長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

「真田丸」主演の堺雅人 視聴率は気にせず「縮こまった芝居になる」

2015年12月14日 16時29分15秒 | 日記








堺雅人、真田丸の視聴率気にせず
「真田丸」主演の堺雅人 視聴率は気にせず「縮こまった芝居になる」



NHK大河ドラマ「真田丸」の初回完成試写会に出席した堺雅人


 NHK大河ドラマ「真田丸」(来年1月10日スタート、日曜後8・00)の初回完成試写会が14日、東京・渋谷の同局で行われ、主演を務める俳優の堺雅人(42)が出席。自身が演じる主人公・真田幸村が言ったとされる言葉を引用しながら「やるからには皆さんに楽しんでいただきたいのですが、あまり損得ばかり考えると、縮こまった、つまらないドラマになってしまうと思います」と視聴率は気にしない意向を示した。

 この日明らかになった今年の「花燃ゆ」全50話の平均視聴率は、大河歴代ワーストタイとなる12・0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。

 制作統括の屋敷陽太郎チーフ・プロデューサーも「1人でも多くの方に見ていただきたい」としながら「数値目標を設定すると現場が“濁る”。よりおもしろいものを作り、記憶に残るドラマにしたい」と視聴率にはとらわれない方針を口にした。

タモリと鶴瓶が大河ドラマとコラボ

タモリ&鶴瓶が堺雅人に直訴「真田丸に出たい!」
(スポーツ報知) 08:10
堺雅人「船出の時がようやく来た」大河ドラマ真田丸
(日刊スポーツ) 15:16

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「花燃ゆ」最終回も奮わず…年間視聴率は大河史上ワーストタイ12・0%

2015年12月14日 14時43分43秒 | 日記






花燃ゆ視聴率 大河ワースト水準
「花燃ゆ」最終回も奮わず…年間視聴率は大河史上ワーストタイ12・0%





 13日に放送を終了した、女優・井上真央主演のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の最終回視聴率が関東地区で12・4%だったことが14日、ビデオリサーチの調べで分かった。全話(50話)平均は、12年「平清盛」の12・0%と並ぶ大河史上ワーストタイの数字となった。

 「花燃ゆ」は、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(井上真央)を主人公に、幕末から明治時代を舞台に描かれたオリジナル作品。視聴者になじみの薄い人物を主人公にした物語に対しては、放送前から不安視する声もあがっていた。

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視聴率の話題

「下町ロケット」羽生と重なるも高視聴率18・2%
(日刊スポーツ) 10:00
「あさが来た」24・6% 高視聴率をキープ
(日刊スポーツ) 10:04



それにしても大河ドラマ終了後、多分、大坂夏の陣で徳川家康本陣に突撃する真田信繁(幸村)が数秒だけの来年の大河ドラマ『真田丸』のPVは拍子抜けした。
三谷幸喜氏は筆が遅いからまだまだ撮影はこれからなのかなあ(笑)
でも面白そう。三谷先生だけに(笑)新選組!を超えそう(笑)

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【まいまい】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」

2015年12月14日 10時35分25秒 | 日記





【まいまい】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」
2015年12月13日
AKBスクープ



1: ダークホース ★@\(^o^)/
大島麻衣が“AKB10周年”イベントで仲川遥香と撮った1枚をInstagramに投稿。
後輩の成長に感慨を感じていたところ「本当にAKB48だったんですね」というコメントが寄せられた。
彼女がAKB48 OGとしてステージに立ったのは久しぶりだったのでそうした声も出ている。

12月6日に開催された『AKB48劇場オープン10年祭』では、卒業したメンバーも集まりステージを務めた。
1期生として活躍した大島麻衣も、前田敦子や板野友美、篠田麻里子、浦野一美など当時のチームAメンバーと13人で『PARTYが始まるよ』をパフォーマンスした。

彼女が7日に『大島麻衣 maimai911 Instagram』で、AKB48時代にともに活動した“はるごん”こと仲川遥香とのツーショットを公開している。
はるごんはジャカルタのJKT48で主要メンバーとして頑張っており、大島も「当時可愛がってた後輩が異国で頑張ってて姉ちゃん嬉しいです」と感慨深げだ。

フォロワーから
「まいまいとはるごん、だいすきなふたり」
「まいまいも出演!?」
「いっそこれを機にAKBカムバックしちゃえw」などのコメントがあるなか、
「本当にAKB48だったんですね。設楽さんの女だと思ってました」という声も見受けられた。
これは冗談と思われるが、タレント・大島麻衣として人気が定着しただけに、彼女がAKB48だったことを知らない人もいるかもしれない。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151211/Techinsight_20151211_166953.html

元AKB48 まいまいとはるごん 大島麻衣 Instagramより
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2: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
元AKBとしては成功だよね。
普通にひとりでやれてて。

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク直前に抜けた人

8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
この人可愛いわ

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まいまいがこんなにカワイイって知ってるの?
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10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今や消したい過去なんだろうな

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
こういう子が抜けるからレベルが下がる

27: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク前に卒業して、当時は辞め時を間違えたなんて言われてたもんだが、
ピンタレントとしての今の活躍ぶりを見れば絶妙のタイミングだったとも言える
前田とか大島優子辺りと比べるとAKB色がそこまで無いのは大きい

33: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
何でAVに転身した人たちを全員無視してるんだろう

37: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
AKBなんか全く知らん初期の頃この子とこじはるだけは目立って可愛いから認識出来てた

43: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク寸前に抜けて失敗したかと思いきや卒業メンバーで唯一と言っていいレベルには成功してる

44: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
秋元とのつながりはキープしておきたいよな

45: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
こいつが辞めてからAKBブレイクしたんだよな

57: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
全然共演しないからNGだと思ってた

大島麻衣写真集『勉強させていただきました!』
大島麻衣写真集『勉強させていただきました!』


引用元: ・【芸能】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」の声

タグ :AKB脱退復帰

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石田三成伝 打倒徳川家康! 風と共に殉死するとも 石田三成<戦国群雄割拠編>6

2015年12月14日 09時12分40秒 | 日記









  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をふった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘助なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       

  

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高橋みなみ、10代で自分を“凡人”と認めた強さ――「だからAKB48に10年いられたんです」

2015年12月13日 12時42分47秒 | 日記




高橋みなみ、10代で自分を“凡人”と認めた強さ――「だからAKB48に10年いられたんです」






 AKB48の小さな巨人がついに卒業する。“たかみな”こと高橋みなみ。当初は違和感すらあった「総監督」という役割を世に知らしめ、リーダーとしてその重要さを浸透させた。だが、彼女自身は最新著作『リーダー論』にて、自分のことを「凡人」と言い切っている。国民的アイドルグループのフロントマンとして第一線を駆け抜けてきた彼女が、決して自虐的にではなく、なにゆえそう口にしたのか? 卒業を控えた今だからこそ聞けた言葉には、10年間のわだちが詰まっていた。

――『リーダー論』は泣ける新書でした。高橋さんが「凡人だ」と言い切り、「だから頑張るしかない」とのドキュメント性が感動的で。

高橋:ありがとうございます。

――凡人ですか?

高橋:凡人ですね、本当に(笑)。今までAKB48を卒業していったメンバーをたくさん見てきましたけど、彼女たちには“才”があるなぁと痛感してきましたから。前田敦子然り、大島優子然り。前田が卒業した時に、自分は彼女と同期で同い年だったので「あ、私も卒業を考えなきゃ」と思ったんですね。でも、その時期にすぐ決断できなかったのは、自分が凡人だったからです。前田は女優の道に進みたいと言う。じゃあ私には何があるんだろ、なんにもないじゃんって。そもそも、10代のわりと早い時期に「私は前田敦子にはなれない」と自覚していました。

――10代でのその自覚、切なくなかったですか?

高橋:いやぁ、相当切なかったですよ! 私、インディーズ1枚目のシングル「桜の花びらたち」でセンターだったんですね。秋葉原の劇場の7人のお客さんから始まって、少しずつファンの方が増えていったんですけど、ゆっくりと人気の差も出てくる。ポジション的には私と前田が恵まれていたんですが、彼女のほうが人気も出てきて、それを反映するように次第にセンターは前田敦子というイメージが固まっていって。当時15歳か16歳だったと思うんですけど、そんな幼い年齢でも「あ、私はもう二度とセンターには立てない」とわかるんです。その現実を受け止めるのは……ちょっと厳しかった。

◆アイドルを捨ててキャプテンを頑張ろうと

――アイドルという華やかな世界で、10代の自分を凡人と認識するのは、かなり難しいことではと想像します。

高橋:たしかに、凡人さを認められない人もいっぱいいますよね。みんなどこかで「自分は凡人だ」と感じてはいても、認めたくはないじゃないですか。でも、現実を受け止めて「凡人なので頑張ってるんです。だから10年いられたんです」と言い切れるコのほうが強いんじゃないかなぁって、私は思います。だから、後輩の指原(莉乃)は強い。かわいらしさでいけるタイプじゃないと自覚して「ギリギリの言葉だって言いますよ? それが指原です」って自分の武器を見つけて。あの人はAKB48の革命児です。

――リーダーという役割に、快感はあるものですか?

高橋:やっぱり女のコのグループはいろいろあるんです。気分の波が激しいし、集合時間などもぐずぐずになったりするから、かつては語気を荒らげて「やる気がないなら帰れよ!」とか言ってしまうこともありました。そうしないと本当にまとまらなかった。私も未熟でしたが、そうやって必死で引っ張っている姿からもおわかりかと思いますが快感という言葉とは全然違いますね。そんなに楽なものではないです、AKB48というグループをまとめるのは。だって私、キャプテンになった時点で「アイドルは捨てなきゃ」と、まず決めましたから。

――どういうことでしょう?

高橋:アイドルにはかわいらしさや応援したくなるような弱さが必要ですよね。でも、リーダーってかわいげがないし、強い人間だと思われてしまう。それなら自分はアイドルは捨ててキャプテンとして頑張ろうと思ったんです。ただ、AKB48全体としてはアイドルだから、割り切ったつもりでも、どうしたって矛盾があって。だから、19歳の時に倒れてしまったんだと思います。劇場公演の出番が終わって「ありがとうございました!」と、はけた瞬間に倒れて気を失って、2日間入院したのかなぁ。過労と診断されましたけど、アイドルとリーダーの矛盾からのストレスもあった気がする。

――病室で何を思いましたか?

高橋:あぁ、自分の代わりっているんだなぁって。

――19歳でその自覚をしてしまうって、切ないです。

高橋:見ちゃったんです、自分が出ているはずのテレビ番組を、病室で。後輩が生放送の番組を頑張ってくれていて……。でも、今では笑い話ですよ。

――快感はなくストレスはある。それでもなぜリーダーを続けてこられたのでしょう?

高橋:“誰かが絶対に見てくれている”というありがたさ。これに尽きます。もしかしたら、きれいごとに感じる方がいるかもしれないですけど、本当にそれしかなかった。たとえば、前田や大島がソロのインタビューで「いや、たかみながいなかったら今のAKB48はないです」と本気で言ってくれていたり。たとえば、19歳で倒れた時も(篠田)麻里子さまから「今はしっかり休んで。でも抱え込みすぎだからね」とメールが届いたり。たとえば、ファンの方やスタッフさんやメンバーからの「ありがとう」という言葉。そういういっぱいの“たとえば”のおかげで、ライフポイントが回復するというか、やっててよかったなぁと思えるんです。あぁ、ちゃんと見てくれてる人がいるんだなぁって。

※このインタビューは週刊SPA!12/15号のインタビュー連載「エッジな人々」から一部抜粋したものです


高橋みなみが「自分は凡人」と。確かにたかみなに作詞作曲や脚本・演技・振り付けとか無理っぽい(笑)だが、10年間もAKBを牽引して総監督としてまとめてきたのも才能なんだよ!彼女がいなければAKBは成功しなかった。途中で空中分解していた。卒業後は事務方にまわるという聡明さも流石!臥竜

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日テレドラマ『掟上今日子の備忘録』完!山崎賢人土屋太鳳!新垣結衣岡田将生熱愛結婚報道近し!

2015年12月13日 11時41分15秒 | 日記









日テレドラマ『掟上今日子の備忘録』がおわった。


ガッキー美人!


山崎賢人と土屋太鳳もベストカップルだが、


新垣結衣と岡田将生も美男美女でお似合いだ。


週刊誌はふたりをマークしていないのか、

熱愛の話題やスクープがないが、逆に不思議だ。

ポスト杏・東出である。


熱愛結婚報道も近し!(笑)臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信  

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【これはアウト】ミスチルの名曲パクられた?作詞家に盗作疑惑「まるで替え歌」

2015年12月13日 09時44分11秒 | 日記









【これはアウト】ミスチルの名曲パクられた?作詞家に盗作疑惑「まるで替え歌」
2015年12月12日
トラブル







1: 三毛猫 φ ★@\(^o^)/
Mr.Childrenの楽曲「抱きしめたい」の歌詞にそっくりだとして、歌手の平浩二が歌う「ぬくもり」に盗作疑惑が持ち上がっている。

「抱きしめたい」は1992年にリリースされたミスチルのセカンドシングル。歌詞は桜井和寿によるもので、歌い出しは「出会った日と同じように 霧雨けむる静かな夜 目を閉じれば浮かんでくる あの日のままの二人」と始まる。

 一方の「ぬくもり」は今年5月に発売されたシングル「愛・佐世保」のカップリング曲。
作詞のクレジットは「沢久美」となっている。この曲の歌詞の出だしは「出会った日と同じように 霧雨の降るかがやく夜 目を閉じれば浮かんでくる あの日のままの二人」で、「抱きしめたい」とほぼ同じだ。

 酷似しているのはこの箇所だけでなく、まるで書き写したかと思えるほど、似通った歌詞となっている。

 この2つの歌詞の類似がネット上で話題となり、
「そのまんまなんだけどw」
「何故バレないと思ったw」
「パクリっていうか替え歌レベル。 よく出せたな」
「アウトやねwww」との声が多数あがっている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151211-00000022-rbb-ent

maxresdefault











3: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
インスパイアだろ

5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
出会った日と同じように 霧雨けむる静かな夜 目を閉じれば浮かんでくる 
あの日のままの二人

出会った日と同じように 霧雨の降るかがやく夜 目を閉じれば浮かんでくる 
あの日のままの二人


これはAUTO

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
むしろなぜ周りは止めない
確信犯だろ

10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
パクるにしてもやりすぎだろ

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ナイス売名行為

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
カップリング曲ならバレないと思ったのかwwww

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
リスペクトからのオマージュ

21: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
おい、詩を見てきたけどな
「抱きしめたい」のメロディに完璧に乗るじゃねぇか
パクリとかの域を超越してるぞ
沢久美って作詞家何者だよ

23: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
no title

これ見てもパクってないって言えるの?

38: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
作詞は桜井の別名義かな

REFLECTION{Live&Film} [ Mr.Children ]
REFLECTION{Live&Film} [ Mr.Children ]

引用元: ・【音楽】ミスチルの名曲パクられた?作詞家に盗作疑惑

タグ :ミスターチルドレン歌手盗作疑惑

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【AKB】高橋みなみ、卒業後は「すごく明るい未来じゃないとわかってる」……収入面も不安

2015年12月12日 15時26分24秒 | 日記

【AKB】高橋みなみ、卒業後は「すごく明るい未来じゃないとわかってる」……収入面も不安
2015年12月10日
AKB

1: Egg ★@\(^o^)/
来年3月にグループを卒業するAKB48・高橋みなみが、卒業後の活動や収入への不安を明かした。

高橋は12月7日深夜放送のTBS系「Momm!!」で、「自分でやりたいことができなくなってきているのと、10年AKB48をやってきたっていう自分の中の節目ができた」と卒業を決断した理由を説明し、卒業後はソロ歌手として活動したいという展望を明かした。高橋は「不安も正直あります。すごく明るい未来じゃないっていうのもわかってる。でもやってみたい」と語った。

タレントの国生さゆりは、アイドルの先輩である自身の実体験をもとに、卒業後は収入や生活が不安定になるとして、「仕事がなくなったら0円になるんだよ」と忠告する。
さすがに収入面については高橋も本当に不安なようで、「お金のことはすごく心配。来年、今年のぶんの税金がとられる。だから今年本当に節制してるんです」と告白した。

トレンドニュース(GYAO)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151208-00010006-trendnewsn-ent

d3ae7196-s











4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
もう十分稼いだだろ

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
安心してください
秋元グループも終わってますから

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
歌手活動は無理っぽいけどなあ

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
よく分かってんな
なんか関心した

13: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
MUTEKI一択?

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
確かに卒業後の篠田麻里子見たら厳しい現実だわな

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
努力は必ず報われる

18: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
AKBの看板が外れると、
小島瑠璃子辺りとの戦いになる。

19: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
引退すりゃいいんじゃねえの?

26: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
裏方に回れ

唇にBe My Baby Type A 初回限定盤
唇にBe My Baby Type A 初回限定盤


引用元: ・【芸能】AKB48・高橋みなみ、卒業後は「すごく明るい未来じゃないとわかってる」……収入面も不安

タグ :AKB高橋みなみ卒業お金

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DVD映画『桜田門外の変』(2010年)観賞。水戸浪士が井伊大老を暗殺せねば維新も戊辰も戦争もなかった!

2015年12月12日 14時11分09秒 | 日記









DVD映画『桜田門外の変』(2010年)を観た。


よく歴史家が「『寺田屋事変』で


長州藩士が新選組に殺されて維新が数年遅れた」というが、


水戸浪士達が井伊大老を暗殺しなければ、


戊辰戦争も明治維新もいらなくなり


もっとちゃんとした近代化や


太平洋戦争までの軍国主義もなかったのではないか?臥竜



まあ、今更で、過去には一秒たりとも戻れないが。

緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜   緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

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【オワコン宇多田ヒカル】宇多田ヒカル側が「公式見解」来春アルバムリリース報道を否定

2015年12月10日 14時21分26秒 | 日記










宇多田側、公式サイトで報道否定
宇多田ヒカル側が「公式見解」来春アルバムリリース報道を否定





 シンガー・ソングライターの宇多田ヒカル(32)が来春に音楽活動を再開すると一部で報じられたことを受け、宇多田サイドは10日、公式サイトで「公式見解」を発表。ユニバーサルミュージック合同会社の沖田英宣氏の名で「来春にニューアルバムがリリースされるという報道がありましたが、そのような事実はございません」とコメントし、報道を否定した。

 リリースは「先日の報道について」のタイトルで発表され「先日一部メディアより来春にニューアルバムがリリースされるという報道がありましたが、そのような事実はございません」と来春のアルバム発売を否定。

続きを読む
「制作は人間活動中もずっと続けています」と父の照實氏

宇多田照實氏、ヒカルの活動再開は「ヒカルのみぞ知る」 休止中も楽曲制作
(デイリースポーツ) 12:10
宇多田ヒカル「息子の屁がまじで臭い」育児に懸命
(日刊スポーツ) 12月09日 19:33

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【女子アナ】NHK山形号泣お天気お姉さん「スピード復帰」のウラ

2015年12月10日 12時15分33秒 | 日記







【女子アナ】NHK山形号泣お天気お姉さん「スピード復帰」のウラ
2015年12月09日
放送事故

1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
まさかのブレーク?“号泣お天気お姉さん”が職場復帰した。
1日放送のNHK山形放送局のローカル番組「ニュースやまがた6時」のお天気コーナーで突然泣きだした気象予報士の岡田みはる(39)が7日、出演を再開した。
降板もウワサされたが、まさかのスピード復帰。その裏にはNHKトップ・籾井勝人会長(72)の“鶴の一声”があった――。

7日、登場した岡田は冒頭「このたびはご心配をおかけし、大変申し訳ありませんでした」と謝罪。
続けて「今日から再び気象情報を担当させていただきます。分かりやすく、役に立つ山形県の気象情報をしっかりとお送りしてまいります。引き続きよろしくお願いいたします」と語った。これといったミスはなく、滞りなく出演を終えた。

岡田は1日のお天気コーナーで「現在の鶴岡市の様子を見てみましょう…」と紹介したが、画面に映ったのは新庄市だったため動揺。

うつむいてすすり泣いたため、視聴者は仰天し予報どころではなかった。

同局は泣いた理由について「当初想定していた中継画像が違ったため混乱。
それでうまくコメントを伝えられなかった」と説明したが、ネット上では「彼氏と別れた」「契約を切られた」「イジメに遭っていた」など、臆測を呼んでいた。

とはいえ、アナウンサーや気象予報士が感情的になるのはご法度。まして公共放送のNHKは特に厳しい。

それこそ生放送中に号泣すれば「ひと昔前なら即降板です」(テレビ関係者)。

それがまさかの“スピード復帰”を果たした背景には、NHKトップの“籾井発言”がある。

籾井会長は3日の定例会見でこの件について触れ「NHKのテレビに出演して天気予報をやるからには、しっかりとやってもらいたいのが大原則。
途中で泣いて中断したということは非常に残念です」とダメ出しするも「ただ、人間ですから、間違ったりもする。
某アナウンサーのように、まつげが落ちても平気でそれをカバーするぐらいの度量があれば、うまくいけると思うのですが。
まだ若い人ですので、そういうことに慣れていなかったのでしょう」と、NHKの有働由美子アナ(46)の例を引き合いに出し、岡田を擁護した。

「籾井氏自らが同情している以上、降板はおろか、復帰させるしかありませんよ」とはNHK関係者。世論の後押しもあった。
フジテレビ系「とくダネ!」の小倉智昭キャスター(68)は「映像を全部見たけど、とってもすてきな気象予報士」とコメント。
日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」の宮根誠司キャスター(52)は「人間っぽくて良い」と話し、これをネタに番組を「さらに盛り上げることができる」と語った。

6日放送の「ワイドナショー」(フジ系)では、松本人志(52)が「民放なら、逆におもしろくしようかってできるけど、NHKだからなかなか難しいところ。どこからか引き上げがあるんじゃないですか?」と今後のブレークを期待した。

前出のテレビ関係者は「今回の件で彼女の存在は一躍全国区になった。
すでに雑誌社からの取材オファーは殺到。テレビ朝日系の『しくじり先生』も触手を伸ばしているようですよ」と推察する。

まさかのキャリアアップということか…。

http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/481308/

24f9ca22-s










7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
>まだ若い人ですので、そういうことに慣れていなかったのでしょう

>岡田みはる(39)

若い?は?

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
39歳でお姉さんは間違ってる
お天気おばさんだ

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
結構歳行ってたんだな…

13: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
岡村真美子は今どこで何やってるのかな

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
よかった…このまま消えちゃうのかなって怖かった…

18: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
復帰しなきゃしないで あーだこーだ
復帰したらしたで あーだこーだ

20: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
なんか真相は闇の中だな

27: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
お天気熟女

37: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
来年40のおばさんだしこれからブレイクってのもな

48: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
でも契約の更新はしないんでしょう。

63: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
大人の事情によりこの件についての主張は飲み込む形に決着ついたと思われ

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【AKB48】劇場オープン10年祭で古参ヲタに配られた記念品の数々が羨ましいヲタク祭り僕は違う(笑)

2015年12月09日 15時04分42秒 | 日記



【AKB48】劇場オープン10年祭で古参ヲタに配られた記念品の数々が羨ましい
2015/12/08 10:03 カテゴリ:AKB48 その他 3コメント



1: 47の素敵な(SB-iPhone)@\(^o^)/ 2015/12/07(月) 09:30:52.89 ID:jlK4TVND0.net
羨ましい…
【AKB48】劇場オープン10年祭で古参ヲタに配られた記念品の数々が羨ましい





3: 47の素敵な(SB-iPhone)@\(^o^)/ 2015/12/07(月) 09:32:00.30 ID:jlK4TVND0.net
小嶋 陽菜 @kojiharunyan

10周年って全然ピンと来てなかったけど、今日のイベントで久しぶりに会う、初期の昔のヲタのみんなの顔を見て、
はじめて10年前の色んな思い出が蘇った笑。
心の底から楽しかった!もっとひとりひとりヲタいじりしたかった
もっと初期メンのみんなと昔話したかったまた会えるかな。

8: 47の素敵な(群馬県)@\(^o^)/ (ワッチョイ 2b36-tK2W) 2015/12/07(月) 09:40:58.01 ID:kF16dX8R0.net
>>3
ヲタいうなw

30: 47の素敵な(りんかい線)@\(^o^)/ (ワッチョイW 2b1e-p92M) 2015/12/07(月) 10:19:11.49 ID:gmls7AJP0.net
>>8
深い奴等には敬意を込めてヲタと呼ぶんだろう

9: 47の素敵な(茸)@\(^o^)/ (スプー Sdf1-zv0u) 2015/12/07(月) 09:41:25.82 ID:nGFtbTZld.net
これ貰ったヲタは自分達は特別感がすごいだろうな

10: 47の素敵な(茸)@\(^o^)/ (スプー Sde1-Hcoe) 2015/12/07(月) 09:43:53.33 ID:G8KByS3Md.net
タオルの右下の番号全部違うからある意味この世に一枚しかないタオルなんだよね

13: 47の素敵な(関東・甲信越)@\(^o^)/ (ガラプー KK7a-Fmz3) 2015/12/07(月) 09:46:12.87 ID:pWQhFfA3K.net
>>10
俺244番

12: 47の素敵な(福岡県)@\(^o^)/ (ワッチョイ 9aa7-1f0+) 2015/12/07(月) 09:45:57.63 ID:yunOcwWP0.net
こういうののありがたみって金使ってないとわからないんだろうな
1円も使ってない俺から見るとやっぱりただのゴミだもん

19: 47の素敵な(禿)@\(^o^)/ (オッペケ Sr70-p92M) 2015/12/07(月) 09:55:35.78 ID:SnSC5JLNr.net
今のヲタのが金使ってると思うがね何人今も応援してる事やら

22: 47の素敵な(東京都)@\(^o^)/ (ワッチョイ 1fa3-tK2W) 2015/12/07(月) 09:59:14.64 ID:ghAdWTUD0.net
>>19
無名でこの先どうなるか分からん地下アイドル状態のときに金使ってくれてた人の方がエライよ
俺らはakbが売れてからの安心感込みの後乗りだもん

25: 47の素敵な(茸)@\(^o^)/ (スプー Sdf1-dSeN) 2015/12/07(月) 10:10:11.30 ID:hLs9xZv4d.net
>>19
今は握手券と投票券くらいだけど
ガチャの特典とかは単価が高かったよ

21: 47の素敵な(新疆ウイグル自治区)@\(^o^)/ (フリッテル MM32-TkU5) 2015/12/07(月) 09:58:38.85 ID:KPRWSOZtM.net
当時五万?で買ったのがすごいわ

24: 47の素敵な(関東・甲信越)@\(^o^)/ (ガラプー KKf4-Fmz3) 2015/12/07(月) 10:02:48.83 ID:pWQhFfA3K.net
>>21
写メ会もない時代で特典のツーショット撮影目当てで買ったからチケット自体は完全におまけ扱いだった

33: 47の素敵な(庭)@\(^o^)/ (アウアウ Sa58-PMkI) 2015/12/07(月) 10:26:41.03 ID:QUTdsvaQa.net
古参の為のイベントだし区別化するのはわかるけど、ここまでに明らさまに待遇変えるくらいなら最初からアルバム購入者なんて入れなきゃ良いのに

35: 47の素敵な(東京都)@\(^o^)/ (ワッチョイW 2b1e-p92M) 2015/12/07(月) 10:38:52.41 ID:SnBFah0w0.net
>>33
入れない人らが配信しろよって言うぐらい観に行きたい人が多いんだからそれはないわ

36: 47の素敵な(茸)@\(^o^)/ (スプー Sdf1-p92M) 2015/12/07(月) 10:39:18.76 ID:dIrYjTPed.net
>>33
ゆとり脳の奴らが古参優遇だーとか差別だーとかうるさいからだろ
そもそも古参がおいしいイベなのは分かりきってるのに新規で行きたいと思うの奴らがわからん

40: 47の素敵な(空)@\(^o^)/ (アークセー Sx70-3qBK) 2015/12/07(月) 10:46:55.93 ID:XRTKhUfHx.net
ちなみにベストアルバム組はこのお土産もらえませんでしたので
古参のみ好きなメンバーと握手してこれを手渡しされた

41: 47の素敵な(東京都)@\(^o^)/ (ワッチョイW da1e-PMkI) 2015/12/07(月) 10:59:24.46 ID:3ckG2wFw0.net
むしろ古参優遇されてていいイベントだと思ったけど

43: 47の素敵な(関東・甲信越)@\(^o^)/ (ガラプー KKf4-CsJ4) 2015/12/07(月) 11:01:21.43 ID:Six1ell5K.net
古参思いっきり贔屓でええよ

44: 47の素敵な(SB-iPhone)@\(^o^)/ (ササクッテロ Sp70-PMkI) 2015/12/07(月) 11:02:41.21 ID:HcjvESxAp.net
5万で

写真集
しょぼいグッズ
しょぼいライブ
集合写真
握手

って事考えたら物凄いぼったくりだろw

45: 47の素敵な(dion軍)@\(^o^)/ (ワッチョイW b82b-p92M) 2015/12/07(月) 11:05:21.37 ID:FC9qwg0p0.net
これ売った当初は詐欺だなんだのすげー騒がれてたもんな
正直AKBがこんな大きくなるなんて買ったヲタですら思ってなかっただろ

65: 47の素敵な(神奈川県)@\(^o^)/ (ワッチョイW 9498-PMkI) 2015/12/07(月) 13:59:55.13 ID:z/Z6j/AY0.net
>>45
こんなに大きくどころか、こんなに続くなんてヲタも非ヲタもメンバーも、誰も思ってなかったんじゃない?

47: 47の素敵な(内モンゴル自治区)@\(^o^)/ (ガラプー KK7a-Xxft) 2015/12/07(月) 11:10:20.49 ID:Jfv5lWGMK.net
モノと金銭が釣り合ってるかと言われれば人それぞれの感覚だろうけど、古参の名誉とすれば金銭に代えがたいものがあるだろう
アルバム購入者を参加させて待遇に差をつけることでもより特別感が出た
良いイベントだったと思うよ

引用元: http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/akb/1449448252/

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石田三成伝 打倒徳川家康! 風と共に殉死するとも 石田三成<戦国群雄割拠編>3

2015年12月09日 07時33分04秒 | 日記








 
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされ、大谷刑部(ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。
生涯[編集]出自[編集]永禄元年(1558年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。
華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。いずれにせよ、不明な点が多く大名となるには難しい家柄である。
『兼見卿記』によると母は秀吉の正室の高台院の侍女であった東殿であるとされるが、出自は不詳である。兄弟姉妹が存在したようで、栗山林斉と祐玄の2人の甥が記録に見える。母が高台院の侍女であったことを根拠に豊臣秀吉の隠し子とする説もあるが、これは全くの俗説である。
 大谷吉継は大谷善継という本名で、人生は1558年(永禄2年)から1600年(慶長5年10月21日)までの生涯である。享年43歳……
 通称は紀之介、大谷善継。幼名は桂松。名は慶松、官位は刑部少輔。越前敦賀城主である。天下分け目の関ヶ原の乱で自刃となっている。
 自刃で、そのあといわゆる『首塚』に葬られた。小早川秀秋の裏切りにより石田三成の豊臣西軍が大敗北、自刃となっている。名字は大谷善継ともいう。養子にはいって大谷姓になり、刑部少輔と改める。
 盟友の石田三成と共に同じく羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の家臣となり指導を受けた。大谷吉継の初めての伝記を示したのは死後まもなく弥之助という文筆家で「大谷吉継公伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ元・家臣たちが「何だ! こんなものを公の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・大谷吉継」というのを江戸時代初期にものし、その伝記には吉継の元・家臣らが名を寄せ寄稿し「大谷吉継の有名なエピソード」も載っている。吉継6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう大谷吉継の歴史的意味と存在であるが、大谷吉継こと大谷善継は「大名」である前に「乱世の設計者」である。当時は善継の思想は「危険思想」とされ、秀吉も徳川家康を恐れて彼を幽閉したほどだ。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」善継は貪欲に学んでいく。
そして、この物語「打倒家康!石田三成」の主人公の親友・大谷刑部少輔吉継(おおたに・ぎょうぶしょうゆう・よしつぐ)の13歳年下に鈴という妹がいた。ちなみに兄の善継に秀吉につくようにアドバイスしたのも鈴、「善継にいやん、秀吉公に支えるのはどげんと?」「秀吉公?わしが?」「そうや。吉にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって家臣たちを集め「皆さん兄の下で働きませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも鈴、「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの越前・近江、日本国を変える人材になるのです」。姉の陽の前に三成を好きになり「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む三成を励まし、のちに姉陽死後、三成と再婚し、最後は聚楽第の花となるのも鈴、である。
  善継は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時都で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 大谷善継は「大名」「城主」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、それだけである。この後、日本人は「南蛮人渡来」で覚醒することになる。だが、大谷善継こと吉継は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 善継はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「乱世終結」「太閤検地」「官僚政策」「五大老五奉行政策」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。石田三成の「関ヶ原合戦」は只の馬鹿、であったが、たった一日で豊臣西軍は敗北した。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば朝鮮国(現在の韓国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な戦であり、朝鮮戦争であり、関ヶ原であるわけだ。すべては「植民地化への焦り」からの劇場型政変であったのだ。
そんな日本で、戦国乱世にこの物語の主人公の大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は生まれた。あまり彼の歴史上の資料やハッキリとした似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、色男みたいだ。いや、そうであってほしい。
 であるならば十三歳歳の離れた吉継の実妹は美貌の人物の筈。「鈴よ、お前はどう生きる?」吉(よし)にい、こと吉継は妹に問う。 
この物語では、家の強い絆と、吉継の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!

 話しを戻す。
 越前敦賀藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に城主・大谷善継は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。鈴にとって兵学指南役で領民からも一目置かれているという兄・大谷善継(吉継)の存在は誇らしいものであったらしい。あるとき浪人中だった善継は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」善継は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで善継は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら善継はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 善継は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると善継は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、善継は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い大谷吉継でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  善継は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 善継の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、善継は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。善継は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。善継は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  善継は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により善継の名声は世に知られるようになっていく。善継はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 鈴は幼少の頃より、兄・浪人の善継に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。大谷善継(吉継)は天才的な思想家であった。すでに十代である藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして鈴なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。というか架空の人物である。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。大谷善継のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、吉にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」鈴が笑う。と善継は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の鈴は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ戦国乱世の混迷期である。当然、当時の人は「戦国時代」等と思う訳はない。足利幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「戦国時代」「群雄割拠」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「戦国時代」等といっていない。「乱世」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が確立することによって「乱世」が「終結」した訳である。
 あるとき大谷善継は家臣の宮部平蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。善継は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「鈴よ、これがなんかわかるとか?」善継は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いオランダやイスパニアもポルトガルも日本と同じ小さい国やと。何故にオランダ……イスパニアは強いかわかると?」「わからん。何故イスパニアは強いと?」
 善継はにやりと言った。「経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?吉にいやん」「足利幕府や信長や信玄や長尾景虎や毛利は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。だが善継は、このままでいいのか?、と思っていた。「元寇の乱を忘れたのか?」
 だが、善継も「南蛮船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、「戦国時代」がはじまる。
 善継は「世界をみたい! 外国の南蛮船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「せわぁない」と笑った。
 善継は風呂につかった。五衛門風呂である。だが、南蛮船で外国に行ける時代ではなかった。信長の時代、日本からオランダに片道で二年かかった。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 善継は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。善継が蘭学を習ったのは都の馬医者である。
 大谷善継は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして善継(吉継)は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の鈴が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部平蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、大谷善継は塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か?自分の為たい!自分を、己を、人間を磨くためばい!」
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が大谷善継の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。善継はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 善継の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
やがて織田信長の家臣で猿こと羽柴秀吉に認められ、家臣となるのである。
「“兵学”の大谷(善継)、“算盤”の石田(左吉・三成)がいれば羽柴家も安泰じゃ」
 のちの鈴の二番目の旦那さんとなる小田村が、鈴の姉の陽と結婚したのはこの頃である。鈴も兄である大谷善継(吉継)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の鈴は白無垢の姉に、
「わあ、陽姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。吉継は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も大谷善継は色男である。それに比べれば石田三成は馬顔である。
 当然ながら、というか鈴は三成に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、三成は鈴との縁談を一度断っている。何故なら三成は面食いで、鈴は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば鈴は初恋をする訳である。それは兄・大谷善継の親友の石田左吉(のちの三成)とである。ふたりはその心の距離を縮めていく。最初、鈴は尊兄・大谷吉継の家臣の小田村に恋い焦がれていた。しかし、あえなく失恋。小田村が鈴の姉・陽と祝言をあげたためだ。
そして石田三成との運命。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの三成と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、鈴は三成にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった鈴が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは石田三成にきく以外に方法はない。石田三成は神社でおみくじを引けば大凶ばかりでる“貧乏・親の借金・低い身分”の不幸人・苦労人であった。
しかし、鈴が励ました。
「大凶がでても何度でも何回でも引けば必ず吉が出ます。人生も同じです!おみくじ箱には大吉も必ずはいってるんじゃけえ。さあ、何度もおみくじをひきなされ!」
「あんたになにがわかるんや?!おみくじだけじゃない!僕はいつも人生で不幸ばかりする!貧乏で、運が悪い、不幸な星の生まれなんや、僕は!」
癇癪を起こす三成に鈴は「いいや!あなたは才能がある!私にはわかります。きっとこの大和を、日本国を回天させる人物やと思うとうとですよ、あたしは!」
「せやけど、鈴さんの尊兄・大谷善継に「出て来い国賊・大谷善継!この三成が斬り捨ててやる!」と抜刀して騒動を起こしたのはただならぬわしですよ?」
「それは吉にい、が国禁を犯したための怒り……日本人なら当然やわ」
「日本人?」
「そうや!日本人や!毛利でも徳川でも上杉でも織田でもない、これからは日本です!」
こうして鈴と三成の中は急接近してゆく。そしていずれ夫婦に、そして悲劇の別れ、が待ち受けているのだ。大谷の鈴とはのちのお袖のことである。
 鈴や大谷善継や陽の母親・瀧子(滝)が病気になり病床の身になる。「鈴や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする鈴に諭すようにいった。
 大谷家の邸宅の近くに吉田家と入江家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが鈴の幼馴染のふさやすみらの御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、鈴はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 鈴はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた善継が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを鈴はサボるようになる。
「吉にい、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?殿」
 あっという間に弟子たちが「善継帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、わしが見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど殿はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」大谷善継は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。奥州や越後、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで殿の言葉をまっていた。大谷善継は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ天下泰平なんだと、そう思っとうと」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「大名体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで天下泰平ですとか?殿」
 さすがは坂下である。一を知って千を知る天才だ。杉森も「その為に殿の策があると?」と鋭い。
「そうじゃ、坂下、杉森。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく敦賀の人々は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 大事件がおこった。
 ………「南蛮船来航」である。
 ポルトガルからの使者であった。いわゆるルイス・フロイスやイエズス会の連中である。
まあ、キリスト教の布教の為にきたのだが、織田信長だけは寛容であったが、ポルトガルによる「文明開化もどき」は日本国の脆弱性を知らしめる機会となってしまった。
 司令官の提督は、ポルトガルから日本君主に開国の親書を携えていた。
 足利幕府は直ちに返答することはないと断ったが、南蛮人は来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。そのさい種子島で鉄砲が伝来した。
 足利幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、善継が提言した『海防愚存書』が織田信長の重鎮の目にとまった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 
善継が織田家に登用されたのは、それからすぐの正月十五日だった。
 その前年はポルトガルとの和親条約が終結され、外国の圧力は朝廷や帝や足利幕府を震撼させていた。善継は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。大谷善継は大坂防衛役に就任した。信長が大坂や伊勢を重用視した為である。
 信長はポルトガルから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、信長は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの船であったという。

大谷善継(吉継)は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で南蛮船まで近付き、「乗せてください」とポルトガル語でいった。しかし、南蛮人たちの答えは「ノン(お断りします)」だった。
 この噂が広まり、たちまち善継は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
だが、大谷善継は密航に失敗したものの南蛮船に載れなかった訳でもない。善継が密航しようとした南蛮船はフロイスらの南蛮船であったというから驚く。そこで甲板上で善継と家臣の金子は“イエズス会の日本人信徒より書いてもらったポルトガル文の密航の嘆願書”を見せて南蛮人船員たちに渡した。だが、それでも答えは「ノン」だったのだ。そして、その行動ののちにフロイスは「あの日本人の知識への貪欲さにはいささか驚いた。ああした日本人が大半になれば日本国は間違いなく大国になれるであろう」と感想を述べている。
とにかく善継と家臣の金子は囹圄のひととなった。その報はすぐに越前敦賀の浪人大谷家にも伝えられた。父親らが畑を耕していると飛脚が文をもってきた。というか、次男が急いでやってきて父・母らにしらせた。
「な、なにっ?!善継が南蛮船で密航しようとして信長に捕えられた」一同は驚愕するしかない。妹の鈴も驚愕のあまりへたり込んでしまった。「……何でや?吉にい…」
当時の日本国は出島以外では南蛮人と関わることも外国に行くことも禁止されていた。
大谷善継は武士だから“侍用の監獄”『野山獄(ひとりに一部屋)』にいれられたが、家臣の金子は“足軽・百姓用の監獄”『岩倉獄(雑居房)』にいれられた。金子はそこで獄死してしまう。大谷善継は『野山獄』で二十一回孟子(二十一回戦うひと)と称して「孟子」の講義を始める。いかつい罪人や牢獄の美女・久子らも大谷善継(吉継)を先生と呼んで慕うようになる。そののち獄を出て蟄居中に開いた私塾が「大谷塾」である。
善継は『足利幕府は天下の賊(ぞく・悪人)』と建白書をしたためる。また、幕府の老中らを暗殺するべきとも。当然、幕府も足利義昭もカンカンになって怒った。織田家の重臣・柴田勝家(しばた・かついえ)や明智光秀(あけち・みつひで)も大谷善継の罪を主・織田信長公にあげつらった。こうして善継は遺言書『溜魂録(志をしたためた書)』を書いてのち処刑される運命となる。だが、羽柴秀吉が命を賭けて大谷善継の命を守った。

 大谷善継はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは羽柴秀吉(猿)であった。公は大谷善継と石田三成の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても大谷・石田には敵わない」と笑った。なにしろこの大谷善継という男は十一歳のときにはもう城主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが善継主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。善継主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」


 話を過去に戻す。
  木下藤吉郎という怪しげな奴が織田家に入ったのはこの時期である。柴田勝家も前田利家もこの浪人に対面して驚いた。藤吉郎は「世界は広いぜよ、柴田殿、前田殿。南蛮船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね?」
「南蛮船はおおきな船でのう。ヨーロッパやオランダからこの国にくるの往復2年かかったそうじゃ」
「そうか」前田は興味をもった。
 柴田は「又左」と諌めようとした。が、前田利家は「まあまあ、おやじさま。そんなに便利なもんならわが織田家でも欲しいのう」という。
 藤吉郎は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 柴田は「おんしは織田派か毛利派か?それとも上杉?武田か?」ときく。
「知らんきに。わしは信長さまについていくだけじゃきに」 
「足利幕府は?」
「それはおわるけんど」
「おわるけど?」 
 藤吉郎は驚くべき戦略を口にした。「足利将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」柴田勝家も前田利家も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」藤吉郎は否定した。「いや、そうじゃないきに。足利将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」藤吉郎(のちの秀吉)は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、織田家では藩主が若い織田信長(おだ・のぶなが)に世代交代した。天才の浪人学者で領内でも学識豊富で一目置かれている大谷善継は刑部少輔と号して公の教育係ともなる。鈴には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、織田信長は天才として世間に知れ渡る存在となる。そう『桶狭間合戦』で今川義元の首をとったのである。
  そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが大谷善継のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「戦国乱世の下剋上」という動乱の中である。そんななかにあって善継は大罪である、密航未遂をしてしまう。それを知った信長は「恩を仇でかえす」ように善継を左遷する。
 当然、大谷善継家臣団は反発した。「幕府や信長のいいなりだ!」というのである。もっともだ。
 そんなとき、藤吉郎が織田家に入った。「大谷善継は青いきに」ハッキリ言った。
「善継さまが間違っておると申すのか?木下藤吉郎とやら」
 家老は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「信長でえなくどいつを叩くのだ?」
 大谷家臣団は頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。足利幕府じゃ」
「なに、足利幕府?」 
 木下藤吉郎は策を授け、しかも織田家・信長の奇跡ともいうべき「桶狭間の合戦」に参戦した。桶狭間に布陣した今川軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、大敵の武田信玄が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、織田家は今川軍を破った。だが、まだ足利将軍家は残っている。
 この時期から織田家は大谷善継を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
「何で吉にいは国禁を犯して密航なんぞやらかしたとですか?」
「世界を知りたかったんや!鈴ならわかるとやろう?世界は夢の最先端の技術がある!」
「なら私等はどうでもよかとですか?」
「光が見えたんや!この国の希望が………これからはこの日本国も軍艦・西洋の武器・文化・政…すべてこの国の為じゃけえ。わかってくれ、鈴!」
「わたしたちの光は?」
「いずれわかると!僕を信じてくれ!すべてゃこの国や大谷家の為ばい!」
「なら私らにもみせてつかあさい!吉にいの志で見えた光りが、けっして一刻の私事ではなく“国の為道の為”の救国の光であることを!天下国家の為に吉にいの学識があるのだということを!」
大谷善継(吉継)も鈴も号泣した。善継は「僕は天下国家の救国の為に命を…捧げる覚悟じゃ!至誠を持って動かざる者未だなし!すべてこの国のためなんじゃ!」
「………わかったとばい。吉にいはこの国の回天・改革の為に命を捧げるとですね?」
「そうじゃ!鈴、わかってくれとうとか?!」
「わかりました。兄やんを信じます」鈴は悟ったようにいった。「これからは自由に旅も学問も出来ない吉にいのかわりに私が吉にいの耳と目になりまする!」
それからの鈴は兄が好きな節句餅を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋にもっていく。牢獄の仲間に久子も、いた。 
「この節句餅は上手か~あ、鈴が僕の為につくったとか?」
「そうや。吉にいは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」善継と鈴は熱い涙を流した。
 こののち大谷善継(吉継)は密航未遂の罪を許されて無罪放免となる。
 そして病床の身であった母親が、死ぬのである。


話を少し戻す。
石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。
「たわけ!お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、お江殿!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「お江殿」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」
  お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そう」
 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。



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【オワコン宇多田再始動】宇多田ヒカルが来春活動再開!結婚、出産経て「人間活動」終了

2015年12月08日 10時43分26秒 | 日記









宇多田ヒカル、来春に活動を再開
宇多田ヒカルが来春活動再開!結婚、出産経て「人間活動」終了




 シンガー・ソングライターの宇多田ヒカル(32)が来春、約6年ぶりに音楽活動を再開することが7日、スポーツ報知の取材で分かった。2010年8月に「『人間活動』に専念しようと思います」という表現で無期限活動休止を発表。母で歌手の藤圭子さん(享年62)の転落死、イタリア人男性との再婚、第1子出産など波乱万丈の日々を経て、復帰を決意した。大型のタイアップも決まっており、華々しく再スタートを切る。

 宇多田が「人間活動」を終えて帰ってくる。複数の関係者によると、宇多田は現在、海外で子育てと両立しながら新曲をレコーディング中。出産のため、作業は一時中断していたが、このほど本格的に再開し、来春にアルバムを発売するめどが立った。


7月に第1子となる男児の出産

宇多田ママ初ツイート大反響 海外からも喜びの声
(デイリースポーツ) 12月01日 15:20
紀里谷和明 元妻・宇多田ヒカルに「未練はまったくない」
(dot.) 10月19日 11:30

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石田三成伝 打倒徳川家康! 風と共に殉死するとも 石田三成<戦国群雄割拠編>2

2015年12月07日 04時28分29秒 | 日記








肯定的材料[編集]
• 後世に五人組となる制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
• 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な吏僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
• 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
• 領内の古橋村が飢饉に襲われた時、年貢を免租したばかりか前記の通り村人たちを救うために米百石を分け与えたと言われる。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があり、三成は手厚い保護を与えていたという。
• 『天元実記』には「三成は武道に名誉ある者であれば何をおいても召抱えた為、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」と記されている。
• 『桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされる。
• 恩顧を受けた人に対しては誠意をもって応える気概があり、『老人雑話』では「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったという。三成は主君の負託に対しては精神的にも物質的にも全てを捧げるようにという信念を持っていた。また島清興や蒲生郷舎など名臣に恵まれていたのは、三成が人を遇する道を知っていたためである。
• 小説『のぼうの城』など、忍城攻めの失敗を根拠に三成を戦下手だと評する文献がある。しかし、水攻めは秀吉が北条方に対するパフォーマンスとして厳命したものであり、三成がこれに強く反対したのに対して再度厳命した書状が残されている。
否定的材料[編集]
• 関ヶ原の戦いの直前、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川ガラシャに自害されたりして失敗し、腹心の島左近の諫言でようやく中止した。この処置がかえって東軍の諸大名を激昂させた。
• 三成が傲慢だったことを示す話が毛利家の『萩藩閥閲録』に記録されている。豊臣秀次が関白となって全盛の頃、毛利輝元の家臣である児玉三郎右衛門が貞宗の脇差を持っていることを聞いて、その脇差を手に入れたいと思って輝元にその斡旋を頼んだ。輝元は児玉に書状を送ったが、その書には脇差の存在は秀次にも知られているので秀次も欲しがるかも知れないが、その前に三成が手に入れたがっている、彼の仁は大いに気を使うから、三成の機嫌を損じないためにも三成に脇差を差し出すように求めている。家康にも横柄な態度で接したとする記録があり(江戸時代の記録ではあるが)、三成が浅野長政と大坂城で頭巾をかぶったまま火にあたって暖をとっていると家康が登城してきた。相手は明らかに格が上であるから長政は頭巾を取るように促した。しかし三成は注意を聞き流して頭巾を取ろうとしなかったため、長政は怒って頭巾を取って火中に投じた(『寛元聞書』)。また三成が家康といたとき、三成は杖を落とした。家康は杖を拾って三成に渡したが、三成は礼を述べずにこれを受け取った(『淡海落穂集』)。
• 『常山紀談』、『落穂集』などによれば、三成の傲慢な態度は多くの人の反感を買っていたという。長年の盟友である大谷吉継でさえ三成の挙兵前に、普段から諸大名に対する態度がことのほか横柄なので、諸大名はじめ末々の者までも悪く取り沙汰していると諫言した。
• 『北川遺書記』では「三成はその所志を必ず貫徹せざれば止まざるの士にして、容易に人に聴かず、自ら信ずる事頗る厚し」とある。つまり三成は自信家であり、なかなか自説を枉げず鼻っ柱が強くて人の意見にあまり耳を貸さない、また自らの意思に反する者を排撃するという激しく不器用な一面があったという。
• 朝鮮に渡海していた加藤清正らが博多に帰国してきたとき、三成は博多に赴いて清正ら在鮮の将をねぎらった。そして来秋に上洛したときに茶会を催して慰労したいと述べた。清正は7年も朝鮮で戦って莫大な人員と戦費を失っていたのに茶会とは世間知らずめと激怒し、「自分は兵糧もなく、茶も酒も持たないので、稗粥でおもてなししよう」と返した(『清正記』)。
疑義のある否定的材料[編集]
• 豊臣秀次事件において、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、三成1人の策謀とするのは無理がある。ただし秀吉の意向を受けて秀次の調査を行なっており、秀次は謀反の嫌疑で処断されているから三成の調査に不備があったとも言える。またこの事件で淀殿の信任を得た反面、北政所との関係は疎遠になり、また秀次事件に連座して処分された浅野幸長らからも深く怨まれたと言われるが、前述のように三成の娘が北政所の養女になったのは事件後であり、淀殿と三成が姻戚関係になったり、淀殿の側近に三成と親しい人物が入るなどの事実がないことから見てもこの解釈は少なくとも三成と北政所、淀殿の関係においては間違いと言える。。
• 慶長2年(1597年)に小早川秀秋が慶長の役で失態を犯したとして秀吉に讒言したという説があり、『藩翰譜』などがこの説を支持している。理由は秀秋の筑前と筑後2郡を狙ってのものとされるが、これは否定的な意見もあり、また実際には三成は秀秋の旧領への国替えを秀吉から示唆された時これを辞退している。
• 『改正三河後風土記』等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康と前田利家に秀吉の死を連絡するか否かの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期三成は家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政には不信の念を抱かせている。結局、この独断専行は最終的には三人に露見してしまい、激怒させる結果に終わっている。ただしこれら史料は江戸時代に成立していることに留意すべきで、同時代の史料には全くそのような記述はない。
• 蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが(『蒲生盛衰記』、『続武者物語』)、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったという記録があり(曲直瀬玄朔の『医学天正記』)、否定的な見方が大勢を占めている。氏郷に症状が出始めた頃、三成は朝鮮にいたため、少なくとも直接毒を盛った可能性はない。
• 蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われるが、根拠となる記録はなく、蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、更には三成と敵対したとされる人物の家臣であった者達も後に三成に仕えているため、現在では否定的な意見も多い。また豊臣秀次事件に対しても、このような豊臣家の内紛や正当な理由もなく秀次を謀反人扱いするのは豊臣政権を弱体化させるだけだと反対の立場を持っていたとされる。その証拠に秀次ゆかりの人物を多く助けていること、それら秀次家臣を多く召し抱えたことなどから秀次への敵対、濡れ衣を着せたなどの話は江戸時代に幕府が意図的に三成を貶めるために流布させた嘘や創作である可能性が高い。
系譜[編集]
兄弟
• 石田弥次郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。
• 石田正澄
• 石田三成
• 女(福原長堯室)
• 女(熊谷直盛室)
子女
3男3女もしくは2男5女がいたとされる。
• 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている(以下、次女某の項参照)。
• 次男:石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗る。後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
• 長女:某 - 石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた。(ただし異説あり)
• 次女:某 - 蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主蒲生忠郷の母振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のち若狭に住み、若狭小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続く(異説有)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
• 三女:辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格。子に第3代藩主・津軽信義。
• 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽 が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋、田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。
上記の三男三女は全て正室の皎月院の所生だが、この他に側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家石田多加幸の家には三成の次男の子孫という伝承があり(ただし杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に産まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)、「石田三成の末裔として育った」を書いた澁谷理恵子の家には三成の末子の姫が乳母に抱かれて越後高田に落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。
偏諱を与えた人物[編集]
• 相馬三胤(名はのち蜜胤、利胤)
• 多賀谷三経(名は初め光経)
家臣[編集]
• 島清興(左近)蒲生頼郷 前野忠康(舞兵庫) 蒲生郷舎 大音新介 渡辺勘兵衛 (石田家臣)(渡辺了とは別人)
• 津田清幽(兄正澄の家臣) 山田上野介 山田隼人正 小幡信世 磯野平三郎
• 大橋掃部 大山伯耆 森九兵衛 高野越中 牧野成里 宇多頼忠 宇多頼重
• 宇多頼次 蒲生将監 杉江勘兵衛 平塚久賀 大場土佐 蒲生大炊助
• 小倉作左衛門 蒲生大膳 田丸中務少輔 北川平左衛門 土田桃雲斎
• 八十島助左衛門 島信勝(左近清興の長男)樫原彦右衛門 水野庄次郎



         1 関ヶ原


 関ヶ原の役・信州上田城VS徳川秀忠

 大きく天下が動き始めた。
太閤秀吉の死(一五九八年)、盟友・前田利家の死(一五九九年)から時代は、慶長五年(一六〇〇)陰暦八月、いよいよもって大人物・徳川家康が『会津の上杉征伐』と称して福島正則、黒田長政など豊臣恩顧の大名団隊数十万の兵を率いて動いた。信州(現在の長野県)上田城の真田安房守昌幸(さなだ・あわのかみ・まさゆき)、真田左衛門佐幸村(さなだ・さえもんのすけ・ゆきむら(信繁・のぶしげ))父子の手元に、生々しい情報が次々ともたらされた。幸村の眸(ひとみ)が輝いて心が躍った。かねて放っていた物見たちが、まるで白い風のように秋風に吹き寄せられるように、一人、またひとりと城に舞い戻っていく。それにつれて次第に徳川方の情勢が明らかになっていった。
 彼ら物見衆は、琵琶を背負った語り法師、一管の尺八を腰にした梵論字(ぼろんじ・虚無僧・こむそう)などに姿を変えているが、いずれも安房守昌幸の鑑識(めがね)にかなった心利いた者ばかりであり、その情報収集能力は高く、情報の精度も高いのである。
さすがにフィクションの真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵など)は存在しないし、漫画やアニメや映画のように空を飛んだり、木々の枝間を駆けることは出来ない。
忍びといえど所詮人間である。漫画と一緒にしないでください。
「そうか。うむ、成程、成程…」
安房守昌幸は忍びから情報を得て分析し、戦略を練るのである。戦国時代にはこうした情報収集と要人警護、要人暗殺を職とした忍びの者(いわゆる間者)が存在した。
だが、現在の日本政府にはこの間者のような(つまりCIAやモサドのようなスパイ)組織がない。内調(内閣調査室)やNSC(国家安全保障会議)があるではないか、というひともいるかも知れない。だが、内調にしても日本のNSCメンバーにしても全員顔はバレバレで、只の高学歴のお坊ちゃんお嬢ちゃんなだけで、戦略どころかまともに行動も出来ない。
私緑川鷲羽の出来る事の半分も出来ない『学歴エリート』なだけの、残念なひとたちだ。
情報がなければ戦略の立てようがない。プロ野球やサッカーでもまめに情報収集や情報分析をやっているのに、彼らは、高学歴なら何でも出来る、と勘違いしている。馬鹿だ。
話がそれた。去る七月。豊臣政権の大老徳川家康は、奥州会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、野州小山宿(やしゅう・おやましゅく・栃木県小山市)まで北上着陣した。
 実は昌幸、幸村父子もこの時、動員に応じ将兵八百余を率いて、上田から野州犬伏宿(いぬふししゅく・佐野市)へと着陣、長男の伊豆守信幸(のちに信之と改名)も、居城の上州沼田城に、一足先に着陣していた。
 そこに石田三成からの密書が届いて、真田家の運命が思わぬところへと急旋回した。すなわち、三成は家康討伐の挙兵への参加をもとめたものであった。
(やはり三成殿が動くか!)
安房守昌幸は、ただちに、長男の伊豆守信幸(いずのかみ・のぶゆき)を呼びつけ、人払いした密談にて、
「わしと幸村は、石田治部少輔(じぶしょうゆう)の挙兵に応ずるつもりだが、そなたはどうする?思う所をのべるがよい!」
「父上、狂されたか!?」
訊いていた信幸は顔色を変えた。そして、もはや世の中は徳川家康の天下で、石田治部などは人望もなく、豊臣家ももはやこれまでで確実に世の中は徳川家康が天下人だ、と天下の形勢を述べて、
「父上ともあろうお方が、それをお読みになれぬとは情けなや」と厳しく反対した。
信幸の判断は正確でよく分析されていた。だが、議論の末、結局、安房守昌幸と幸村は石田方(豊臣方)へ、伊豆守信幸は徳川方に残る事に決した。
「相分かった。それぞれ、おのれが思う様に生きるがよろしい」
この父子の行動は迅速である。
昌幸と幸村は、ただちに兵を引き連れて犬伏宿を発し、信州上田へと向かい、一方の長男の伊豆守信幸は本堂へ馬を走らせ、家康に父と弟の離反と、石田三成挙兵を伝えた。
この親子の離反には当然ながらどちらに転んでも真田家が安泰なように双方に離反しての安全策ということである。また、決断の背景には安房守昌幸の妻「山手殿」が、宇多下野守頼忠(うだしもつけのかみよりただ)の娘であり、石田三成の妻もまた、頼忠の娘という関係性が影響していた。しかも次男の幸村の妻は、三成の盟友にして、挙兵の片腕とされる、敦賀(つるが)の城主大谷刑部吉継の娘なのだ。
だが、長男の伊豆守信幸の妻は、徳川家の重臣本多平八郎忠勝(ほんたへいはちろうただかつ)の娘を、家康が養女とした上で伊豆守信幸に娶らせた。すなわち、真田家は、すでに分裂を運命づけられていたようなものだったのだ。
情報網を張り巡らせていた家康は、伊豆守信幸の報告によって、石田三成挙兵を知ると、形ばかりのパフォーマンスである『会津の上杉討伐』を中止し、急遽、大軍を江戸へ、関ヶ原へと反転させた。上杉家の追撃の為には家康の次男の結城秀康を配置、豊臣恩顧の大名たちに毛利輝元、宇喜多秀家、豊臣家、小早川秀秋らの参戦を伏せて、みんなの嫌われ者・石田治部少輔三成討伐と称して、福島正則や黒田長政、加藤清正らを東軍につくよう説得した。家康は東海道を西上、三男秀忠に兵三万八千を授けて中山道を西進させることにした。
「内府(家康)は、江戸から東海道を西上、先鋒は福島左衛門尉(さえもんのじょう)正則が買って出たようにございます」
との間者の報告に、昌幸は、
「何たることぞ、福島正則といえば常日頃、口を開けば、豊臣こそ天下、わしは豊臣恩顧の大名じゃ、といっていたのに豊臣家滅亡の片棒を担ぐとは!」
「秀忠軍の三万八千余は、八月二十五日に、宇都宮城を発進して候」
との報告には、にやりと、
「内府で無うて残念だが、………息子の秀忠めに、一泡吹かせてやろうとするか……」
「父上、何分にも敵は大軍、なんぞ撃退の妙手がございましょうか?」
「まあ、見ているがよい」
「ははは、父上、楽しげでありますなあ」
 幸村は、父安房守昌幸が、十五年前の徳川勢と一戦を交えた神川(かんがわ)合戦(第一次上田合戦)の再現をもくろみ、闘志を燃やしていると感じた。
真田家は歴史好きの方ならご存じの通り武田信玄勝頼の家来の家柄である。それが、織田方による武田滅亡に際して、上杉景勝(謙信の義理の息子・上杉氏二代目)を頼るという奇策をきりだした。そこで家康方と戦いになったのだ。その際、次男の幸村を人質として春日山城に送ったが、それを知った家康は、
「あの横着者めが!」
と激怒し、鳥居元忠、大久保忠世(ただよ)ら七千余もの大軍勢をもって、信州上田城攻略戦を開始した。これが意外な結果に終わった。たかが、これほどの小城、一気に攻め落とせると思ったが、柵をもって城下を迷路状にするなど、二重三重に工作した昌幸の知略に翻弄され多大な死傷者を出した挙句に、撤退を余儀なくされたのである。ために「東海一の弓取り」という家康の誇りは傷つき、逆に真田安房守昌幸の武名は天下に知れ渡った。
この武功を幸村自身は越後府内(新潟県上越市)春日山城で聴いたという。
上田城落ちず、徳川勢撤退……当たり前だ。われら真田家は知略の武家だ。
その幸村に対して、無口で知られる、上杉景勝が突然、ぶっきら棒にいった。
「屋代(やしろ)一千貫……」
「……?」
幸村は、何のことかわからず、景勝の言葉を待った。が、景勝は口を噤(つぐ)んだなり、もう何もいわぬ。極端に無口な漢なのだ。側近で家老の直江山城守兼続が、
「殿は貴公に、屋代一千貫の地を賜るとの仰せなのである」と景勝の言葉を補足した。
「えっ、人質の私に、知行地を!?」
 驚く幸村に兼続は諭すように、
「我らは、貴公を人質などと思うておらぬ。屋代近い十三屋敷の地は、往昔(おうせき)、順徳天皇の皇子広臨(ひろみ)親王が隠棲されたとの伝承のある由緒ある土地……よろしゅうござるな」
 幸村はこの瞬間「義」に篤いという、謙信以来の上杉家の家風の真実を悟った。これは祖父真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆の、「人間は利に弱いもの」とする人間観と対極にあるといってよく、幸村は強い衝撃を受けた。時に景勝三十歳、兼続二十六歳、幸村、弱冠十九歳であった。上杉での一年の生活は、幸村に多大の影響を与えた。その幸村が今、慶長五年、徳川秀忠率いる三万八千余の軍勢を、父安房守昌幸とともに迎え撃つことになり、父子は闘志に燃えたのである。
「幸村、大軍を相手の合戦とは、どのようにするものか、後学のため、よっく見ておけい」
中山道を西進した徳川秀忠率いる三万八千の大軍勢が、すでに秋色深い碓氷(うすい)峠
をこえ、軽井沢をへて、小諸(こもろ)に着陣したのは陰月九月二日のことであった。
父親の家康からは信州上田城の真田父子の軍勢とは戦わず、そのまま関ヶ原へと向かえ、という書状がきた。だが、秀忠は邁進していた。たかだか、数千の信州上田城の真田を恐れて秀忠は逃げた、といわれるのは末代までの恥である。
だが、その邁進が怪我の元であった。
実はこの徳川秀忠の大軍が、徳川家としての『本陣』なのだが、真田に散々にこっぴどくやられ(夜襲や奇襲などの謀略戦)、歴史に詳しい人ならご存知のことだが、『関ヶ原の合戦』に遅参することになる。
家康に内通していた小早川秀秋が徳川東軍に寝返り、西軍が大敗し、石田三成が滅んだからよかったようなものの、もしも東軍(家康連合軍)が敗北していたら、歴史はどうなっていたかわからない、と、多くの歴史家は口をそろえる。徳川家康だからこその対石田三成対豊臣家であり、家康と秀忠では、そもそも人間の格が違い過ぎる。
豊臣家大坂方を滅ぼすのに、家康が、十数年も辛抱強く戦略を巡らしたのも「秀忠では豊臣家を滅亡できない」、と冷静に分析した結果であり、七十六歳の、当時としては長陽も、家康の執念であったことだろう。
話を戻そう。
秀忠が信州上田城などたかだか城兵三千余ほど、わが十倍の三万八千の軍勢をもってすれば、一気に落としてみせる、と闘志を燃やすと、彼の、上田討伐を知った謀臣本多佐渡守正信から、
「真田の上田城などは枝葉のこと。関わらずに捨ておかれ、とにかく急ぎ美濃の本隊に合流することこそ肝要でありまする」
と忠告されていたが功名心から、真田安房守昌幸が、
「もとより我らに、抵抗の意思など毛頭ありませぬ。城内を清掃したる後、開城する所存でおりますゆえ、一両日お待ち願いたい」
とのことを伝えてきたので、秀忠は頬を綻(ほころ)ばせた。
ところが、約束の日が来ても、一向に開城の気配もない。
それで溜まりかねて重ねて使者を送ると、意外にも、
「実を申しますと、籠城準備に不備な点があったので、一両日お待ち願ったが、どうやら兵糧、弾薬とも、万事、遺漏(いろう)なく整い申した。では、これより一合戦、馳走つかまつる」
という人を食った挨拶であった。
「おのれ、安房守め、たばかりおったか!」
嚇(か)っと秀忠は逆上した。その瞬間、本多正信の忠告の言葉など一気に消し飛んでしまった。
悪いことに、その本多正信は「戦費補充」のため江戸へ赴いており不在であった。
中山道を北に外れ、秀忠軍は小諸(こもろ)から上田城へと進軍した。
秀忠は激昴で冷静さをなくしていた。上田城を望む染谷台(そめやだい)に本陣を据えると、
「安房守父子を討ちとれ、断じて逃がすな!」と厳命したという。
 実りの秋である。秀忠は、豊饒な稲穂を刈り取ることで、上田城の糧道(りゅうどう)を断ち、また、城外へ城兵を誘い出そうと企てた。戦国時代の典型的な作戦であるという。
 ここに旗本大番組の五十人が抜擢され手鎌をもって稲刈りを始めると、案の定、城兵が数十人ほど出てきた。
「それ、今だ……」
大番組は手鎌を捨て、白刃(しらは)をかざして襲い掛かった。すると城兵は、きわどいところまで大番組を引き寄せてから、さっと城内へ逃げ込み、かわって弓、鉄砲が猛烈に発射されて、大番組から多数の死傷者が出た。
「何たることぞ!」
 秀忠の逆上は、頂点に達した。歯ぎしりする彼に、もはや正常な判断は失われ、ただ「おのれ、おのれ」と呻(うめ)くのみであった。
そんな秀忠をわずかに慰めたのが、真田安房守昌幸の嫡男伊豆守信幸に攻めさせた、上田城の支城戸石城が緒戦において落城したことだった。
「おお、伊豆守が、戸石城を……!」
秀忠は「伊豆守、でかした!」と賞揚(しょうしょう)した。だが、実は戸石城は幸村がいたが、攻め手が兄・伊豆守信幸と知って、いち早く城を捨てて上田城へ引き揚げて、兄に戦功を立てさせただけのことだった。戸石城は、古くより知られた要塞であり、上田城の築城以前は、真田の本拠地としていたところだ。
当然、凡人、徳川秀忠は大喜びだ。
本陣の染谷台は、千曲川断崖(ちくまがわ・だんがい)上の上田城よりも、さらに一段高みになっているから、秀忠は、
「イマニ見ておれよ!」と意気込み、総攻撃の作戦を練った。が、真田に関わる事自体が秀忠の一生の不覚であった。
突如、思いもよらぬ方向から、凄まじい勢いで本陣を襲った一隊がある。これは安房守昌幸が、かねて染谷台の北東、虚空蔵山(こくぞうさん)に潜ませていた伏兵であり、秀忠の本陣は大混乱に陥った。
武装も不揃いな奇妙な一隊は例の、首一つ百石を約束された農民町人たちだが、奇声を放って勇敢である。「おらは二百石じゃ!」「おらは三百!」
とわめいて暴れる始末の悪さだが、これには「甕割(かめわ)り典膳(てんぜん)」の異名をとる兵法者・神子上(みこがみ)典膳が立ち会向い、苦闘の末にようやく撃退した。
「さすがは典膳、ようやった」
秀忠がほっとしたのも一瞬で、それまで機をうかがっていた幸村率いる一隊が、真一文字に突入したため、本陣は総崩れとなり、秀忠も身一つになって逃げのびるという失態となった。ところが、かねて神川の流れを止めおいた上流の堰を、安房守の合図で切って落としたので、どっと濁流に、たちまち浅瀬の将兵は呑み込まれて溺死した。まさしく徳川秀忠軍の完敗であった。
「伊豆守……そなたの父親と舎弟は、何たる奴らだ!」
秀忠は悲鳴を上げ、初めて悪夢から醒めたように、上田城攻めを断念、ふたたび中山道に戻って先を急いだ。だが、すでに七日間を浪費しており、木曾妻籠(きそ・つまご)の宿まで至った時、関ヶ原での戦勝報告に接した。
すなわち、秀忠は徳川家が存亡を賭けた大戦に、遅参したのだ。
「ああ、なんたることぞ!」
秀忠の顔から血の気が失せた。彼には、真田父子の笑いが聞こえるようであった。事実、遅参した彼は、父家康から面謁を拒否されるほどの不興をかっている。
しかも秀忠にとって天敵ともいうべき真田父子――昌幸、幸村は、戦後処理をまぬがれ、紀州高野山山麓の九度山村(和歌山県九度山町)へ配流という軽い刑罰ですんでいるのだ。
「父上、わたしは承服できませぬ!真田父子の斬首を!」
秀忠は、最後の最後まで、強く真田父子の斬刑を求めたが、伊豆守信幸が、
「わが父を誅(ちゅう)されるより先に、この伊豆守に切腹を仰せつかれたい」
といって、必死に父と弟の助命を懇願したのに加えて、徳川家の重臣本多平八郎忠勝からも、娘婿伊豆守信幸のための嘆願があったからである。
これはさしもの家康も、ついに父子の助命に同意せざる得なかったのである。
「父上、わたしは、真田父子の助命など、とても承服しかねまする」
激しく反対する秀忠に、家康も、
「秀忠、腹も立とうが、本多の平八までがああ申していることだ、わが徳川家の安泰が確かとなるまでの我慢じゃと思うて、辛抱してくれい」
と慰めたのであるという。だが、秀忠の怒りは生涯にかけて残り、終生、彼は伊豆守には、笑顔を見せなかったといわれる。
参考文献(『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』永岡慶之助著作Gakken(学研)142ページ~153ページ)


つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大阪城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
石田 三成

時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年)
死没 慶長5年10月1日(1600年11月6日)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内
官位 従五位下・治部少輔
主君 織田信長→豊臣秀吉→秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院)
兄弟 正澄、三成、女(福原長堯室)
妻 正室:皎月院(宇多頼忠の娘)
子 重家、重成、長女(山田勝重室)、
二女(岡重政室)、荘厳院(三女。津軽信枚室)
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。
関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている。
秀吉の子飼い[編集]
石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から、父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下[編集]
石田三成の書状
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。 天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(異説あり)。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州征伐に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の軍事機能を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
文禄元年(1592年)の文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件、最終的には秀次は秀吉に切腹を命じられた)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる(当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた)。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
文禄4年(1595年)3月、蒲生氏郷が死亡したが、一部資料にはこれを三成の毒殺とするものがある。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。
秀吉死後[編集]
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。
なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた(家康は豊臣家を内部分裂させるため、あえて三成を匿った)」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども行っている。
関ヶ原[編集]
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
辞世の句[編集]
• 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
 

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