベルク大佐は爆弾を仕掛けに行ったそうです。

そうした勇気を讃えて今日ベルリンの防衛省前で記念式典が行われました。メルケル首相は抵抗者たちを現代の全ての人間の見本であると讃え、「私たちもレイシズムや反ユダヤ主義の証人になることがあれば、人間性、法治と民主主義のためにに尽力し、市民としての勇気を見せましょう(Setzen auch wir uns ein für Menschlichkeit, Recht und Demokratie und zeigen wir Zivilcourage, wenn wir Zeugen von Rassismus oder Antisemitismus werden)」と呼びかけました。

参考記事:

taz, 20. Juli 2019, "75 Jahre Attentat auf Adolf Hiltler: Der 20. Juli und die Lüge"

ZDF heute, 20. Juli 2019, "75 Jahre Attentat auf Hitler - Merkel ehrt Widerstandskämpfer als Vorbilder"


ドイツの休暇

2019年06月29日 | 歴史・文化
休暇なしにドイツ人の仕事は語れません。同僚とのスモールトークも休暇の話題が実に多いです。特に今、6月下旬は夏季休暇シーズンが始まったばかりですので、ミーティングをすれば必ず一人か二人「あ、私来週から3週間休暇なんで(Ach übrigens, ich habe ab nächste Woche 3 Wochen Urlaub)」とか断りを入れる人がいます。このように申告してきた人には「ではよい休暇を(Na dann wünsche ich Ihnen (dir, euch) einen schönen Urlaub!)」などというのが普通です。「Schönen Urlaub!」だけでも別れの挨拶としてならOKです。
会社勤めの人が Urlaub と言えば、通常有給休暇(bezahlter Urlaub)のことを指しています。
休暇を取る権利は Urlaubsrecht で、その法的根拠は労働法(das Arbeitsrecht)の1つである連邦休暇法(das Bundesurlaubsgesetz、略語はBUrlG)に定められている法的休暇請求権(Gesetzlicher Urlaubsanspruch)です。
休暇法第1条の条文がそれです。
Jeder Arbeitnehmer hat in jedem Kalenderjahr Anspruch auf bezahlten Erholungsurlaub. (いかなる被雇用者も毎暦年有給休養休暇を請求する権利を有する)
そして第3条で年何日有休の権利があるのかが定められています。
  1. Der Urlaub beträgt jährlich mindestens 24 Werktage.(休暇は少なくとも年間24営業日とする)
  2. Als Werktage gelten alle Kalendertage, die nicht Sonn- oder gesetzliche Feiertage sind.(営業日とは日曜日または法定祭日を除くすべての暦日のことである)
法で定められた最低限の休暇は年24日ですが、役所や大企業、余裕のある中小企業などでは年30日と定められています。なのでドイツの法定休暇日数が年30日だと勘違いしている人も少なくありません。
ドイツの有休休暇の消化率は日本と違ってほぼ100%です。
そして祝祭日(病欠日も)が有給休暇とカウントされないため、実働日数は週休2日(5-Tage-Woche)のフルタイム(die Vollzeit)の人の場合だいたい年220日くらいになります。
Man arbeitet zwischen den Urlauben :-)
(休暇と休暇の合間に労働する)
また休暇中に事故(der Unfall)にあったり、病気になったり(krank werden、法律などでは erkranken)すると、担当医または治療病院が発行する就労不能証明書(die Arbeitsunfähigkeitsbescheinigung、略語はAU。das Attestとも言う)に記載された日数は病欠とカウントされるため、すでに許可され、消費されたことになっている有給休暇日数から差し引かなくてはなりません。
このため、3週間の予定で休暇を取った同僚が事故や病気などで4週間または5週間後に復帰するということもあまり珍しいことではありません。
休暇か病気かまたは研修などの理由にかかわらず労働していない日は Fehltage または Fehlzeiten として人事などの統計に使用されます。
全国の欠勤日数統計は法的健康保険組合が毎年発表しますが、この場合は Fehltage / Fehlzeiten とはいえ、病欠のみの統計です。なので記事の見出し以外では正確に krankheitsbedingte Fehlzeiten や Krankheitstage などと言います。
 

ワイマール共和国100周年(2019年2月6日)

2019年02月09日 | 歴史・文化

3日前、2月6日にワイマール国立劇場でワイマール共和国(Weimarer Republik)の国民議会(Weimarer Nationalversammlung)開会100周年記念祝典が行われました。

1919年2月6日に選出されたばかりの国会議員たち423名(女性含む)がワイマール国立劇場に集まり、有名なワイマール憲法の制定に着手しました。ワイマール共和国は、第一次世界大戦での敗戦を受け、1918年に革命がおこり、ドイツ史上初の議会制民主主義体制(Parlamentarische Demokratie)として発足しました。なぜベルリンではなくゲーテやシラーの活躍した場所として知られ、歴史あるとはいえ、たかが地方の小都市であったワイマールで国民議会が開かれたのかと言えば、当時はドイツは崩壊直前にあり、各地で王政と腐敗の象徴であるベルリンから距離をとろうとする動きがあり、バイエルン州では社会主義者のクルト・アイスナー(Kurt Eisner)が「自由国バイエルン(Freistaat Bayern)」を宣言し、独自にアメリカと接触して停戦協定を締結しようとするなど、ベルリンの首都としての政治的権威が失墜していたからで、そんな中でドイツ文人を代表するゲーテとシラーの街であるワイマールはドイツ人を統一するのに象徴として適しており、また地理的にもチューリンゲン州はドイツ領土の中央に位置していたことから、新しい共和国の首都に選ばれたわけです。もちろん反対意見もありましたが、初代大統領のフリートリヒ・エバート(Friedrich Ebert、ドイツ社会民主党党首)がワイマールに固執し、その意志を押し通したとのことです。

ワイマール憲法(Weimarer Verfassung)は1919年7月31日に圧倒的多数の賛成で可決されました。この憲法によって男女平等(Gleichberechtigung von Männern und Frauen)、女性参政権(Frauenwahlrecht)が認められ、また国民主権(Volkssouveränität)、三権分立(Gewaltenteilung)が定められ、集会の自由や信仰の自由などの基本的人権(Grundrechte)が保証されることになりました。しかしこの若い民主主義は脆弱であり、ドイツに過酷な賠償金を課すベルサイユ条約に調印してしまったことで様々な政治勢力から恨みを買い、わずか14年後に民主主義的手段によって民主主義を廃止することになり、ナチス独裁政権に取って代わられてしまいます。このため、今日のドイツ共和国の憲法がワイマール憲法の精神を受け継いでいるにもかかわらず、ワイマールの歴史的評価は低いままでした。

しかし、100周年を機にワイマールの歴史的価値が見直され、民主主義とは「当たり前」ではなく、国民によって防衛されなければならないものであるという教訓を、右傾化が強まりつつある現在の社会においてこそ生かさなければならないという認識が広まってきています。

 

参照記事:

FAZ、06.02.2019、"Einst verdammt, jetzt gewürdigt(かつて蔑視され、今見直される)"

Zeit Online、06.02.2019、"Jede Generation muss wieder für Demokratie kämpfen(民主主義のためには各世代が各々戦う必要がある)"

Spiegel Online, 06.02.2019, "Warum Weimar?(なぜワイマールだったのか?)"

 

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ドイツのイースターの過ごし方(世論調査)

2018年04月05日 | 歴史・文化

イースター(復活祭)はドイツ語ではオースタン(Ostern)で、「春分の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる移動祝日で、毎年3月22日~4月25日の間の日曜日になります。2018年は4月1日が復活祭の日曜日(Ostersonntag)でした。

イースターの過ごし方についての世論調査がドイツ連邦統計局のサイトに出ていたのでご紹介させていただきます。

まず、イースターを祝うかどうかについてですが、「祝う」と回答したのは78%でした。

イースターにすること:

  • イースターエッグを探して、見つける 58%
  • イースターエッグの色付け/絵を描く 54%
  • イースターブランチ 35%
  • イースターバスケット(かご)をつくる 34%
  • イースターエッグを吹き出す 28%
  • イースターファイアー 23%
  • 礼拝式/教会へ行く 18%
  • イースターキャンドル 17%
イースターで最も重要なこと:
  • 家族の集まり 55%
  • 長い週末 10%
  • イースターエッグを探す 6%
イースターに誰かにプレゼントする 75%
 
人気のプレゼント:
  • チョコレート、プラリネ、甘いもの 70%
  • 色付きゆで卵 37%
  • 花/植物 22%
プレゼントに15ユーロ以上使う 67%
 
 
 
 
 
 
この世論調査は2018年2月9日~2月13日の間にドイツで任意に抽出した1005人(18歳~64歳)を対象に行われました。出典はStatista.deです。

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イースターエッグに色を付けて隠すウサギの話~ドイツのイースター


ナチスドイツによるオーストリア併合80周年(2018年3月12日)

2018年03月12日 | 歴史・文化

オーストリア大統領ファン・デア・ベレンは、80年前の1938年3月12日にナチスドイツ軍がウイーンに侵入し、オーストリアを併合した歴史を振り返るための記念行事で、これまでの「オーストリアはナチスドイツの最初の犠牲者」というスタンスを改めて、ナチスの悪逆無道な行ないにおける自国の役割を批判的に見直し、自国の責任を認める演説を行いました。

アドルフ・ヒトラーの生まれ故郷であるオーストリアの併合は、第二次世界大戦の前段階と見なされています。

オーストリア首相セバスティアン・クルツは、「オーストリアは長い間自国をナチスドイツの犠牲者のように見てきたが、実際には多くの人が体制を支持していた」と指摘し、「この日からオーストリアのユダヤ人にとっての長い苦しみが始まり、その事実は今日でも私たちを困惑させる。この黒い歴史は絶対に忘れられてはならない」と述べました。

本来極右政党で、ナチスと関係の深いFPÖの代表で、現在副首相であるクリスティアン・シュトラッヘも「我が国の追放及び殺害されたユダヤ人の方々の追悼は我々の義務」と表明しました。政権に参画することになって以来、何度もナチズムやレイシズムや反ユダヤ主義を非難してきましたが、党内には未だにオーストリアを「大ドイツ」の一部とみなす流れが強くあります。

オーストリア政府は水曜日の閣議において、慰霊記念碑建設について話し合う予定とのことです。記念碑はオーストリアで命を落とした約6万6千人のユダヤ人犠牲者の方々の名前を刻んだ壁になる予定です。

80年経って漸く自国の責任を問うのは、時間がかかり過ぎたと言えますが、それでも認めたことは進歩ですし、称賛に値します。日本の第二次世界大戦・太平洋戦争における責任を真向否定する日本会議に牛耳られた安倍政権とは雲泥の差があります。

写真:Votava/dpa、1938年3月14日、ヒトラーをウイーンで迎える群衆

オーストリアの場合、ヒトラーの出身国であるばかりでなく、ナチスドイツがウイーンに侵入した際に、ハーケンクロイツの旗を振った群衆が出迎え、「嬉々として」 ナチスドイツの一部になった歴史的事実を鑑みれば、「オーストリアはナチスドイツの最初の犠牲者」とみなすこと自体にそもそも相当の無理があるのですが。。。オーストリアにおける反ユダヤ主義の歴史は古く、根強い差別があったことも事実で、ナチス政権下で何の抵抗もなくユダヤ人迫害が早速始まったことも事実なのですが、そういった史実を徹底的に振り返って反省するというようなドイツ的歴史教育はオーストリアでは一切行われて来ませんでした。このため、ナチスと関係の深い極右政党FPÖが連立与党になることにも抵抗が少ないようです。この点では歴史をきちんと振り返ろうとせず、むしろ「自虐史観」とか言って否定しようとする流れが強い日本と共通していると言えます。

この文脈の中で、今日のオーストリア併合記念行事においてオーストリア大統領・首相・副首相がそろって「オーストリアの責任」を認めた意味は大きく、歴史的と言えるでしょう。

参考記事:

Zeit Online, 12. März 2018, "Österreich hat Mitverantwortung für die Gräueltaten der Nazis(オーストリアはナチスの極悪無道な行いの責任の一端がある)"

ZDF heute, 12. März 2018, "80 Jahre "Anschluss" Österreichs(オーストリア併合80年)


ドイツ:なぜカーニバルにベルリーナー(プファンクーヘン)を食べる?

2017年02月25日 | 歴史・文化

今年の2月23日の木曜日はヴァイバーファスナハト(Weiberfastnacht、女たちのカーニバル)でしたが、一昔前とは違って私の勤める会社でも仮装してきたり、午後に本社で開催されるパーティーに参加したりする人は少数派で、大抵の人は休みを取っているか普通に働いているかのどちらかでした。私は普通に働いている部類で、ミーティングというか少人数の打ち合わせもありました。その席で同僚の一人がベルリーナーを皆のために差し入れしてくれ、その際に「ヴァイバーファスナハトにベルリーナーなしでミーティングなんてあり得ない」と言ったので、おや?と思った次第です。そして思い起こしてみれば確かにカーニバルの時期は普通の砂糖をまぶしただけのベルリーナー(下の写真)だけではなく、卵リキュールやらクリームやら、色とりどりの飾りつけされたのやらのバリエーション(上の写真)がパン屋などで随分売られているし、過去に何度かあったヴァイバーファスナハトの日のミーティングにはベルリーナーが供されていたことに、ドイツのカーニバル本拠地域在住27年目にして漸く気が付いたのです。

 

通常のベルリーナー

 

日本の方にはそもそもベルリーナーがどんなものか分からないかもしれませんので、ちょっと説明を。日本にあるものでこれに一番近いのは揚げパンです。いつだれが考案したものなのか諸説ありますが、恋煩い中の料理女が間違えてケーキの生地をオーブンではなく油の中に入れてしまったのが始まりとか、連隊所属料理人がケーキ生地を大砲の弾の形にし、オーブンがないので、ナベに油を入れてあげたのが始まりだとか。

 

揚げパンのようなものはドイツ語圏では1200年頃の修道院の献立表に記載されているものが最古の記録のようです。ただしこの頃のものは丸ではなく、長細かったという話です。そしてその両端がかぎ爪のように曲げられていたためにクラプフェン(Krapfen、中期高地ドイツ語 krapfeは「かぎ爪」という意味)と呼ばれ、その呼び名が今でも一部地域に残されています。

 

「ベルリーナー」は「ベルリンのパンケーキ(Berliner Pfannkuchen)」の省略らしく、主に北ドイツとドイツ西部ニーダーザクセン、ノルトライン・ヴェストファーレン、ラインラント・プファルツおよびバーデン・ヴュルッテンベルク州の一部、ザールラント、ドイツ語圏スイスなどでの一般的な呼称です。逆にベルリンを含むドイツ東部での名称は「プファンクーヘン」が一般的です。バイエルンやバーデン・ヴュルッテンベルク州の一部及びオーストラリアでの名称は既に述べた「クラプフェン」です。

 

中味はジャムが一般的ですが、地域によるバリエーションもシーズンによるバリエーションも様々です。このページの最初の写真はそのバリエーションの一部です。上の2個は糖衣がかけられたもので、中身はどちらも同じ。右側のに色付きチョコが載っているのが唯一の違いです。下の左のはクリーム・ベルリーナーと命名され、カスタードクリームが入っています。下の右側のは卵リキュールのクリーム入りです。

 

 

 

さて、なぜカーニバルにベルリーナー(プファンクーヘン)を食べるのかという疑問ですが、Esskultur(食文化)というサイトの記述によりますと、カーニバルのばか騒ぎの後に始まる断食に備えるためだそうです。断食前にカロリーたっぷりのものを一杯食べておこう、ということらしいですね。

 


ベルリーナー(プファンクーヘン)が中世から広く普及した理由は、油または油脂を使ってオーブンがなくても簡単に作れる手軽さだろうと言われています。


ベルリーナー(プファンクーヘン)はドイツ・スイス・オーストリアばかりではなく、その他のヨーロッパの国々にも普及しています。


ドイツ語版ウイキペディアの記事によりますと、ベルギーではブール・ド・ベルラン(boules de Berlin、ベルリンのパンケーキ)、オランダではベルリーナー・ボレン(Berliner bollen)と呼ばれ、通常真ん中で切られ、バニラクリームが入っているそうです。


ブルガリアではポニチュキという名称で、バニラ・カスタードクリームまたはベリー類のジャム入り。ポーランドではポンチュキ(Pączki)という名称。


フィンランドではジャム入りのベルリーナーはヒロムンキ(hillomunkki、マーマレード・クラプフェン)、糖衣バリエーションはベルリーニンムンキ(berliininmunkki、ベルリンのクラプフェン)そして知られています。


ノルウェーではベルリーナーボラー(berlinerboller)という名で、ジャムまたはバニラカスタードの入ったものがあります。


スロベニアではトロヤンスキー・クロフ(trojanski krof)と言い、あんずジャム入り。オーストリアのベルリーナーが一般的にあんずジャム入りなので、それが伝わったものと考えられます。


以上に挙げた国はドイツまたはオーストリアと近接しており、関係も良きにせよ悪しきにせよ密接にあったので、菓子パンに同じものがあっても不思議はないのですが、意外なのはポルトガルに伝わっているボラス・デ・ベルリン(bolas de Berlin)とチリのベルリネス(berlinés)ですね。いつだれが持ち込んだのか興味深いですね。

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ドイツのバレンタインデー

2017年02月14日 | 歴史・文化

今日はバレンタインデーということで、ドイツではどういう風習なのかについて書きます。

2月14日のバレンタインデーというのはValentinus(ヴァレンティーヌス)という聖人・殉教者の日という意味ですが、その名の聖人は一人ではなく複数います。有力候補は3世紀のテルニ司教(269年2月14日死亡)です。ヴァレンティーヌスの追悼日として導入したのはローマ教皇Gelasius I.(ゲラジウス1世)で、469年のことでしたが、1969年にはカトリック教会の聖人暦から外されました。それでも今なお夫婦を祝福するミサが場所によっては行われているそうです。

詳しい起源はともかく、2月14日は中世以来恋人達・夫婦達の日であったことは確かです。その祝われ方は国によって違います。チョコを贈るのは日本のチョコレート業界のマーケティング戦略によるものなので、ドイツではバレンタインチョコなどありません。多くの場合、男性が女性に花を贈ります。

いくつか面白い統計を見つけたのでご紹介します。

ドイツのバレンタインバレンタインデーの起源


・ヴァレンティーヌスというキリスト教の殉教者 50.8%
・分からない 22.9%
・生花業界の発明 16%
・中世の王ヴァレンタイン3世によって導入 10.3%

バレンタインデーはあなたにとってどんな日?

恋する者たちにとって素晴らしい日 32.8%(男性)、44.2%(女性)
・愛するパートナーのためにすること 25.8%(男性)、8.2%(女性)
・不要な日。パートナーを喜ばせるのに1年365日ある 31.2%(男性)、37.8%(女性)
・純粋な商業主義。自分はそれに乗らない 10.3%(男性)、9.9%(女性)

どんな花を贈りますか(男性)または 贈られたいですか(女性)?

・ミックスされた花束 39.1%(男性)、32%(女性)
・バラの花束 38.1%(男性)、35.5% (女性)
・バラ1本 17% (男性)、24.3% (女性)
・その他 5.8%(男性)、8.3% (女性)

花のプレゼントにどのくらいお金を使いますか(男性)?

・20 €まで 50.1%
・21-40 € 38.2%
・41-60 € 7.9%
・61-80 € 1.8%
・81-100 € 1%
・101-120 € 0.5% 
・121-140 € 0.25%
・140 €以上  0.25%

ソース:Statista, Valentinstag in Deutschland, 2014.02.13

バレンタインデーの風習の起源が「生花業界の発明」だと考えている人が16%もいるのが面白いですね。

 

バレンタインデーにパートナーにプレゼントをする人は実際どのくらいいるのでしょうか。2015年の統計では、「パートナーに何か贈る」と答えた人が52%、「贈らない」と答えた人が48%。

 

ソース:Statista, Umfrage in Deutschland zu Geschenken am Valentinstag 2015

ちなみに私はダンナから花などのプレゼントをバレンタインデーにもらったことがありません。その2日前が私の誕生日で、誕生日プレゼントが花束であることが多いので、バレンタインデーは何もなしになります。彼が私の誕生日がバレンタインデーではなく2月12日だと正確に記憶するまでに数年かかりました( ´∀` )

それはともかく、バレンタインデーの贈り物には花の他にどんなものがドイツでは人気があるのでしょうか。それを示すのが以下の統計(2009年)です。

過去数年間のバレンタインデーにどのような贈り物をしましたか?(複数回答)

花 76.6%
お菓子・スイーツ 62.9% 
手紙・カード 45.2%
ロマンチックなディナー 33.6%
音楽 27.7%
服・身の回り品 25%
香水等 24.9%
アクセサリー 23.1%
商品券 22.9%
下着 10.8%
電子機器 6.4%
分からない・無回答 1%
その他 12.3%

 

ソース:Statista, Zum Valentinstag gemachte Geschenke

個人的な経験から申しますと、バレンタインデー商戦シーズンにあるキャンペーンのお知らせメルマガなどはやはり、花が多いですが、それ以外だとお菓子やスイーツ、香水・化粧品類、服などの通販が多いですね。14%割引とか。中にはバレンタインキャンペーンだというのに、「自分用にもどうぞ」なんて言うのも見かけました。それってちょっとむなしいというか、売れるなら何でもいいのか、というか…。 

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国際ホロコースト記念日。2017年は特に安楽死プログラム犠牲者追悼

2017年01月28日 | 歴史・文化

1月27日はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所がソ連軍によって解放されたことを記念した国際ホロコースト記念日です。去年のブログ記事「アウシュビッツ解放、国際ホロコースト記念日」に歴史的背景を書きましたので、ここでは割愛します。

今年のドイツ連邦議会における追悼時間(Gedenkstunde)では、特にナチスのEuthanasieprogramm(オイタナジー(=安楽死)プログラム)の犠牲者約30万人に焦点が当てられました。その時間の音楽を担当したのはホルン奏者フェリックス・クリーザー氏とピアニストのモーリッツ・エルンスト氏。クリーザー氏は生まれつき両腕がなく、ホルンを足で演奏します。

ナチスのオイタナジープログラムは身体障害者や精神病患者などの「生きるに値しない」「ゲルマン民族の遺伝子を汚す」分子を対象として、彼ら・彼女らを強制的に不妊手術を受けさせ、人体実験に利用したり、様々な虐待をした上で殺害していました。

その犠牲者たちを悼む連邦議会の式典で、両腕のないホルン奏者が演奏することの象徴的意味は非常に大きいと言えます。1996年に始まった連邦議会のナチス犠牲者追悼式典ですが、ユダヤ人犠牲者ではなく、オイタナジー犠牲者に焦点があてられたのは今年2017年が初めてのことです。

25歳のクリーザー氏は追悼時間開始前に「私たちはホロコースト記念日をただの歴史的記念日として片づけるべきではない。想像しがたいことを見える化して理解する必要があります。私たちは物事を認識しても、その流れがどこまで行くのか想像できないところに危険性が潜んでいると思います」と語りました。

以下はドイツ連邦議会議長ノルベルト・ランマート博士・教授の追悼演説から一部を抜粋したものです。

Wir gedenken in diesem Jahr besonders der Kranken, Hilflosen und aus Sicht der NS-Machthaber „Lebensunwerten“, die im sogenannten „Euthanasie“-Programm ermordet wurden: 300.000 Menschen, die meisten zuvor zwangssterilisiert und auf andere Weise gequält. „Die Barbarei der Sprache ist die Barbarei des Geistes“, hat Dolf Sternberger einmal geschrieben, der bereits 1945 ein „Wörterbuch des Unmenschen“ zusammengetragen hat. Und tatsächlich: Die „Euthanasie“ begann mit der denunziatorischen Entmenschlichung ihrer Opfer, die als „nutzlose Esser“, „seelenlose menschliche Hüllen“ verunglimpft wurden und – in den Worten der Täter – der „Ausmerzung“ bedurften. „Die Barbarei der Sprache ist die Barbarei des Geistes“ – und aus Worten wurden Taten.

Zwischen „Euthanasie“ und dem Völkermord an den europäischen Juden bestand ein enger Zusammenhang. Als „Probelauf zum Holocaust“ gilt das Töten durch Gas, das zuerst bei den „Euthanasie“-Opfern praktiziert und damit zum Muster für den späteren Massenmord in den NS-Vernichtungslagern wurde. Und auch personell gab es bedrückende Kontinuitäten: Über 100 Ärzte, Pfleger und sonstige Beteiligte an den Krankenmorden, deren erste Phase 1941 geendet hatte, setzten ihr Tun bruchlos in den Vernichtungslagern für KZ-Häftlinge fort.

日本語訳:

今年は特にいわゆる「オイタナジー(安楽死)」プログラムで殺害された患者の方や寄る辺のない方たち、ナチス幹部たちから見て「生きる価値のないもの」とされた方々に追悼を奉げます。その犠牲者は30万人でした。大半がまず強制不妊手術を受け、またそれ以外の方法で苦しめられました。「言葉の野蛮さは精神の野蛮さである」と、すでに1945年に「間辞典」を編纂したドルフ・シュテルンベルガ―は書いたことがあります。実際、「オイタナジー」は犠牲者たちの誹謗中傷的な間化から始まったのです。【穀潰し】、【魂の抜けた人間の殻】などと罵られ、加害者の言葉で「殲滅」が必要とされたのです。「言葉の野蛮さは精神の野蛮さである」ーそして言葉は行動に移されたのです。

「オイタナジー」とヨーロッパ・ユダヤ人虐殺の間には密接な関係がありました。まず「オイタナジー」犠牲者で実行されたガス殺は「ホロコーストの試行」と見られており、後のナチスの殲滅用収容所における大量虐殺の見本となりました。人事的にも気が滅入るような継続性がありました。100人以上の医師、看護師その他の患者殺害に関わった人たちは1941年に第一段階を終え、その後中断なく殲滅用収容所においてそこの囚人たちを相手にその行為を続けていたのです。

ランマート氏の演説全文は今日ドイツ連邦議会のサイトに公開されました。下にリンクを貼りますので、興味のあるドイツ語のできる方はご覧になってみてください。

上に引用したクリーザー氏の言葉やランマート氏の演説は特に加熱する言葉の暴力が行き着く先の危険性を示唆しています。現在のドイツではそうした暴力の矛先がイスラム教徒や難民に向けられつつあります。

先日AfD(「ドイツのための選択肢」党)チューリンゲン州支部長のブヨルン・ヘッケ(Björn Höcke)がドレスデンで行った問題発言「私たちドイツ人は、首都の心臓に恥の記念碑を作った世界で唯一の民族だ」とドイツの回想文化(Erinnerungskultur)あるいは追悼文化(Gedenkkultur)を批判したため、27日のチューリンゲン州議会における追悼時間から外されました。そして午後に(追悼の一環として)訪問予定だったブーヘンヴァルト記念館からも立ち入り禁止が言い渡されました。

ここ2・3年で支持率を伸ばしているAfDにはこのヘッケ氏のようにホロコーストを否定する歴史修正主義者たちが随分と紛れ込んでいるようです。それなのに、今年の連邦議会選挙で緑の党を追い越して第三政党になる可能性があるのは恐ろしいことです。ヘッケ氏の問題発言が影響したのかどうかは分かりませんが、ポリートバロメーターの最新調査で支持率が2%減って11%になっていました。反イスラムや難民排斥は認められても、歴史修正主義は認められないと思う人がまだ多いということでしょうか。私から見れば根は同じだと思いますけど。

参照記事:

ZDF heute, Holocaust Gedenktag: "Das Unvorstellbare vor Augen führen", 2017.01.27
Deutscher Bundestag,  Rede von Bundestagspräsident Prof. Dr. Norbert Lammert am 27. Januar 2017 zum Gedenken an die Opfer des Nationalsozialismus, 2017.01.28 (ドイツ連邦議会議長ノルベルト・ランマート博士・教授の追悼演説)
Zeit Online, AfD: Björn Höcke greift unsere Indentität an, 2017.01.18 
Zeit Online, AfD: KZ-Gedenkstätte erteilt Höcke Hausverbot, 2017.01.27 
ZDF heute, Politbarometer, K-Frage: Merkel knapp vor Schulz, 2017.01.27

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アウシュヴィッツ解放、国際ホロコースト記念日

11月9日はドイツの歴史的記念日~「水晶の夜」とベルリンの壁崩壊

『我が闘争』歴史批判的注釈付き学術版、正式販売開始前に既に在庫切れ


ドイツ連邦議会、「アルメニア人大量虐殺」認定満場一致で決議。ドイツ・トルコ関係に翳り

2016年06月02日 | 歴史・文化

ドイツ連邦議会の「アルメニア人大量虐殺」認定

ドイツ連邦議会は本日(2016/6/2)、第1次世界大戦時のオスマントルコ帝国によるアルメニア人などのキリスト教徒の追放・虐殺が「大量虐殺(Völkermord、フェルカーモルト=ジェノサイド)」であることを認める決議文をほぼ満場一致で採決しました。とはいえ、メルケル独首相、ガブリエル経済・エネルギー相(副首相)などを始めとする大臣らは欠席で、決議に参加した大臣はたったの3人:ヘルマン・グレーエ保健相、アンドレア・ナレス労働省、トーマス・ドメジエール内相。欠席した理由は、他の緊急の用事のためとなっていますが、ただでさえ難民問題解決のためのEU・トルコ協定の不十分な進捗状況で緊張しているトルコとの関係に火に油を注ぐようなことをしたくない、という意図が透けて見えています。

アルメニア決議文が完成したのは5月31日でしたが、その後在独トルコ人団体のデモや議員への圧力・脅迫やエルドアントルコ大統領自らの警告もあり、決議文が採択された暁にはトルコ側からの何らかの報復があると予想されていたので、トルコ側への刺激を緩和するための政府要人欠席という運びとなったのでしょう。

決議文の採択の際は反対1、棄権わずかで、ほぼ満場一致の決議となりました。決議文全文の拙訳はこちら

決議文にはドイツが1915-16年の出来事を「ジェノサイド」と認める理由としてドイツの歴史的責任を挙げています:「その責任にはトルコ人とアルメニア人が過去の溝をのりこえて和解と相互理解への道を探るよう助けることも含まれています。和解プロセスは過去数年滞っており、緊急に新たな弾みを必要としています」。またドイツ国内にはトルコ系住民がおよそ280万人いますが、アルメニア系住民も5-6万人います。この決議文はドイツ国内のトルコ人とアルメニア人の和解を促すものでもあります。和解と相互理解は歴史と正直に向き合うことを礎石として初めて成り立つものであるため、「加害者の罪と現在生きている者の責任を区別する必要がある」ことを踏まえつつ歴史的出来事を徹底的に論究すべきだ、というのがドイツの基本姿勢です。だからこそドイツはこれまでナチスの過去を徹底追及し、その歴史的責任を果たすために謝罪や補償を行ってきました。この決議文にはトルコもそのように責任を果たすべきだとは直接には書いてありません。あくまでも当時のオスマントルコ帝国の同盟国としてのドイツ帝国の歴史的責任を問い、「ジェノサイド」が正しい歴史的認識であることを認め、ドイツの歴史的責任を果たすための措置をドイツ連邦政府に求めているだけです。

2015年4月15日には欧州議会でも「ジェノサイド(大量虐殺)」と表現する決議が採択されており、フランス、イタリア、オランダを含む20か国以上がアルメニア人ジェノサイドを公式認定しています。ローマ法王も昨年「20世紀最初のジェノサイド」と語っていました。1985年には国連の公式文書に「アルメニアン・ジェノサイド」の概念が用いられていました。

ドイツではヨアヒム・ガウク大統領がジェノサイド100周年である2015年4月に「ジェノサイド」の言葉を初めて使いました。ドイツ連邦議会は2005年に「追放(Deportation)と大虐殺(Massaker)」を使い、「ジェノサイド(Völkermord)」は退けられました。昨年になってようやくCDU/CSUとSPDの連邦議会議員団が「ジェノサイド」という言葉を使用した共同声明について合意しましたが、決議文採択はトルコ及び在独トルコ人への配慮から一時中断されました。

 

日本語メディアでもこのドイツの決議が多少取り上げられていますが、歴史的背景が分かるほどの記事は殆ど無いようです。

 

アルメニア人大量虐殺で150万人近く死亡

事件が起きたのは第1次世界大戦中でしたが、そこに至るまでの一連の政治的状況は1909年にオスマン帝国において若い国粋主義者が権力を握り、単一帝国を創設し、トルコ語を標準語と定め、イスラームを唯一の文化的宗教的基盤として定着させることを目指したことに端を発しています。オスマントルコが1915年1月、対ロシア攻勢に失敗した後、4月24日に計画的迫害が始まりました。アルメニア人やその他のキリスト教徒のエリートが数千人逮捕され、処刑されました。そして数十万人が追放後の行進中に命を落としました。1915-1916年の間におよそ80万から150万人が死亡したと見られています。オスマントルコ帝国とドイツ帝国は第1次世界大戦時同盟国でした。歴史研究家はドイツ軍および外交官らはこのアルメニア人に対する大虐殺のことを知っていたため、彼らにはこの大虐殺に対する責任の一端があると言っています。第1次世界大戦終了後、西側戦勝国は戦後裁判を開始し、イスタンブールの裁判でその犯罪が中央政府によって準備されたことが証明され、17人が有罪・死刑判決を受けました。、うち三人が死刑執行されました。首謀者は逃亡しましたが、何人かは後にアルメニア人の死客に殺害されたようです。

 

トルコ及びアルメニアの反応

予想されていたことではありますが、ドイツ連邦議会のアルメニア決議に対するトルコ人の怒りは激しく、過激な発言・反応が目立っています。在独大使は相談のためにアンカラに呼び戻され、トルコ法相Bekir Bozdağは「あなたはまずユダヤ人たちをオーブンで焼き殺し、それから立ち上がって、トルコ国民をジェノサイドの誹謗中傷で訴える。」「ドイツ人は自国の歴史だけを気にかけろ」などと発言。ナイロビにいたエルドアン大統領は「ドイツの国会がした決議はトルコ・ドイツ関係に深刻な影響を与える決断だ」とし、帰国後速やかに相応の対応を審議すると脅しをかけました。しかし、トルコ首相Binali Yıldırımはトルコは過剰な反応はせず、難民に関するEUとの協定は守ると発言しています。トルコ外相Mevlüt Çavuşoğluはドイツ連邦議会の決議は「無責任かつ無根拠」であり、「レイシズムに限りなく近いトルコ及びイスラムに対する敵意」がその根底にあると非難しています。

1915-16年の出来事はジェノサイドであったと既に20か国以上が認めている事実を無視しているのか、それともそれらの国全てが間違っていて、トルコに敵意を持っていると考えているのか腑に落ちないトルコの反応ですが、ファッショ傾向を強めつつあるトルコの今後が要注意であることは確かですね。EUがビザ義務撤廃の条件の一つとして要求している反テロ法改正にトルコ政府は断固抵抗して、国外からの命令は受けないという強硬姿勢を示しており、EU・トルコ間難民協定の先行きが危ぶまれています。それ以外にもドイツのコメディアンがショーの中でエルドアン大統領をコケにした件で、コメディアンを侮辱罪で訴えるなど既にドイツ・トルコ関係は軋み出しています。

一方、アルメニアの方はドイツ連邦議会の決議を概ね歓迎しており、国際的な議論に貢献するものと見ています。まあ、当然ですね。アルメニア外相Edward Nalbandianは、「かつてのオスマントルコ帝国の同盟国としてドイツとオーストリアが相応の責任を認めているのに対して、トルコはジェノサイドの反論の余地のない事実を頑固に否定している。国際社会は、トルコが自国の歴史と向き合うことを既に101年待っている」とコメントしました。

南京大虐殺や慰安婦問題を認めようとしない日本政府とアルメニア人ジェノサイドを頑固に認めようとしないトルコはかなり親和性が高いようです。もっとも現日本政府にとっては100年以上も前のトルコの出来事など微塵も関心がないでしょうけど。


参照記事:
ZDFホイテ、2016.06.02、「連邦議会の複雑な60分」 
ターゲスシュピーゲル、2016.06.02、「アルメニア決議文全文:”私たちは大虐殺の犠牲者の方々に首を垂れる”
ツァイト・オンライン、2016.06.02、「自国の歴史だけを気にかけろ」 
ライニッシェ・ポスト、2016.06.02、「トルコはドイツから大使を呼び戻す」 

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100年前のヴェルダンの戦い(第1次世界大戦)~本日追悼式典。オバマ大統領広島訪問を考える。

2016年05月29日 | 歴史・文化

本日、5月29日、メルケル独首相とオランド仏大統領が100年前のヴェルダンの戦いの追悼式典に参加しました。

メルケル独首相は追悼式典でヨーロッパにおける国家主義的思想及び行動に警鐘を鳴らしました。「ここでは歴史が胸が締め付けられるほど身近です。ヴェルダンは私たちの念頭を去らない、また去ってはならないのです。ヴェルダンは残虐性と無意味さそのものの象徴です。同時にヴェルダンは平和への憧憬、敵対心の克服及び独仏和解のシンボルでもあります」とメルケル独首相は語りました。

オランド仏大統領は欧州連合の諸問題に警告を発しました。「分裂、閉鎖、隔離の力学が再び働いている。その力学はヨーロッパを悪の根源と誹謗しており、ヨーロッパが不幸から生まれたものであることを忘れている」と二つの世界大戦を示唆しました。

両首脳は29日午前、まずヴェルダンのコンサンヴォワ(Consenvoye)村にあるドイツ兵墓地で花輪を置き、ヴェルダン市役所訪問後には市内の記念碑の前にも花輪を置きました。市内では子どもたちが平和のハトが付いた白い風船を飛ばしました。その後ドゥアモンの遺骨堂前で追悼式典が行われ、両首脳は「記憶の炎」を点火しました。

32年前

ヴェルダンにおける最初の独仏和解は1984年9月22日、フランソワ・ミッテラン仏大統領とヘルムート・コール独首相の間で達成されました。両国首脳はドイツ及びフランス国歌が演奏されていた数分間ずっと手を取り合っていました。ミッテラン元大統領のメモワールにもコール元首相のメモワールにもこの時のジェスチャーがその場の雰囲気で自然発生的に行われたものと語っていますが、これは前以て打ち合わせされた計画的仲直りジェスシャーだ、と見る向きも少なくありません。両首脳にとって、ヴェルダンは個人的にも因縁深い場所でした。コール元首相の父は第一次世界大戦中この地で戦い、ミッテラン元大統領は第2次世界大戦の際に年若い兵士としてこの地で戦い負傷しました。

この歴史的式典はかつて要塞があったヴェルダン近郊のドゥアモンにある遺骨堂前で行われました。遺骨堂には身元不明の約13万人のドイツ及びフランス兵士の遺骨が納められています。今日の式典もこの場所でした。

ドゥアモン遺骨堂

 

100年前

1916年2月21日にドイツの先制攻撃によって始まったヴェルダンの戦いは第1次世界大戦において最も長く(300日間)続き、最も多く物資を消費し、最も多く死者を出した戦いです。ドイツ軍はすぐにドゥオモン要塞を占拠することに成功しましたが、フランス軍が同年7月24日にドイツ軍の進行を阻み、反撃を開始。10月24日にはドゥオモン要塞奪還に成功し、同年12月18日に戦闘が終了したときには戦闘開始した2月21日と殆ど同じ境界線に戻っていました。全く無意味な戦いでした。しかし、当初ドイツの参謀本部長であったエーリヒ・フォン・ファルケンハインはこの作戦が数日間で終了し、西部戦線における決定打となることを確信していたらしいですが。

二正面戦争を戦っていたドイツに比べ、フランスは対ドイツ作戦に物資も兵士も集中させることができ、前線の兵士たちの慰撫も怠りませんでした。前線には飲料水よりワインの方が豊富にあったという。フランスの植民地からも大量に人員がドイツ前線に投入されました。
ドイツ側は二つの主要な要塞ドゥオモンとヴォーを占拠した後は防御に専念し、大砲などの重火器の大部分をロシア前線の方へ移動させました。要塞を中心とするフランス前線に残された兵士たちは見捨てられたと言っていいくらい食糧や下着などの衣料品の配給が滞り、飢えと渇きと病気に苦しめながらフランス軍の反撃に耐えざるを得ませんでした。

この戦いで、砲弾2600万個、毒ガス弾10万個が投入されました。独仏両軍総計200万人の兵士たちが戦い、うち35万人が死亡しました。兵士の前線での平均寿命はたったの14日間でした。ヴェルダンでは今でも雨が激しく降ると兵士の遺品や遺体の一部が出て来ることがあるそうです。

負傷者は約40万人と言われています。多くの人が一生治らない傷害を負い、精神を病みました。精神病院から死ぬまで出られなかった負傷兵たちも少なくありませんでした。

一般市民は早期に避難させられていたので、犠牲者は最小限に留まりました。そこが無差別攻撃の多かった第2次世界大戦との大きな違いですね。


オバマ大統領広島訪問の意味を考える

何世紀にもわたって宿敵同士だったドイツとフランス。現在では、時々少々の軋みがあるとはいえ、EUの2大国として緊密な協力関係を築いています。折々に、今日のように宿敵だった過去を共に振り返り、現在の友情を確かめ、それを未来に続けていくことを願う儀式を執り行っています。この徹底的な歴史意識に私は感銘を受けざるを得ません。ドイツとフランスは既に謝罪するしない、補償するしないの議論の段階をとっくに超えて、対等なパートナーとしてヨーロッパの未来を担っていくことに専念しているのです。

それに対して日中関係、日韓関係は言わずもがなですが、日米関係ですら独仏関係の段階に到達していません。なぜなら日米は未だに対等なパートナーではないからです。日本はアメリカの属国のままです。

現役大統領としては初めてのオバマ大統領の歴史的ヒロシマ訪問も謝罪は期待されていませんでしたし、オバマ大統領も謝罪するつもりなど毛頭ありませんでした。日本のメディアではオバマ大統領の広島訪問が実現したことが安倍首相の手柄のように報道されているようですが、海外メディアは非常にシビアな見方をしています。

米紙ニューヨークタイムズの5月26日付の記事では、戦後日本が憲法9条と日米同盟のもとで平和主義をとってきたと述べ、独自の軍隊をもち国際的により大きな役割を担う「普通の国」に変えようという安倍首相の路線は、原爆ドームに象徴されるメッセージ、すなわち、広島の慰霊碑の石碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」の言葉に反している、と伝えられています。記事の最後を、市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」共同代表である森瀧春子氏によるコメント「私はオバマ大統領には会いたい。けれども、その隣に安倍首相が立つ姿を見たくはない。広島の記憶を、利用してほしくはないのです」で締めているのは最も強烈な安倍批判と言えるでしょう。

また英紙ガーディアンでも5月27日付電子版では、ロンドン大学SOAS・ジャパンリサーチセンターのシニアフェローであるマーティン・スミス氏が英報道局「Sky News」に語ったコメントを引用し、「オバマが謝罪しなかったことは、安倍政権の右翼志向を推し進めるのに利用されるでしょう。そして、むしろ東アジアでの日本の軍事的役割を強化し、1930年代から40年代に起こったことを忘却したい、いや、否定したいと思っている支配者層を後押しことになるのでないか」と指摘しています。

独紙南ドイツ新聞の評論も辛辣です。被爆体験を利用して加害歴史を隠蔽し、被害者になりすます日本と、「核兵器で早期の戦争終結を実現して犠牲を押さえた」と戦争犯罪を糊塗するアメリカの共犯関係を指摘しています。詳細な日本語訳に興味のある方は在ベルリンジャーナリスト・梶山太一郎の反核覚え書き「明日うらしま」をご覧になってください。ところどころ若干不正確な日本語訳になっていますが、大意に間違いはありません。

要するに日本もアメリカも過去を反省し、歴史からしっかりと学ぼうという姿勢が足りないようです。アメリカ側は「自分たちが始めた戦争じゃない」とまだ言い訳が効きそうですが、日本の場合はその言い訳が立ちませんから、オバマ大統領が謝罪しなかった例に倣い、今後日本も謝罪しなくて良い、という結論を導き出すのは恥知らずとしか言いようがありません。是非とも独仏関係を見習ってほしいものです。



参考記事:

ZDFホイテ、2016.05.29、「ヴェルダンの追悼:色鮮やかかつ真剣に」 (元記事は既に削除されています。2017.05.20)
ツァイト・オンライン、2016.05.29、「ヴェルダン:かつての戦慄を思い出す」 
ZDFインフォ、2016.05.29、「ヴェルダンの災厄:血まみれの攻撃」(ビデオ) 
ZDFインフォ、2016.05.29、「ヴェルダンの災厄:死の幻想」(ビデオ) 
ニューヨークタイムズ、2016.05.26、「日本のリーダーは広島の平和の教訓をほとんど活かすつもりがない
ガーディアン、2016.05.27、「G7サミット:オバマは広島に歴史的な訪問をする」 
南ドイツ新聞、2016.05.26、「なぜ日本政府はヒロシマについての謝罪を望まないか」 

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