徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ空軍対ISシリア介入閣議決定。テロと難民問題、出口なし。

2015年11月26日 | 社会
ドイツの軍事介入

フランスのEU契約第42条第7項(「EU加盟国の領土への武力攻撃があった場合には他の加盟国は当該国に可能な限りのあらゆる扶助支援をする義務を負う」)に基づく支援要請を受け、ドイツはフランス軍の負担軽減に貢献するため、マリの平和維持活動を積極的に引き継ぐことをすぐに提供しましたが、それだけでは足りないとフランス側の要求があり、ドイツ政府は今日、高性能カメラ搭載の偵察機レッケ・トルネードを6機、戦艦1隻、給油機、及び衛星偵察機をシリアに派遣することを決定しました。まだ連邦議会の承認が必要ですが、3大政党連立政権であるため、承認は確実と見られています。野党の左翼政党は、国連委任がないことから軍事介入は国際法違反であり、テロを増長させ、ドイツ国内のテロリスクを上げることになる、と反対しています。緑の党は絶対に反対というわけではありませんが、法的根拠があるかどうか審議する、とのことでした。
ドイツでは一般的に軍事介入に対して懐疑的な見方が支配的です。アフガニスタン、イラク、リビアなど軍事介入、特にテロに対する空爆が平和をもたらしたことはなく、失敗例として政治家たちの記憶にも深く刻まれています。そのため、シリア介入もフランスの強い要請がなければ後方支援に徹していたことでしょう。強い要請があってすら偵察機を飛ばすという軍事行動ではあっても、直接攻撃ではない介入しか検討されていないところに、ドイツの慎重さ、積極的な軍事行動を求める側からすれば、≪煮え切らなさ≫が明かになっています。
実際、シリアでの将来的ビジョンが不明瞭です。
対IS、という点では西側諸国もロシアも一致していますが、仮にISを殲滅できたとしても、シリアに安定をもたらすことはできません。アサドを暫定的に続投するか否かで西側とロシア・イランで意見がかみ合いません。
アサド政権を打倒するためにアメリカ、トルコ、サウジアラビアやカタールなどがISに近い反政府勢力を支援し、結果的にISを大きく育ててしまった背景もありますし、アメリカの支援を受けているクルド民族防衛隊YPGにはトルコがあまりいい顔をせず、また違うクルド人勢力PKKに至ってはトルコが直接攻撃を加えています。クルド人問題をある程度解決しないと、シリア北部は不安定なままで、ISに対する隙を作ってしまうことになるでしょう。イラク同様に前世紀に恣意的に引かれた国境線を変更せず、分割統治も認めず、では犠牲者が増えるばかりで何の解決にもなりません。トルコが先日領空侵犯したというロシア戦闘機を撃墜したおかげで、さらに余計な緊張が高まってしまっています。

難民問題

メルケル独首相は、難民政策に関して、パリ同時多発テロ以降特に相当の政治的な圧力にさらされていますが、それでも他国のように難民受け入れの上限を規定することを拒否し続けています。彼女はEUレベルでの対策、即ちEU外境警備強化、安定的な難民分配メカニズムなどに問題解決の道を見出しており、ドイツ一国での国境閉鎖などの対応には意味がない、としています。それでも、不認可難民の送還プログラムは着々と実行されています。ドイツの亡命法改定については、拙ブログ、『難民危機~ドイツ亡命法厳格化本日連邦議会で可決』を参照してください。

とはいえ、周辺国では明らかに難民政策に変化が出てきています。
マケドニア、セルビア、クロアチア、スロヴェニアのバルカンルート4か国は難民認定の可能性の低い難民たちを入国させない方針を採っています。ダブリン協定2によれば、難民は最初に入ったEU国で難民申請をしなければならず、他のEU加盟国に行って難民申請しても、最初に入国したEU国に送還されることになっています。従って、ドイツやオーストリアが難民たちをスロヴェニアに送還する可能性も理論上はあるので、スロヴェニアがシリア、イラク、アフガニスタンの紛争3か国出身者のみ入国・通過を許可する方針を採りました。それを受けて、自国にバルカンルート上の次の国に入国できない難民たちの渋滞が起こるのを怖れたマケドニア、セルビア、クロアチアの3国がスロヴェニアの方針を次々採用していきました。これによって、オーストリア・ドイツに入ってくる難民たちの流れがかなり緩やかになりました。
もちろん、国連難民支援団体などはこれを厳しく批判しています。冬のさなかに何千人もの難民たちが宿泊施設も食料も何も支援を受け入れないままバルカンに漂着する危険があるからです。いわゆる「経済難民」の中には諦めて帰国する人たちもいるかもしれませんが、遠方からはるばるヨーロッパを目指してきた人たちは往々にして資金も尽いて、後戻りすることができなくなっています。この人たちを寒空の中放置するのはどう考えても人道的に問題があります。
セルビアには現在約1500人、ギリシャ・マケドニア国境のギリシャ側には約2000人の難民が足止めされているそうです(ターゲスシャウ、2015.11.21の記事より)。

2日前、ノルウェー、デンマークに続きスウェーデンも亡命法をEUスタンダードに適合、即ち厳格化することを決定しました。有効期間はひとまず3年間。
「過去2か月間で8万人の難民がスウェーデンに来ました。誠に遺憾ですが、我が国はこのレベルでさらなる難民を受け入れることはできません」とステファン・レーヴン首相は記者会見で発言。
具体的には、難民認定を受けて滞在許可を得る人数が制限され、滞在許可も期限付きになる場合が増え、また家族の呼び寄せが難しくなります。更にバスや電車内での検問が強化されるとのことです。スウェーデンは今年19万人の難民申請を予想しています(シュピーゲル・オンライン、2015.11.24の記事より)。

テロ対策

現在、難民問題と切っても切れないのがテロの問題です。かねてより、難民に紛れてヨーロッパに入るテロリストの危険が警告されていましたが、パリの同時多発テロがヨーロッパの諜報機関同士の協力の不十分さを白日の下に晒すことになってしまいました。先週のSaint Denisで銃殺されたパリ同時多発テロ首謀者と見られているAbdelhamid Abaaoud(28)はシリアに居るものとフランス警察・諜報機関では考えられていましたが、実はギリシャで難民の中に紛れていたことが目撃されていました。その情報がフランス側に提供されたのはテロが起こった後のことです。もう一人、Stade de Franceで自爆したテロリストはAhmad al-Mohammad(25)という人物のパスポートを持っており、死体の指紋とこのパスポートがギリシャ及びセルビアで登録された際の指紋と一致していることから、パスポートが本物かどうかはともかく、バルカンルートを通ってフランスに来たことは明らかになっています。テロ警戒のため、難民多しと言えど、若い家族連れでない男性の指紋はかなり徹底して採取する方針が以前から採られていたため、ことが起こってからなら、このように犯人の行動をトレースすることが可能ですが、テロ防止には残念ながら全く役に立っていません。ドイツでも一日に何件も難民の中に紛れている疑わしい人物の通報があるそうですが、ド・メジエール独内相によれば、通報の件を捜査しても、今まで実際に何か出てきたことはないとのことです。やはり危険性がより高いのは国内のイスラム過激派のようです。パリのテロでも襲撃者の大半はフランス国籍あるいはベルギー国籍で、しかも、以前からイスラム過激派として当局の監視対象となっていました。つまり、当局の監視が不十分だったためにテロを未然に防げなかった、と言えるわけです。
非常事態下にあるフランスだけでなく、ベルギーも先週末からテロ警戒レベル4と最高警戒レベルがブリュッセルで発動し、地下鉄・バスは運行停止、幼稚園や学校は閉校するなど、厳戒態勢が採られていました。今日から警戒レベルが3に下げられ、学校や地下鉄などの運行が再開されましたが、まだ重装備の警察及び軍隊が捜査及びパトロールに投入されています。
ドイツではフランスやベルギー程の厳戒態勢は採られていませんが、サッカー試合やこれから始まる各地のクリスマス市ではかなりの警戒態勢が採られています。クリスマス市での大きなバッグやリュックなどは禁止されました。また警察が学校の子どもたちに駅やバス停などで持ち主がいないかばんや荷物を見つけた時にどう対処すべきかという指導を行ったりしています。
逮捕者も少ないですが、今日はベルリンのノイケルン地区のモスクで家宅捜査が行われ、シリア人とチュニジア人の二人がドルトムントでのテロ襲撃を計画した容疑で逮捕されました。しばらくはこのようなイスラム過激派のアジトと目されている所や危険人物と目されている人たちの捜査や逮捕が続くようです。ドイツではまだフランスやベルギーのように武器の押収には成功してませんが。
難民対策にテロ対策、そして反難民関連犯罪対策でドイツ警察は悲鳴を上げています。警察官絶賛募集中で、早急に増員を実現するために、これまで不採用基準の一つであった「見えるところにある刺青」も無くなったとのことです。そんな基準があったのか、とちょっと驚きましたが、それが無くなることで本当に採用される人数が増えるのかは疑問ですね。

ヘルムート・シュミット元西ドイツ首相、国葬

2015年11月23日 | 社会

ヘルムート・シュミット元西ドイツ首相が亡くなったのは2週間前の11月10日でしたが、本日、彼の故郷ハンブルクのミヒャエリ教会で国葬の儀式が行われました。
彼はドイツ連邦共和国第5代首相として、1974-1981、「現実政治(Realpolitik)」をモットーに、赤軍テロなどの国家の危機に毅然と対応し、冷戦時代の東方外交に尽力しました。また仏大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンと共に今日の欧州連合と共同通貨ユーロの基礎を築きました。政治の舞台から去った後も週刊新聞Zeitの編集者として、政治の局面に様々な政治的な意見を述べ続けました。彼は社会民主党(SPD)政治家でしたが、政党を超えて尊敬され、まさに「国の父」たる貫禄と明晰な頭脳、高い教養、そして高いモラルを持った「最後の政治家(Der letzte Staatsmann)」でした。元米外相ヘンリー・キッシンジャー氏(ドイツ生まれ、ナチス時代にアメリカへ亡命)をして「世界の良心(Weltgewissen)」と言わしめるほどの公明正大さを体現する政治家でした。CDを出せるほどのピアノの腕前の持ち主でもありました。「最後の政治家」というタイトルで独誌シュピーゲルから彼の伝記が出版されています。

享年96歳。彼の数十年来の友人で、戦後ドイツを代表するジークムント・レンツ氏が亡くなってから約2年。

余談ですが、彼のインタヴューを見るたびに、パイプをくわえて、これ見よがしに煙を吐く姿が目立ちましたが、喫煙と寿命が必ずしも相関関係にないことを彼は身をもって示したと言えます。
今日的観点からヘルムート・シュミット氏の唯一の政治的誤りと言えるのは、環境保護や原発に対する危険性などの観点に欠けていたことでしょうか。戦中生まれで、少年兵として終戦を迎えた現実主義の政治家に環境保護はまだまだリアリティを持っていなかったのでしょう。彼の考え方にすべて共感することはできませんが、それでも、モラルの高さや責任感の強さは人として真に尊敬できます。彼の後に第6代首相となって、16年間西ドイツに君臨し、東西ドイツ統一を果たしたヘルムート・コール氏と比較すると、シュミット氏の清廉潔白さがなお際立ちます。そして現在、時代はまたテロの時代になっていますが、現首相アンゲラ・メルケル氏には、残念ながらシュミット氏のような指導力、決断力、先見の明、危機管理マネージャーとしての行動力が欠けています。そういう意味で、本当に「最後の政治家」なのです。彼に並ぶべく政治家が現在存在しないのは本当に遺憾です。

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パリ同時多発テロ首謀者死亡。フランスは非常事態を延長

2015年11月19日 | 社会
パリ同時多発テロ首謀者死亡

昨日のパリ北部Saint Denisにおける大規模家宅捜査の際に死亡した2名のうちの一人が、パリ同時多発テロ首謀者と見られているAbdelhamid Abaaoud(28)であることが、DNA鑑定によって明らかになりました。アメリカ諜報機関の情報を得たとして昨日のうちに彼の死亡をリークしたワシントン・ポストの記事が正しかったことが証明されたわけです。パリ検察官フランソワ・モーラン氏によれば、Abaaoudは突入部隊が突入する際に発砲した銃弾で原型が分からない程撃ち抜かれていたため、すぐに人物を特定できなかったそうです。もう一人の自爆でなくなった女性は彼のいとことされているHasna Aitboulahcenでした。
カズノーヴ仏内相によれば、Abaaoudは2005年初め以来未然に防ぐことができたテロ6件のうち少なくとも4件に深くかかわっていたようです。フランス警察は11月13日のテロ襲撃以前にAbaaoudがフランスにいるという情報を得ておらず、彼がシリアにいるものと推測していました。カズノーヴ仏内相は「11月16日になって漸くヨーロッパ外の諜報機関が、Abaaoudがギリシャで目撃されたという情報を我々に提供した」と、EU内の協力体制の不備を指摘しました。

このテロリストとして有名なAbaaoudは、少なくとも2回ドイツに来ていたとのことです。2007年にはケルン近郊に滞在し、2014年にはケルン・ボン空港でコントロールされた形跡がありました。目的は不明です。彼は以前からベルギーで指名手配になっていたテロリストでした。にもかかわらず、彼がヨーロッパ内にギリシャから入り、恐らくオーストリア・ドイツを通過してフランスに向かった情報がどこからもフランスに行かなかったことが問題視されています。
Abaaoudはブリュッセル西部のモーレンベーク(Molenbeek)で育ち、多くのヨーロッパのイスラム過激派同様「イスラム化した過激派」の一人。つまり、もともと過激かつ暴力的なストリートファイターだったところに宗教色が加わったという経歴を持つ男たちの一人です。2014年春に公開されたISのプロパガンダビデオ(シリア北部で撮影されたと目される)にも登場しているとか。彼の両親は彼をカトリック系の学校、サン・ピエール・デュクル(Saint-Pierre d’Uccle)に行かせましたが、1年と経たないうちに止めてしまったようです。以後何度も軽犯罪で警察のお世話になり、2010年には強盗の罪で服役。彼の姉妹の証言によると、服役中により過激になった模様。刑務所の中で、今回のテロで自爆したテロリストの弟であるSalah Abdeslamにも出会ったらしいです。以後様々なテロ活動との関わりがあったと見られています。特に今年8月末に偶然居合わせたアメリカ兵によって防止できたフランス特急列車タリスでのテロを計画したと疑われています。

パリ同時多発テロの首謀者と目されていたAbaaoudを始め、自爆テロを行ったうちの少なくとも二人がブリュッセル在住だったことから、今日ブリュッセルで新たに家宅捜査が行われ、少なくとも9人の容疑者が逮捕されました。容疑者についての具体的なことは今までのところ明らかにされていません。ベルギーは今後テロ対策を更に強化するため、警察権限の拡大を決定しました。

カズノーヴ仏内相は、「ヨーロッパは可及的速やかに耐性を改善し、テロの脅威に対して防御しなければならないことは誰もが理解しなければならない。年末までにEUはヨーロッパ内の航空客データの利用、EU外境検問の強化、対武器密輸対策のコーディネート改善について合意しなければならない。」と表明しました。

参照:
ADRの2015.11.19付けの記事
ツァイト・オンライン、2015.11.18付けの「アウデルハミド・アバアウド:人殺しの裏で糸を引く男」。

フランスの非常事態宣言延長

非常事態宣言後、仏警察は武器の応酬やテロ関係者の逮捕、首謀者の射殺など、短期間にかなりの成果を挙げていると言えます。これまでに414件の家宅捜査が行われ、64人が逮捕され、60人が警察留置場に拘留、118人が自宅拘留に処されました。
いまだテロのショックで恐怖にとらわれているフランス人は非常事態下で人権が制限されることに異議を唱えることはしません。

今日フランス国民議会は『非常事態』を来週半ばから3か月間延長することを議決しました。上院の採決は金曜日に予定されています。

非常事態関連法の概要は以下のとおりです。
自宅拘留:自宅拘留に関する規定の厳格化。公衆の安全と秩序を脅かすと強く疑われている人物は自宅拘留に処し、他の容疑と連絡を取ることが禁じられたり、身分証類を取り上げたりすることが可能になります。
家宅捜査:コンピューターにあるデータも押収してよいことが明文化。しかし、議員、弁護士、裁判官、検察官、あるいはジャーナリストなど、個人情報に関わる職業の事務所へのがさ入れは今後タブーとなります。
報道の自由:報道の自由の規制は廃止となります。
結社の解散:非常事態下においては、「公衆秩序にとって重大な脅威となる」と見做されたグループや結社は解散させることができます。
外国戦闘員:国外でテロ戦闘員として雇われているフランス人は、フランス帰還の際により厳しく監視されるようになります。二重国籍者は、テロの危険があると見做された場合入国を拒否することが可能になります。
非常事態の延長:11月14日土曜日に宣言されたフランスの非常事態は12日間効力を有します。11月26日より更に3か月延長されます。
治安部隊の増員:治安機関は8500人増員されます。内訳は、警察や地方警察に5000人、法務省に2500人、税関に1000人。
(以上法案概要)



参照:
ZDFホイテ、2015.11.19付け「フランスは非常事態延長を採決」。

ドイツ、テロ警戒強める。パリテロ便乗いたずらもあり?

2015年11月18日 | 社会
多発テロが起こったフランスほどではないにせよ、ドイツもISの攻撃対象国となっており、隣国ということもあって警戒を強めています。
昨日はハノーファーでドイツ対オランダのサッカー試合が行われる予定でしたが、試合開始90分前に中止になり、集まりだしていた観客を追い返して、スタジアム周辺を立ち入り禁止にしました。ド・メジエール独内相は国外からの示唆を元に情報がかなり確かなものになった時っています。本人も後からちょっとうまい答えではなかったかも、と考え直したようですが、犯罪捜査と同じで、「知っていても公にできないことがあるということを国民の皆さんも理解していると思います」とフォローしています。
そして今日は私の地元ボンで2か所避難命令が出ました。一つはボン中央駅の地下鉄駅で、不審なスーツケースが見つかったとのことでした。地下鉄は運行停止。客は構外に誘導され、代用バスが出されました。結局何もなかったようです。
もう一件はまだ続行中で、地元紙ゲネラルアンツァイガーによれば、容疑者はOBIというホームセンターの従業員に「店の中に爆弾がある」と脅したようです。その後、捜索犬を投入して爆弾を探したものの、何も発見されなかったとのこと。警察はホームセンターの駐車場だけでなく、周辺道路も封鎖しました。店内放送で、「機械の故障のため」すぐに外に出るように客が促されたのは14:45でした。18時過ぎの時点で状況変化なしのままでした。車で来ていた客たちはいつ自分の車のところに行けるのかとずっと待っているようです。テロの犠牲になることと比べれば何でもないことではありますが、実に腹立たしい状況であることは確かですね。
「爆弾がある」と言った人が誰だったのかもまだ不明です。愉快犯である可能性も無きにしも非ずです。

一方、フランスでは本日、襲撃対象の一つだったサッカースタジアムと同じSaint Denis地区で大規模捜査が行われ、7人が逮捕され、2人死亡したようです。うち1人は爆弾ベルトを着けて自爆した女性だったとのこと。金曜日のテロ襲撃現場に捨てられていた携帯電話のデータからSaint Denisにあるアパートの情報が得られたため今日の家宅捜査行動となりましたが、相手側も防戦の構えを見せた、とのことです。周辺住民は外へ出ないように指示され、学校や幼稚園も臨時休業、地下鉄やバスも運行中止にされました。もしかすると、これでもう一つのテロを防ぐことができたのではないかと見られています。金曜日のテロの首謀者と見られているAbdelhamid Abaaoudは逮捕者の中にはいなかったそうです。ワシントン・ポストなどは彼が既に死んでいると報じたらしいですが、確認はまだされていません。
Saint Denisは移民などの外国人が多い地区で、失業率も高く、特に最近では若者の過激化が進んでいるらしいです。なんというか、典型的な不満分子の巣窟のようですね。若者のための教育的文化的プログラムがこういう地域では特に急務です。

さて、今回の件も911やシャルリー・エブドー事件のように「やらせ」とか「アメリカの自作自演」などという噂がネットで飛びかってますが、私はそういう噂は基本的に眉唾物だと考えていますし、相手にするだけばからしいと思っています。
フランスは昨日EU国防相会議で史上初めて、EU契約第42条第7項(「EU加盟国の領土への武力攻撃があった場合には他の加盟国は当該国に可能な限りのあらゆる扶助支援をする義務を負う」)に基づく支援を正式に要請しました。全てのEU国がその場で支援を約束しましたが、ISに対する軍事行動を共にすると宣言した国は皆無です。支援を具体化するのは今後の2国間交渉で、ということですが、ドイツは現在フランスが行っているマリでの平和維持活動を引き継ぐことで、フランス軍の負担軽減に貢献することを既に提案しています。ドイツはこれまでISとの戦い方も米・仏と一線を画しており、ISと現地で戦っているクルド人グループ、ペシュメルガに武器提供や訓練などで支援するという形をとっています。
またNATO同盟事態となるか懸念されていましたが、今回はどうやらそれもなさそうです。まず、オバマ米大統領はG20サミット上で、地上部隊の派遣を否定しました。(それなのになぜ「軍事介入のためのアメリカの自作自演」となるのか理解不能です。)また、トルコも対IS有志連合に名を連ねてはいますが、戦いの対象となっているのはISと敵対しているクルド人のうちの特にトルコのクルド人組織PKKに関係の深いグループです。つまり間接的にISに利するような行動を行っているので、アフガニスタンの時のようにNATO加盟国の利益をまとめることはより困難となります。恐らくそれが理由で、フランスはひとまずEUに支援を求めたのでしょう。しかし、EU内でも軍事行動に関しては慎重論が今のところ支配的です。

今回の同時多発テロは、すでにフランスが去年イラク空爆を開始する以前の議論で十分に予想されていたことでした。フランス10の2014年10月20日の記事「フランス保守派から左派までがイスラム国・空爆に反対する3つの理由」がそれを端的に示しています:
(1)軍事介入によってフランスを狙ったテロの危険性が増す
(2)空爆は問題を解決しない
(3)フランスはNATOの枠組み内で行動すべきだ。

(1)は既に始まっています。
(2)はアフガニスタンでの14年間がそれを証明しています。
(3)が本来理由ではなく提案であるのはこの際目をつぶっておきましょう。
今後、どのように事態が推移するか分かりませんが、勇ましい戦争レトリックの割には大した「一致団結」軍事行動にはならないと考えられます。むしろEUは難民登録データの即時交換を急ぎ、入国コントロールを厳格化し、怪しげな偽装(?)難民の監視を強化するなどの方向で収束するのではないかと思います。その中でフランスの勇ましさは孤立するのではないでしょうか。これはもしかすると安倍政権下の日本が存在感を示すチャンスになるかもしれませんが(そうならないことを祈ります)。

パリ同時多発テロはNATO同盟事態(?)

2015年11月15日 | 社会
パリ同時多発テロを指して言った仏大統領の「これは戦争行為である」の言葉の重みにどれだけの人が気付いているでしょうか?
私も聞いた瞬間にピンと来たわけではなく、ドイツ政治家たちの一部が「これはNATO同盟事態(集団自衛権)の発動か?」と議論し出してから、そのヤバさに気付いた次第です。
つまり、今回のテロはフランスへの『外部からの攻撃』に相当すると正式に認定された場合、同盟国はフランスの軍事協力要請を拒否することなど、そう滅多やたらなことではできなくなるわけです。それが『同盟事態(Bündnisfall)』。日本語では「集団自衛権の発動」と言っているようです。日本語擁護に含まれる「権利」の部分が今一つドイツ語のニュアンスとかみ合わないので、ここではドイツ語からの直訳『同盟事態』のままで通します。

まずは金曜夜の事件の復讐から。主にツァイト・オンラインの「パリ襲撃時系列」という記事を参照しました。

Stade de France(サッカースタジアム)&Rue des Trémies:サッカー試合ドイツ対フランスが開催中のスタジアム。オランド仏大統領とシュタインマイヤー独外相も臨席。観客約8万人。試合開始16分後、21:20に最初の爆発音。Avenue Jules Rimet側のDゲート前で自爆テロがあり、犯人及び通行人一人が死亡。犯人はシリアのパスポートを所持していました(偽造あるいは盗品パスポートと見られています。パスポート所持者は10月にギリシャ・レスボス島で登録され、その後セルビアでも登録されていました)。10分後にHゲート前で自爆テロ。犯人のみ死亡。彼は入場券を持っており、恐らく入場後に自爆する予定だったと考えられます。警備員に怪しまれて入場できなかったようです。犯人はフランス人とのこと。
21:52、スタジアム近くのRue des Trémies にあるマクドナルドで自爆テロ。ここでも犯人のみ死亡。この犯人もフランス人とのことです。犯人らは最後にベルギーのイスラム過激派の牙城となっているらしいモーレンベークに住んでいたようです。

Rue Bichat-Rue Alibert交差点:パリのおしゃれなお出かけスポットで、週末の賑わいの中、21:25に黒いSeat Leonが現れ、カラシュニコフを持った襲撃者がLe Carillonという角のビストロを銃撃。その後向きを変えて、通りを挟んだ向かい側にあるカンボジアレストランLe Petit Cambodgeを銃撃。現場ではカラシュニコフの直径7.62の薬莢100発以上が発見されました。15名死亡。10名負傷。

Rue de la Fontaine au Roi:Rue Bichat-Rue Alibert交差点から1kmほど離れた繁華街で、21:32にCafé Bonne Bièreというカフェが、21:36にPizzeria Casa Nostraというイタリアンレストランがやはり黒のSeatに乗った犯人にカラシュニコフによる銃撃を受けました。死者5名、負傷者8名。ここでもカラシュニコフの直径7.62の薬莢100発以上が発見されました。

Rue de Charonne:Rue de la Fontaine au Roiから直線距離で2㎞離れたLa Belle Équipeというレストランで黒のSeatが止まり、またしてもアサルトライフルで銃撃、19名が亡くなりました。9人が重傷を負いました。目撃者の証言ではここから犯人たちはBoulevard Voltaire 方面に逃げていったそうです。

Boulevard Voltaire:このブルヴァールが広場のように広がっている所にあるBrasserie Comptoir Voltaireというカフェで21:40に1人の男性が自爆テロ。弾薬はStade de Franceの自爆テロで使われたものと同じだ、と仏検察のフランソワ・モーランは言っています。死亡したのは犯人のみ。負傷者1人。この自爆テロ犯がどのように現場に来たのかは不明。

Bataclan:アメリカのインディーバンドEagles of Death Metalのコンサート開催中。1500人収容のホールは満席。21:40にベルギーナンバーの黒いVW PoloがBataclan前に止まり、カラシュニコフで武装した男性3人が車を降りてホールに突入し、入り口付近で「アラーフ・アクバル」と叫びながら銃撃を開始。倒れる人たち、逃げ惑う人たちで会場はパニック。ここでは犯人たちは逃げずに人質を取って立てこもりました。0:20に警察が突入し、犯人の一人を射殺。彼が身に着けていた自爆用の爆弾が爆発しました。その直後、あとの二人もそれぞれ爆弾を取り付けたベストに点火し、自爆しました。Bataclanでは89名が死亡。負傷者多数。
翌日、犯人の一人が千切れた指からDNA鑑定で同定され、フランス諜報機関で既に要注意人物として知られていたフランス人と判明しました。1985年11月21日生まれ、パリ南部のエソンヌ、Courcouronnesの出身とか。

AFPからツイッターで地図とタイムラインが出ています。マクドナルドの住所がRue de la cokerieとなってますが、上記のRue des Trémiesと同じ店です。角地なので通り二つに面しています。



事件後の世界の反応はトリコロール。


もちろんこうした反応に違和感や反感を覚える人たちも少なくないでしょう。犠牲者への追悼は理解できるにせよ、パリの前に起きたベイルートのISによる連続自爆テロ事件で亡くなった41名(43名という報道もあり)はどうなんだ、不公平じゃないか、というわけですね。「200人以上が亡くなった」というツイートもありますが、それは誤報です。200名以上というのは負傷者の数です。
そして、世界メディアは欧米が支配しているからだ、とか欧米列強批判が出てきたり、テロはやらせだとかいうデマを振りまく人も出てきています。
ただ、ちょっと待ってください。ベイルートのテロ現場はショッピングモールで、シーア派のテロ組織ヒスボラの牙城です。この組織はシリア内戦にアサド政権側に立って参戦してします。もちろん犠牲者全てがヒスボラ関係者というわけではなかったでしょう。シリア内戦に参加するヒスボラのとばっちりを受けただけの人たちが多かったと予想されます。メディアも世界もこの事件を無視したわけではありません。ちゃんとメジャーメディアでは報道されていましたし、派手なライトアップこそしなかったにせよ、例えばシュタインマイヤー独外相などはすぐに犠牲者へのお悔やみを表明していました。『報道されなかった』と騒ぐ人たちは自分たちの目にはその報道が入らなかったと言っているようなものです。
ただ、レバノンは、2006年のイスラエル・レバノン紛争停戦後、国連平和維持軍が駐屯していて、ヒスボラの非武装化を政府ともども目指しているのですが、遅々として進まず、まだまだ政情不安定な状態です。そういう国の国旗を追悼の意を表して掲げるのは、政治的意味合いがフランスのトリコロールとは全然違ってきてしまうのではないでしょうか?
また、メディアの扱いの差ですが、これもニュースヴァリューの違いにすぎないでしょう。イラクやシリアでもたくさんの人たちが亡くなっていますが、両国は内戦中なのです。従って、一つ一つのテロ事件をジャーナリストが追えない、という事情もありますし、【内戦中のテロ行為の一つ】という位置づけですから、内戦地域から遠く外れた平和である筈のフランス首都で起きたテロとは珍しさの違いが明らかです。そして、珍しいほうがニュースバリューが高いのは自明の理ではありませんか。レバノン・ベイルートは地理的な近さとヒスボラのシリア内戦参戦により抗議の意味で内戦拡大地区とみなせます。だから、【珍しさ】という観点から見れば、パリよりもニュースヴァリューが低くなるわけです。それによって犠牲者の命の価値に差がつけられているわけではなく、報道とはそういうものだ、ということを理解する必要があるでしょう。

本日トルコのベレックで開催されたG20サミットでも、パリ同時多発テロは大きなテーマとなりました。メルケル独首相はG20会場でのインタビューで、「私たち(G20)はいかなる形のテロリズムよりも強いということを示さなければなりません」と発言しました。明日にはG20の共同声明が出ることでしょう。
またガウク独大統領もオランド仏大統領やザルコジ仏前大統領同様「これは新しい形の【戦争】である。」と連邦議会で演説しました。
レトリック的に既に戦争が始まっています。フランスは既にあまりかと報復措置について話し合った、とのことですが、どのような措置かは具体的なことは一切明らかにされていません。フォン・デア・ライエン独防衛相は「現時点では何もかも推測に過ぎない」とNATO同盟事態が発動される可能性について慎重論を唱えていますが、可能性の一つであることには違いありません。
最後にNATO同盟事態が発動されたのは2001年9月11日のアルカイダによる同時多発テロの後でした。本来海外派兵に消極的なドイツもやむなくアフガニスタンに派兵し、主に警察官教育や復興支援、兵站支援などを担ってきました。この14年間、何も解決せず、終わっていないことを政治家たちはしっかりと念頭に置くべきです。今後のフランスの出方にもよりますが、難民問題も併せて複雑化していくのは避けられません。
ISの犯行声明によれば、「カリフの忠実な軍隊が性的不道徳と悪徳の首都を攻撃した」とのことですが、これは広く「自由かつ開放的な社会への宣戦布告」と解釈されているようです。だから自由主義社会の「私たち全て」が攻撃されたのだ、と。この解釈の背景にはもちろんNATO同盟条項の「NATO加盟国の一国への攻撃は全てのNATO加盟国への攻撃である」にもあることは否めませんが。精神的には腐敗も含む【自由】対必ずしも正統とは言えないイスラム原理主義的【戒律】、という構図でしょうか? 冷戦時代を彷彿させるイデオロギー対立ですね。対共産主義が対イスラム過激派にとって代わっただけのようにも見えます。これが、21世紀的世界秩序なのでしょうね。その構図の中でたくさんの人たちが逃げまどい、また命を落としていくわけで、前世紀の反省など無きに等しいです。違いは国対国の戦争ではないことぐらいではないでしょうか。
イスラム過激派に走る若者たちの言い分に、ちょっとだけ耳を傾けてみると、きっかけが例えばサウジ王政に対する不満、格差の拡大や失業率の上昇だったりします。シリアでのアラブの春に倣った平和的デモが武力行使で制圧されたように、サウジでも不満分子は徹底的に弾圧されています。アルカイダやISは、思想的にはサウジアラビアのサラフィー主義の系統をひいています。組織の成り立ちには米軍が深くかかわっていた、ということはよく知られていますが、ここで言及しているのは組織としてすでに成り立った後にそれに賛同する人たちのことですので、ご了承ください。
政府の圧政への不満は理解可能ですが、その弾圧に対抗し、将来の希望をイスラム原理主義に見出すあたりは、西側の退廃文化で育った私には全く理解不能です。それでも、弾圧する為政者と仲良くする西側諸国にも憎しみの矛先が向くのは仕方がないことかもしれません。根本的な解決のためには中近東独裁諸国の社会的不平等を是正する必要があります。若者たちが将来の希望をテロやイスラム原理主義ではなく、別のところに、つまり、それなりに平等な社会におけるそれなりの仕事などに見出せるような改革が必要なのです。空爆も、地上戦も命を失うばかりで、新たな憎しみは産みますが(だから終わりがない)、新たな希望は産みません。そのことを冷静になって、みんなに考えてほしいと思います。



余談ですが、ドイツ政府は空港や駅や政府関係建物の警備を強化すると同時に難民収容所の保護警備も強化するよう指示を出しました。これは実に理にかなった措置です。これがなかったら、あっという間に数件の難民収容所または収容予定地が放火にあっていたことでしょう。

シェンゲン協定瓦解(?)とパリの同時多発テロ

2015年11月14日 | 社会
シェンゲン協定

止まらない難民のヨーロッパ流入はシェンゲン協定を瓦解させようとしています。

ハンガリーが国境封鎖したのを皮切りにシェンゲン協定加盟国が次々と国境検問を行うようになり、11月12日はついにスウェーデンも国境検問を始めることになりました。パスポートがない人の入国は許されず、追い返されることになります。これはスウェーデンのこれまでの開かれた移民・難民政策の転換を意味する、と解釈されています。この為、キールやロストックなどの北ドイツの都市ではスウェーデンに渡航したくてもできなくなってしまった難民たちのために急遽宿泊施設を増設せざるを得ませんでした。
スロヴェニアもオーストリアも検問だけでなく有刺鉄線の柵を設置しました。
これにより、『国境なきヨーロッパ』、旅行の自由は制限されてしまいましたが、シェンゲン協定もこれで瓦解したのかというと、そうではありません。シェンゲン協定において、国境検問が禁止されているわけではないからです。非常事態や特別な催しなどの際して一時的に国境検問を行うことは許されています。この為フランスも11月13日から世界環境サミットに向けて国境検問を開始しています。
その矢先にパリのテロ事件は起こりました。そして、このテロを機にフランスに接するドイツ・ザールラント州、オランダ、スイス・ルツェルンなどで国境検問が始まりました。こうした越境する犯罪者対策として個々の点で検問を行うことはシェンゲン協定の国境規範第21条によって認められています。また本格的な国境検問も公衆秩序を守るために行うことは可能です。しかし、これは通常10日間のみ有効で、最大2か月まで延長することができます。
また大規模な催し物のための国境検問は通常30日間まで有効です。

ハンガリーの国境封鎖はそのような短期間で取り除かれるようなものではなく、かなりしっかりした作りになっていますが、これも実は必ずしもシェンゲン協定違反にならないのです。
2013年の『アラブの春』以来、北アフリカからの難民増加に備えて、シェンゲン協定加盟国は2年までの国境検問を可能にすることに合意しました。その条件として他のEU加盟国の同意が必要です。この非常事態条項は当時、ドイツの強い要請で導入されました。
今のところ長期にわたる非常時国境検問導入申請はどの国からも正式に出されてはいません。従って、ハンガリーの国境封鎖も、少なくともシェンゲン国スロヴェニアとの国境ではそろそろ協定違反になってきます。


青はシェンゲン協定加盟EU国。薄い青はシェンゲン協定加盟・非EU国。黄緑はシェンゲン協定加盟予定国。緑のイギリスは「協力国」。

パリの同時多発テロ
11月13日金曜日、夜9時過ぎに始まった同時多発テロ。パリの8か所でほぼ同時に爆撃や銃撃などがあり、ロックコンサートの会場となっていたBataclanコンサートホールが一番多く、80名以上の犠牲者が出ました。今のところ死者は128名、負傷者180名だそうです。
この場を借りて、犠牲者の方々のご冥福を祈ります。


ISがインターネットのビデオで、犯行声明を出しました。その証拠はまだ出ていないそうですが、恐らくISの仕業であろうというのが仏警察当局の見解です。IS側がこれが『嵐の始まりである』と脅しています。
各国の反応は2001年の911事件の時や今年1月に起きたシャルリー・エブドー襲撃事件の時と似たような感じでした。声を揃えてテロを批判し、フランスに同情と友情、更なるテロ対策での協力を約束するなど。これにデジャヴューを覚える人は私だけではないでしょう。
犯人の一人の遺留品の中にシリアのパスポートがあったそうですが、恐らく偽造パスポートだろうというのが当局の見解です。
しかし、それが、反難民・反イスラムの人たちに格好のエサを与えてしまうのは確かです。テレビなどでは必死に難民たちはまさしくこのISのテロから逃げてきたのだから、彼らにテロの責任を押し付けないように、と訴えていますが、それは正しいとは言えません。なぜならシリア人の多くはISではなく、アサド政権のバレル爆弾テロから逃げてきたのですから。
いずれにせよ、「反難民・反イスラム」などを主張するような人たちには細かい区別などつけられるような人などほとんどいません。だからこそ反難民・反イスラムであり得る、ともいえます。なぜなら、難民はイスラム教徒とは限りませんし、また難民の犯罪率も特に高いわけではないからです。難民=ムスリムあるいは難民=テロリストなど、様々な決めつけや思い込みが拒否反応と差別の温床となるのであって、冷静に細かい観察眼のある人には一緒くたにされたある集団に対する差別意識というものがばからしいもの以外の何物でもないのです。ただ、世の中には残念ながらまともに詳細な情報を集め、深く考える人は少なく、大衆は碌に思考しません。なので、いかに啓蒙活動をしようと、テロにはテロを返そうとする人たちが出てくるのは避けられません。それで犠牲になる他人の命をどうでもよいと考えるその思考パターンはISテロリストと共通していると言えるでしょう。今後そういう人たちがどんどん日常を脅かしていくと予想されるのが遺憾でなりません。
難民問題の解決のめどもつかず、対症療法ですら朝令暮改の体を示しているドイツ政府を見ると失望するばかりです。EUとアフリカ諸国やトルコとの交渉も先行きは不透明ですし、有効な対策が取られる可能性は低いものと思われます。

フランスはアメリカと共にISを爆撃している国です。日本も安倍晋三首相がISにご丁寧に宣戦布告したので、集団的自衛権の行使とともに、いつこのようなテロに見舞われるか分かりません。日本本土でのテロの確率は恐らくそれほど高くないのでしょうが、在外邦人への攻撃は十分に予想されています。次の選挙の時はこのことを日本の有権者にしっかりと考えて投票してほしいと思います。

テロ対策は地道に未然に防ぐ努力をする以外ないと思います。報復が何も生まないことはアフガニスタンで証明済みです。オサマ・ビン・ラデンを片づけるまでにも時間がかかりましたが、片づけたからと言って何か解決したわけではなく、アフガニスタンは再びタリバン復活を許してるじゃないですか。
イラクを空爆して、サダム・フセインを駆除して、何かいいことありましたか? イラクは内戦のままです。そして旧サダム派の人たちが大量に(武器も持って)ISに流れたわけです。 
その裏に武器を売って使わせたいロックフェラー財閥が潜んでいる、という陰謀論もあながち根も葉もないことではないと思えます。戦争を起こさせようという意志みたいなものを感じることがあります。

カーニバルシーズン開始

2015年11月11日 | 歴史・文化

今日から、「5番目の季節」の始まりです。
「5番目の季節」とは、カーニバルの季節を指し、11月11日、11:11、市庁舎などを占拠したり、その年のカーニバルプリンス・プリンセスのお披露目をしたりすることで始まり、お笑いセッションが年末まで数回開催され、狭義のカーニバルを経て、「灰の水曜日」というカトリックの移動祭日前日で終わります。
デュッセルドルフ、ケルン等のライン川流域及びヘッセン州マインツなどがその中心地で、仮装行列やパーティーで賑わいます。行列は大都市では数万人規模になります。


因みに地域によっては、「5番目の季節」がクリスマスとそれを待つアトヴェント(クリスマスの4週間前に始まる)期間だったり、狭義の意味でのカーニバル(断食の始まる灰の水曜日前のお祭り騒ぎ期間)だけだったりしますが。

それはともかくとして、何年たっても私はこのノリだけはなじめません。カーニバルセッション中心地域にいるにもかかわらず、やはりそもそもお祭り好きではない冷めた性格のせいか、部外者丸出しです。今日もごく普通に会社に行き、ごく普通に帰宅しました(苦笑)。
でも地元の人の中にも冷めている人たちはたくさんいますし、「カーニバル逃避(Karnevalflucht)」を積極的にやる人たちもいます。カーニバル独特の音楽やどんちゃん騒ぎが鬱陶しくてたまらない、と地元だからこそ嫌ってしまうわけですね。だから、その時期に合わせて休暇をとって出かけてしまうのです。

狭義のカーニバルは「灰の水曜日」の前の木曜日の「女たちのカーニバル(Weiberfastnacht)」に始まります。こうしたお祭り騒ぎは中世からあったのですが、ナポレオン占領下の1795年に禁止されてしまい、1804年にふたたび解禁になったものの、街道カーニバルはすっかりすたれてしまっていました。フランス人が去った後はプロイセンの支配下となったケルンでは1822年に「パレード整列する委員会(Festordnenden Comites)」が創立されることによって、街道カーニバルが復活しました。また、この委員会によるパレードは外国支配をユーモラスに批判する政治色も徐々に濃くなっていき、この伝統は今に受け継がれています。19世紀中様にはFestordnenden Comites以外のカーニバル団体がいくつも設立され、競合していましたが、1888年に大きなカーニバル団体同士が合意して新しい「祝祭委員会ケルン・カーニヴァル(Festkomitee Kölner Karneval)が設立され、「パレード整列する委員会」を受け継ぎました。ケルン同様フランス支配下からプロイセン領となったデュッセルドルフでもケルンの例に倣って1825年に「カーニバル委員会(Carnevals-Comité)」が設立され、現在の「デュッセルドルフ・カーニバル委員会(Comitee Düsseldorfer Carneval)」に引き継がれています。マインツのカーニバル団体は1838年創立の「マインツ・カーニバル教会(Mainzer Carneval-Verein)」です。
こうした動きは周辺各地に広がっていきましたが、現在でもこの3都市がカーニバルの牙城と呼ばれています。

カーニバルの挨拶はアラーフ(Alaaf!)ですが、マインツ周辺ではなぜかヘラウ(Helau!)です。この違いを深く追求したことはありませんが。
因みに、カーニバルに積極的に仮装などして参加する人たちのことをイェック(Jeck)と呼びます。複数形はイェッケン(Jecken)。道化(Narr)と同義で、ライン川中流の方言です。語源は英語のgeekと同じだそうですが、英語のような否定的な意味はありません。

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イェーテボリ交響楽団、ケルン公演

2015年11月10日 | 日記

11月10日、イェーテボリ交響楽団(Göteborgs symfoniker)のケルンフィルハーモニーでのコンサートに行ってきました。


指揮:ケント・ナガノ
バイオリン:アラベラ・シュタインバッハー

曲目
シベリウス、フィンランディア op.26(1900)
メンデルスゾーン、バイオリンコンチェルト 、ホ短調、op.64 (1838–44)
ブラームス、交響曲第1番、ハ短調、op. 68 (1862–77)



シベリウスは、あまり馴染はないのですが、コンサートの出だしとして適した小品で、素敵な曲でした。

メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトは有名過ぎて、私も耳が肥えてしまっているので、バイオリニストの力量不足がちょっと耳に触ってしまったような気がしました。バイオリンがオケに負けているような、深みが足りないような、そんな感じでした。
それでも、シュタインバッハーさんがアンコールで演奏してくれた曲は、題名は聞き取れなかったのですが、面白い曲で、彼女の技巧の高さがよく表れていたような印象を受けました。

ブラームスの交響曲も有名ですが、私は普段ブラームスも交響曲もそう好んで聞いたりしないので、新鮮でした。ティンパニーは迫力があり、フルートは繊細。本当に鳥肌が立つほど素晴らしい演奏でした。

指揮者のナガノさんの気前が良かったのか、オケ団員の時間的な余裕があったのか、アンコールで2曲も演奏してくれました。1曲目はグリークのペール・ギュントより『朝のすがすがしさ(Morgenstemning)』。2曲目は知らない曲だったのですが、間違って聞き取ったのでなければ『スウェーデン舞踊曲』という、思わず踊りだしたくなるような、かわいらしい感じの曲でした。

結局演目に入ってた3曲の他にアンコールで3曲、トータル6曲を堪能させていただきました。
実は、このコンサートのチケットはメルマガ購読者だけが注文できる2割引きお得チケットでした。その上に、3曲もアンコールで演奏してもらって、すごく得をしました。
仕事を早めに切り上げることができず、帰宅後は着替えて、軽く食事してすぐ、慌ただしくケルンに向かったので、コンサートが始まるまで結構ストレスを感じていたのですが、終わった後はこのお得感もあって、上機嫌


11月9日はドイツの歴史的記念日~「水晶の夜」とベルリンの壁崩壊

2015年11月09日 | 歴史・文化

11月9日はドイツ現代史にとって最も重要な記念日といえます。
一つはナチスの暗い歴史・ユダヤ人迫害の開始をマークする1938年11月9日の夜に起きた事件、帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)。
もう一つは旧東独と旧西独に属していた西ベルリンを隔てていた「死の壁」ベルリンの壁が1989年11月9日に崩壊したこと。

水晶の夜
1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で反ユダヤ主義暴動が起きました。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された事件ですが、ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されています。「水晶の夜」という名前は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところにヨーゼフ・ゲッベルスが名付けたことに由来すると言われています。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなりました。「帝国迫害の夜」(Reichspogromnachts)または「11月の迫害」(Novemberpogrome)とも呼ばれています。1400件以上のシナゴーグや祈りの家やユダヤ教徒の集会場などが破壊されました。そして翌日の11月10日から約3万人のユダヤ人が強制収容所に連行され、数百名が殺され、また拘留の結果として亡くなりました。
この事件は1933年のナチス政権発足以来のユダヤ人差別政策から組織的なユダヤ人迫害への転換点となっています。それまで机上の空論のごとく議論されてきたユダヤ人問題(Judenfrage)に関する「最終解決(Endlösung)」、即ちユダヤ人殲滅作戦がいよいよ現実味を持った政治目標となったわけです。
ナチス政権下でおよそ600万人のユダヤ人が命を落としました。それを一般のドイツ人が知ったのは戦後になってからです。一般人はユダヤ人が強制収容所に連行されていくのは勿論知っていましたが、そこでみんな殺されるとは考えておらず、強制労働に従事させられるものと考えていたのです。ナチス政権がユダヤ人は強制労働収容所(Arbeitslager)に送ると発表していたので、それを疑ったり、真実を追求したりする人はほぼ皆無で、大抵の人は政府の言うことを鵜呑みにしていたわけです。世に政府発表程信用できないものはないという格好の例でしょう。

ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁は周知のように当時西ドイツに属していた西ベルリンをぐるっと囲う壁で1961年8月に設置されました。ドイツは第二次世界大戦後、ソ連、アメリカ、フランス、イギリスの占領地区に4分割されました。ベルリンは地理的に言えばソ連の管理区域の中にありましたが、ドイツの首都でしたので、その重要度からそれ自体4分割され、ソ連占領区域の中の西ベルリンという陸の孤島状態が形成されたのです。米ソの冷戦下でベルリン支配は政治的駒として利用されていましたが、壁を作るに至った直接的な理由は、「足での採決」と言われていたソ連占領下から西側占領区域への逃亡を阻止するためでした。

1961年8月13日に東西ベルリンの行き来が禁止されてから1989年11月9日に西側への出国許可が宣言されるまでの28年間で、5075件の西独への逃亡が成功しましたが、逃亡に失敗または逃亡者と勘違いされて撃ち殺されてしまった人たちも少なくありませんでした。現代史研究センターZentrums für Zeithistorische Forschung (ZZF)によれば、ベルリンの壁の犠牲者は138人ですが、ベルリンのチェックポイント・チャーリー壁博物館では犠牲者は2009年時点で245人となっていました。
ベルリンの壁が崩壊する以前、旧東独では特に旅行の自由を求める自由民権運動が盛んになっていました。スローガンは「私たちが国民だ!(Wir sind das Volk!)」。その一方で、東ドイツ国民がハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハやブダペストの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになりました。その後これらの東ドイツ国民は西ドイツ大使館の敷地内に収容されたものの、その収容人数は日々増すばかりでした。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東独国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫りましたが、東ドイツ政府は何の反応も示しませんでした。9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらず、9月10日にはハンガリーのネーメト内閣が国境の全面開放を決定し、11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させました。その後国内外で混乱が続いたのですが、当時の最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態で、事態に十分に対処することができず、結局ホーネッカーは失脚し、エゴン・クレンツが後任となりました。同年11月6日に新旅行法案が発表されましたが、国外旅行の際の様々な制限が多いままだったので議会で否認され、クレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにしました。こうして、11月9日の記者会見で読み上げられた「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が作成されたわけですが、これを読み上げた、先日亡くなったギュンター・シャボウスキーは、この政令が閣議決定されているものと勘違いして、「いつからその政令が発効するのか」という記者の質問に対して「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです("Nach meiner Kenntnis ist das sofort, unverzüglich")」と答えてしまい、後に「フライイング高官」と揶揄されるようになったのは有名な話です。この記者会見は生放送で、東独だけでなく西独でも受信可能だったので、東西両側で市民たちがベルリンの壁周辺に殺到ししました。配備されていた数少ない国境警備隊は、最初は「出国には許可がいる」と規則を守ろうと頑張っていましたが、「ゲートを開けろ」と迫る群衆に対抗する術は、同年6月4日に起きた天安門事件の影響であらゆるデモに対する武力行使を拒否していた軍警にはなく、ゲートを開けて群衆を通す以外の選択肢はありませんでした。現場にいない上官は「待機命令」を出していましたが、検問所を維持できないと判断したボルンホルマー通り検問所現場司令官のハラルト・イエーガー中佐が独断でゲートを開放させました。その他の検問所でも次々と同様の現場判断が下され、11月10日未明には全ゲートが開放されることになったのですが、ボルンホルマー通り検問所のイエーガー中佐が最初だったので、後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになりました。この事件は大きな政治的転換を意味する現代唯一の出来事であったため、現在でもただ「転換(Die Wende)」と言えば、このベルリンの壁崩壊を指します。


二つの歴史的記念日を振り返って
現在ドイツをはじめとするヨーロッパにおける最大の問題は難民大量流入と右傾化する世論・過激化する難民排斥運動です。「水晶の夜」を振り返って、こうした難民排斥運動は、いずれユダヤ人迫害にも繋がる危険性があり、根本的に同質の問題だとユダヤ教中央評議会は強い懸念を示しています。また、ベルリンの壁崩壊前の自由民権運動のスローガンだった「Wir sind das Volk!」がペギーダをはじめとする難民排斥運動に全く違う意味で利用されていることに嫌悪感を示している民権運動家も少なくありません。(ペギーダ運動に関しては拙ブログ「ドイツの難民排斥運動」をご覧ください)
このスローガンは当時民主化を求めるためのものであり、「私たち(Wir)」が強調されていたのですが、ペギーダ運動でのそれは「国民(das Volk)」の方に意味的なアクセントがあり、その趣旨は民主主義に反する国家主義的な傾向が強く出ています。その不穏な空気は水晶の夜に通じる異分子排斥衝動を包括し、難民収容所に対する犯罪は前年比4倍を記録しました。ドイツのための選択肢(AfD)という右翼政党の支持率も着実に伸びてきています。そのことに危機感を抱いているドイツ人も多いので、今日という現代史の重要な記念日に各地で自由・民主主義と異文化に対する寛容性、開かれた文化を確認するデモが行われました。
それにしても、東独時代に民権運動が最も盛んだったドレスデンで今日の難民排斥を趣旨とするペギーダ運動が起こったというのは実に皮肉です。そして彼らは国境閉鎖を訴えています。26年前、ベルリンの壁に殺到する東ドイツ国民を前にゲートを開けるしかなかった国境警備隊の教訓をすっかり忘れてしまっているようです。強い意志を持った群衆に武力行使できない国境警備隊ができることなど交通整理とパスポートコントロールくらいです。つまり、国境を閉鎖したくらいで難民問題は解決しないのです。
「歴史を繰り返さない」という強い政治的意志が今ほど必要とされている時もないのではないでしょうか。国境の壁も異分子排斥も遠い歴史上の出来事ではなく、正に今現在の問題ですから。

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国際ホロコースト記念日。2017年は特に安楽死プログラム犠牲者追悼

アウシュヴィッツ解放、国際ホロコースト記念日

訃報:ヘルムート・コール元独首相

訃報:ドイツ元外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー(89)

100年前のヴェルダンの戦い(第1次世界大戦)~本日追悼式典。オバマ大統領広島訪問を考える。


ドイツ、既に2015年難民予想数到達。連立与党は「登録センター」で合意

2015年11月05日 | 社会
最新難民統計

ドイツ連邦内務省は今日、1月から10月に登録された難民数を発表しました:758.500人。これは今年の難民予想人数80万人に迫る人数です。登録が役所のキャパシティ不足により遅れて行われることを考慮に入れれば、既に10月末時点で予想数を上回っていた可能性もあります。

10月のみの新規登録者は約181.200人. 9月の164.000人より17.200人増えてます。

しかし、連邦移住難民庁で同時期に難民申請をした人は362.153人だけでした。それでも2014年の難民申請総数(約203.000人)より約16万件多くなっています。
内務省によれば連邦移住難民庁は1月から10月の期間中に205.285件の難民審査を終えました。昨年同期間の2倍以上の件数です。難民として認知されたのは39.7%でした。
未処理の申請件数は同時期に約3万件増え、328.207件となりました。 登録した難民のうちまだ難民申請をしていない人たちは申請件数統計には入っていません。

主要出身国は10月もシリア(88.640人、24.4%)がダントツで、アフガニスタン (31.051) 、イラク (21.875)と続きます。

内務省は夏に今年の難民予想数を80万人に引き上げました。州政治家や連邦経済・エネルギー相のジグマー・ガブリエルなどはとっくに難民100万人を見込んでいました。

ツァイト・オンライン、2015.11.05の記事より。


因みにオーストリアも難民統計が公表されました。オーストリア内務省による1月から9月の統計で、56.356件の難民申請があったそうです(前年比231%増)。申請者のうち、男性の割合は9か月平均で78%。男性の割合は5月が最大で83%。その後下がり続けて、9月には68%になったとのこと。申請者の中ではシリア人が最も多く、29.5%を占めました。
保護者同伴でない未成年申請者は6175人(11%)で、うち14歳以下の子どもは380人でした。

ディー・プレッセ、2015.11.05の記事より。

「トランジットゾーン」ではなく「登録センター」

連立与党党首ら、アンゲラ・メルケル(CDU)、ホルスト・ゼーホーファー(CSU)ジグマー・ガブリエル(SPD)は難民登録センター設置をはじめとする関連政策に合意しました。国境のトランジットゾーン案はこれで立ち消えとなりました。

登録センターはZDFによれば、バンベルクとマンヒングの2か所で、柵などの囲いは設置されるが、留置施設にはならないとのこと。同自治体での滞在を義務付ける予定ですが、当の難民申請者が滞在しているかどうかをどのようにコントロールするかについてはまだ明らかになっていません。

難民認定される可能性が少ない申請者の審査手続きは1週間以内に処理完了させ、もし申請者が不認可に対して不服申し立て訴訟を起こす場合は、その裁判手続きは2週間以内に終了しなければならないという。
簡易化した手続きは特にバルカン諸国のような安全な国出身者たちに適用され、再入国禁止となるそうだ。同様に2度目の申請をする人たちや有効なパスポートなどの身分を証明する書類を所持してない人にも適用されます。

難民証と難民データベース

メルケル首相は難民及び亡命申請者に統一証明書を導入すると宣言しました。そうした証明書の所持者だけが今後支援を受けられるようになります。統一証明書によって、これまでの難民の複数回にわたる登録を省くことができるようになるのが狙いです。

また難民データベースを作成し、誰が到着したのか俯瞰できるようにするそうです。家族呼び寄せは、特定の場合には2年間据え置きにすることも可能になります。

この合意で政権与党間の数週間に及ぶトランジットゾーンを巡る争いが収束しました。


野党の批判

政権与党の合意は野党の激しい批判を呼びました。「SPDはまたしてもCSUの亡命法厳格化路線に迎合した」と緑の党党首シモーネ・ペーターはロイター通信に語りました。「即席手続き、滞在義務の厳格化、支援の制限など許容できない嫌がらせであり、難民申請者の人権に対する攻撃だ。難民にいやがらせをして、出身国によって差別し、家族呼び寄せを制限する代わりに、難民審査のための人員を早急に増員すべき。」

左翼党党首ベルント・リークシンガーは「見せかけの妥協」と言っています。政府決定されたより厳しい滞在義務を伴う収容施設は間違った方向の致命的なシグナルだ。なんとしても国外退去が実施されるようになり、亡命権は壊される。そして法治国家的原則に基づいたフェアな審査手続きが行われなくなる危険がある。」と指摘しました。

ZDFホイテ、2015.11.05の記事より。