長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

「真田丸」主演の堺雅人 視聴率は気にせず「縮こまった芝居になる」

2015年12月14日 16時29分15秒 | 日記








堺雅人、真田丸の視聴率気にせず
「真田丸」主演の堺雅人 視聴率は気にせず「縮こまった芝居になる」



NHK大河ドラマ「真田丸」の初回完成試写会に出席した堺雅人


 NHK大河ドラマ「真田丸」(来年1月10日スタート、日曜後8・00)の初回完成試写会が14日、東京・渋谷の同局で行われ、主演を務める俳優の堺雅人(42)が出席。自身が演じる主人公・真田幸村が言ったとされる言葉を引用しながら「やるからには皆さんに楽しんでいただきたいのですが、あまり損得ばかり考えると、縮こまった、つまらないドラマになってしまうと思います」と視聴率は気にしない意向を示した。

 この日明らかになった今年の「花燃ゆ」全50話の平均視聴率は、大河歴代ワーストタイとなる12・0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。

 制作統括の屋敷陽太郎チーフ・プロデューサーも「1人でも多くの方に見ていただきたい」としながら「数値目標を設定すると現場が“濁る”。よりおもしろいものを作り、記憶に残るドラマにしたい」と視聴率にはとらわれない方針を口にした。

タモリと鶴瓶が大河ドラマとコラボ

タモリ&鶴瓶が堺雅人に直訴「真田丸に出たい!」
(スポーツ報知) 08:10
堺雅人「船出の時がようやく来た」大河ドラマ真田丸
(日刊スポーツ) 15:16

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「花燃ゆ」最終回も奮わず…年間視聴率は大河史上ワーストタイ12・0%

2015年12月14日 14時43分43秒 | 日記






花燃ゆ視聴率 大河ワースト水準
「花燃ゆ」最終回も奮わず…年間視聴率は大河史上ワーストタイ12・0%





 13日に放送を終了した、女優・井上真央主演のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の最終回視聴率が関東地区で12・4%だったことが14日、ビデオリサーチの調べで分かった。全話(50話)平均は、12年「平清盛」の12・0%と並ぶ大河史上ワーストタイの数字となった。

 「花燃ゆ」は、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(井上真央)を主人公に、幕末から明治時代を舞台に描かれたオリジナル作品。視聴者になじみの薄い人物を主人公にした物語に対しては、放送前から不安視する声もあがっていた。

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視聴率の話題

「下町ロケット」羽生と重なるも高視聴率18・2%
(日刊スポーツ) 10:00
「あさが来た」24・6% 高視聴率をキープ
(日刊スポーツ) 10:04



それにしても大河ドラマ終了後、多分、大坂夏の陣で徳川家康本陣に突撃する真田信繁(幸村)が数秒だけの来年の大河ドラマ『真田丸』のPVは拍子抜けした。
三谷幸喜氏は筆が遅いからまだまだ撮影はこれからなのかなあ(笑)
でも面白そう。三谷先生だけに(笑)新選組!を超えそう(笑)

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【まいまい】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」

2015年12月14日 10時35分25秒 | 日記





【まいまい】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」
2015年12月13日
AKBスクープ



1: ダークホース ★@\(^o^)/
大島麻衣が“AKB10周年”イベントで仲川遥香と撮った1枚をInstagramに投稿。
後輩の成長に感慨を感じていたところ「本当にAKB48だったんですね」というコメントが寄せられた。
彼女がAKB48 OGとしてステージに立ったのは久しぶりだったのでそうした声も出ている。

12月6日に開催された『AKB48劇場オープン10年祭』では、卒業したメンバーも集まりステージを務めた。
1期生として活躍した大島麻衣も、前田敦子や板野友美、篠田麻里子、浦野一美など当時のチームAメンバーと13人で『PARTYが始まるよ』をパフォーマンスした。

彼女が7日に『大島麻衣 maimai911 Instagram』で、AKB48時代にともに活動した“はるごん”こと仲川遥香とのツーショットを公開している。
はるごんはジャカルタのJKT48で主要メンバーとして頑張っており、大島も「当時可愛がってた後輩が異国で頑張ってて姉ちゃん嬉しいです」と感慨深げだ。

フォロワーから
「まいまいとはるごん、だいすきなふたり」
「まいまいも出演!?」
「いっそこれを機にAKBカムバックしちゃえw」などのコメントがあるなか、
「本当にAKB48だったんですね。設楽さんの女だと思ってました」という声も見受けられた。
これは冗談と思われるが、タレント・大島麻衣として人気が定着しただけに、彼女がAKB48だったことを知らない人もいるかもしれない。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151211/Techinsight_20151211_166953.html

元AKB48 まいまいとはるごん 大島麻衣 Instagramより
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2: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
元AKBとしては成功だよね。
普通にひとりでやれてて。

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク直前に抜けた人

8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
この人可愛いわ

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まいまいがこんなにカワイイって知ってるの?
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10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今や消したい過去なんだろうな

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
こういう子が抜けるからレベルが下がる

27: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク前に卒業して、当時は辞め時を間違えたなんて言われてたもんだが、
ピンタレントとしての今の活躍ぶりを見れば絶妙のタイミングだったとも言える
前田とか大島優子辺りと比べるとAKB色がそこまで無いのは大きい

33: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
何でAVに転身した人たちを全員無視してるんだろう

37: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
AKBなんか全く知らん初期の頃この子とこじはるだけは目立って可愛いから認識出来てた

43: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ブレイク寸前に抜けて失敗したかと思いきや卒業メンバーで唯一と言っていいレベルには成功してる

44: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
秋元とのつながりはキープしておきたいよな

45: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
こいつが辞めてからAKBブレイクしたんだよな

57: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
全然共演しないからNGだと思ってた

大島麻衣写真集『勉強させていただきました!』
大島麻衣写真集『勉強させていただきました!』


引用元: ・【芸能】 大島麻衣、“AKB10周年”での姿に「本当にAKB48だったんですね」の声

タグ :AKB脱退復帰

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石田三成伝 打倒徳川家康! 風と共に殉死するとも 石田三成<戦国群雄割拠編>6

2015年12月14日 09時12分40秒 | 日記









  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をふった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘助なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       

  

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