徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:常光 徹著、『しぐさの民俗学』(角川ソフィア文庫)

2023年08月19日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

積読本の消化にあたり、各分野バラバラではなくなるべく同じ分野の本を続けて読もうと思い、『おじぎの日本文化』に続いて本書『しぐさの民俗学』を手に取りました。ちょっとずつしか読み進められませんでしたが、なんとか完読しました。

『しぐさの民俗学』とはいっても、前編しぐさについて考察しているわけではなく、日常的な忌事やお呪いの類もテーマごとに取り上げられ、それらの根底に横たわる論理や発想が何か考察されています。
表紙になっている絵は《狐の窓》と呼ばれるしぐさで、特殊な指の組み方をして、その穴から覗くと狐狸妖怪などの異界のモノの正体を見破れるのだとか。
これは他にも《股のぞき》や《袖の下覗き》のしぐさとも共通し、いずれも隙間から覗くことに呪的な意味があり、それによって怪異を見る、正体を見破ることで脅威を無効化するなどの働きがあるのだそうです。
これは第三章「股のぞきと狐の窓」で取り上げられています。

目次
序 続伸と心意
第一章 息を「吹く」しぐさと「吸う」しぐさ
第二章 指を「隠す」しぐさと「はじく」しぐさ
第三章 股のぞきと狐の窓
第四章 「後ろ向き」の想像力
第五章 動物をめぐる呪い
第六章 エンガチョと斜十字
第七章 クシャミと呪文
第八章 「一つ」と「二つ」の民俗
第九章 「同時に同じ」現象をめぐる感覚と論理
終 しぐさと呪い

第一章では、息を「吹く」と「吸う」にまつわる様々な俗信が紹介されています。「吹く」と「吸う」というだけではピンと来ないかもしれませんが、息を三度吹きかけて病や痛みを払う類の呪いや呪術にはなじみのある方も多いのではないでしょうか。「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの、飛んでけ~」とセットになってフーフーフーと傷口などに息を吹きかけるものですが。蜂を追い払うのに効くという俗信もあると知って驚きました。
逆に息を「吸う」のはチュッチュッと鼠の鳴き声を真似して何かをおびき寄せるしぐさで、場合によっては異界のものが人をおびき寄せるのに使うとも信じられているとか。

第二章では指を「隠す」と「はじく」にまつわる俗信で、今日全国的に最もよく知られているのは、「霊柩車を見たら親指を隠さないと親の死に目に会えない」というものではないでしょうか。
昔、ドイツ語における親指の意味について動画を作った際に、日本での親指の意味も比較対象として調べたことがあったので、親指を隠す行為と親の死に目が単なる後付けで、本来は親指の爪の隙間から悪しきものが侵入するのを防ぐ行為だということは知っていたのですが、実際に文献を紐解いて親指を隠すことの時代的変遷を見るのは非常に興味深いものです。
「はじく」方は、「爪弾き」という語から想像できるように、忌むべきものを積極的に祓う呪いだったようですね。

第三章では上述のように狐狸妖怪などの正体を見破ったり、富士山麓の股のぞきのように異界、神々の世界を垣間見たり、この世とあの世の境界を破ることなく覗く行為が紹介されています。「見るな」という禁忌を犯して覗き見てしまうと正体を見破られたものが消え去るというパターンは鶴の恩返しに限らないことが分かります。

第四章の「後ろ向き」も異界との関わりに関するもので、異界に背を向けつつも何かを投げて、大抵の場合、追ってこないように異界のモノに干渉する呪いが取り上げられています。伊邪那岐が読みの国に降りて、愛する妻の伊邪那美を連れて帰る際に「後ろを振り返るな」という禁忌を犯して大変なことになったのは有名ですが、この「後ろを振り返るな」という禁忌が様々な習俗に受け継がれているのが興味深いです。根底にあるのは、死者との「縁切り」で、死者を仏さまと崇めるのとは相容れない要素でしょう。

第五章では動物、特に狐や狸に化かされないようにする呪い、猫や蛇にたたられないようにする呪いなどが紹介されています。穴に入った蛇は耳たぶを掴みながら引っ張ると抜けるとかいう俗信も沖縄や高知に伝えられているらしく、面白い話でした。

第六章では指や手のしぐさ「エンガチョ」が取り上げられ、それと斜十字の関係、「X」印の呪力との関係が考察されています。斜十字の形状自体に魔除けの力があると考えられていたらしいことが分かります。

第七章ではクシャミ(古くは「クサメ」)の語源と悪しきものに魂を抜かれないようにする呪文の関係が考察されています。制御不可能な生理現象であるクシャミは他者の働きかけによって生じると考えられ、そのものに命を取られないように「クソくらえ」系の罵倒をその瞬間に言う。クシャミの呼吸に合わせてこの系統の呪文が組み込まれているのが「はーくしょん」ということらしいです。

第八章では「一つ」の特異性と「二つ」の民俗について考察されています。一声で声をかけるのは魔性のモノのすることなので、一声呼びが禁忌になっており、「もし」ではなく「もしもし」ということに繋がっているらしいのは実に興味深いですね。
また、片道と往復の俗信についても考察されています。「行き帰り」でセットと考えられており、日常はこれに従って、出たところから入るのですが、葬式の場合は、来た道をそのまま帰ってはいけないことになっていて、これは死者が「行きっぱなし」になり、現世に戻って来ないようにする「縁切り」の一種のようです。

第九章では「同時に同じ」現象をめぐる民俗について様々な禁忌が紹介されています。箸渡しの禁忌や相孕みの禁忌、双子を忌む背景や双子を対になる命名で「二人で一つ」を作り出して相争うことを避けようとするなど、考えてみると実に興味深い発想です。



書評:神崎 宣武著、『「おじぎ」の日本文化』(角川ソフィア文庫)

2023年08月11日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

たかが「おじぎ」、されど「おじぎ」。
正直、「おじぎ」だけでここまで深掘りできるものとは思いませんでした。
この「おじぎ」はどんな文化の脈絡ではじまり、いつどんな変容をとげてきたのか。著者・神崎宣武氏が「三三九度」をはじめ、日本人のしぐさに根付いている習俗儀礼や日本文化について、民俗学的な解明を行います。

目次
第一章 外国人が見た日本の「おじぎ」
第二章 古典・絵巻物から「おじぎ」を探る
第三章 中世の武家礼法と「おじぎ」
第四章 畳と着物による近世の「おじぎ」変革
第五章 現代へと変転する「おじぎ」のかたち

結論から言うと、現在、「道」のつく武芸や芸事の作法や学校教育などで知られる様々な礼は明治時代に完成・厳格化して普及し(始め)たものです。作法としての体系化への萌芽は室町期にあり、江戸時代の武家社会で発展していったようです。ただし、神社祭礼の系統とは別に、武家には礼法を担う高家(小笠原家、伊勢家など)が指導していたとのこと。
大名行列の際に町人は道端で土下座するイメージがテレビの時代劇番組などで広まってしまっていますが、実は土下座的なおじぎは外でやるものではなく、畳の上でやるもので、町民たちは道端で片膝をつき頭を下げる片膝礼をしていたことが当時の絵巻物からも分かっています。
片膝礼ではなく、現代のいわゆる「ウンチングスタイル」をしていたこともあるようです。

平安時代まで遡ると、おじぎに関する言及がほぼ皆無で、あるのはわずかに神仏に対する跪拝(膝つき、つま先立ち、両手を地面につけて頭を下げる)のみ。対人のおじぎはなかったらしいことも興味深いです。

神社祭礼でさえ、明治期に神仏分離の一環として全国統一の作法がトップダウンで申し渡されたものの、格式の高い神社は独自のやり方を維持したし、そうでない神社も基本的にはお達しに従っても細部では融通を利かせていたらしく、地域差がかなりあったようですね。

日本文化というなんとなく画一的な文化のイメージを正してくれる本です。

書評:三橋健著、『カラー図解 イチから知りたい! 日本の神々と神社』(西東社)

2023年08月07日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

古事記・日本書紀の分かりやすい解説は数多くありますが、本書のように神話から始まって、ご神体や神社の分類、鳥居・本殿・拝殿などの建築様式の分類、神社の仕組みや神職の区分、お札・お守り・破魔矢・お神酒などの由来や意味、神社と人生との関わり、有名神社とその祭祀など包括的に図解してくれるものはあまりないのではないでしょうか。
おそらく、細かいところでは正しいとは言い難い所が含まれているのでしょうが、門外漢または普段なんとなく関わっているけれど、そもそもの意味を知らないといった人にとっては非常に分かりやすい図解入門書です。

目次
【1章】日本神話と神々の系譜
【2章】神社に祀られる神々
【3章】全国展開した神社信仰の分布
【4章】神社の仕組み
【5章】全国の有名な神社
【6章】暮らしの中の神々と神社
【付録】全国の主な神社一覧
 
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書評:下地 寛也著、『プレゼンの語彙力 おもしろいほど聞いてもらえる「言い回し」大全』(KADOKAWA)

2023年08月06日 | 書評ーその他

『プレゼンの語彙力 おもしろいほど聞いてもらえる「言い回し」大全』は、2年ほど前に話し方や語彙力、プレゼン力関係の本を買いあさった際に購入したものですが、残念ながらそのまま今まで積読本リストの一角を占め続けていました。
今月は、志を新たに、積読本を消化することにし、本書を手に取った次第です。

読んでみて思いましたが、実は「積読」しとくほどのものではありませんでした。実に読みやすく、1つの言い回しに見開きを使い、左ページにイラストと標語などがあり、右ページに具体例と簡単な解説があります。

目次
第1章 「自信を示す」言い回し
第2章 「興味を引く」言い回し
第3章 「驚きを与える」言い回し
第4章 「納得感を高める」言い回し
第5章 「信頼させる」言い回し
第6章 「共感を得る」言い回し
第7章 「決断を促す」言い回し

他の類似書で取り上げられている内容も多かったですが、よく分類されているのと、1つの言い回しに1ページという構成の良さが理解しやすく、また、探しやすさから実践的と言えるでしょう。


書評:アルベール・カミュ著、窪田啓作訳、『異邦人』(新潮文庫)2021/12/28

2023年08月05日 | 書評ー小説:作者カ行

『異邦人』(新潮文庫)は4か月ほど前に『ペスト』と一緒に安売りしていたので購入したのですが、そのまま積読本と化していました。しかし、2年前の積読本リストが思い出としてFacebookのフィードに上がって来て、「そうだ、積読本を消化しなくては」と思い立ち、手始めにカミュのデビュー作『異邦人』を片付けることにしました。

1942年に刊行された本作は著者の出身地でもあるフランス領アルジェリアのアルジェを舞台としており、当時の「今時の若者」だったムルソーの母が養老院で亡くなったという知らせを受けるところから始まります。
休みを取って養老院へ行き、母の埋葬を済ませ、翌日は日曜日ですることもなかったので海水浴に行き、そこで元同僚マリイに偶然再会する。二人とも同僚であった時は憎からず思っていたので、その再会を機に付き合いだし、映画館に行って、その後情事に耽る様子が淡々と描写されます。
同じアパルトマンに住む住人達とのやり取りなども淡々としており、ムルソーの無感動・無関心が浮き彫りになっていきます。どちらでも構わないから成り行きに任せて流されるような生き方で、マリイとも欲情の方が優るらしく、彼女に愛しているかどうか問われても「おそらく愛してはいない」「でも、君が結婚したいなら結婚してもよい」的な発言をし、そのローテンションぶりが実にムルソーらしさということのようです。

そうした生活の中、同じアパルトマンに住む男レエモンの痴情のもつれに巻き込まれ、頼まれるまま代筆してやったり、女との喧嘩の際には後で警察で証言してやったりするが、これが尾を引いて、アラビア人たちと争うことになり、レエモンはけがを負う。彼から預かった拳銃を持ったままムルソーはひとりで散歩に出、そのアラビア人に偶然出くわし、匕首を出されたので拳銃で撃って殺してしまいます。なぜかその男が死んだと分かっているのに、その後4発も撃ち込んでしまいます。
ここで第一部が終了します。
第二部は予審や裁判、弁護士や司祭とのやり取りとムルソーの回想が綴られています。ムルソーの罪深さを証明するためと称して、彼が母を養老院へやったことや、母の埋葬に際して悲しみを見せなかったこと、翌日にはマリイと海水浴に行ったことなどが取り沙汰され、そのように許しがたい罪深い魂であるがゆえに殺人も計画的に行ったに違いなく、極刑に値するなどと論証されていきます。(本人は「太陽のせいだ」と反駁)
こうした裁判の論証の仕方にかなりの違和感を抱かざるを得ませんが、それは置いておくとしても、ムルソーが検事や弁護士の弁論などを自分ごとに思えないことや、お前は罪を犯したと言われたから、自分は罪人なのだろうと考えたり、およそ罪の意識を持たず、従って周囲の人間が求める改悛の心も持ち得ないところなど、ムルソーの不条理さが際立ちます。
しかし、裁判官や検事などの論証もずいぶんと理不尽で、これで死刑が確定してしまう当たりに歴史的・文化的背景の違いを感じます。

近代フランス文学の傑作のひとつに数えられるだけあって、非常に興味深い人物・情景・社会描写が含まれています。アルジェの太陽の光と海に対する著者の愛着が感じられるのも魅力のひとつと言えるでしょう。

残念なのは、いかにもフランス語から翻訳したことがありありと分かる日本語文の不自然さです。
彼は付け加えて、「あなたの振舞には、私にはわかりかねる点が多々あるが、あなたが私を助けて、それをわからせてくれることを、確信しています」といった。
とか、
記者は、私にむかって、ちょいと手をあげて打ちとけた合図をして、われわれを離れて行った。
とか。
今日的な基準では「訳がこなれていない」とボツになること請け合いの文体です。


書評:川端康成著、『雪国』(角川文庫)

2023年08月05日 | 書評―古典

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という出だしで有名な川端康成の『雪国』。正直、タイトルのこの出だししか知らなかったので、期間限定セールになっていたのを機に新仮名遣いの本書を購入し、読んでみました。

情景描写や人物描写に力があり、描かれた状況がくっきりと立ち上がってくるような印象を受けるのはさすが著名な文学作品と感心するあまりですが、ストーリーはというと、ちょっとしたことで知り合った芸者に会いに新潟県の温泉街まで東京から通い、長逗留する無為徒食の男・島村の目線から描かれた芸者・駒子の自分に対する思いや、それにどうとも答えられない自身の情けなさや、雪国へ向かう列車の中で目を惹いた若い娘・葉子に対する曖昧な情など、あまり面白くない、というのが正直な感想です。
島村に対する感想は、「なんだこのふらふらしたどうしようもない男は⁉」です。カッコつけて、斜に構え、親の遺産を食いつぶしながら、少しばかりの書き物をして、自分からは何も積極的に取り組もうともしない、約束も守らないいい加減な男が物珍しい雪国の情景とそれにまつわる女の話を語っただけ。主人公に全く共感できないのは、私が女だからなのでしょうか?

随所に散りばめられた日本語表現だけはすばらしい作品。