長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

嵐、5年連続フジで新春&最大規模ジャック 「仕事だけじゃ足りない」5人の“絆”も

2015年12月01日 19時34分52秒 | 日記








嵐 初めて5人のグループメールが
嵐、5年連続フジで新春&最大規模ジャック 「仕事だけじゃ足りない」5人の“絆”も




【モデルプレス】嵐が、5年連続でフジテレビの新春を彩る。

1日、都内で行われた新春キャンペーン記者発表に出席。今年で5年目を迎える、年末年始の風物詩となったフジテレビと嵐の同キャンペーンだが、今年のコンセプトである「つながる」に因んで、今年嵐がつながった、ひとつになったと感じた出来事を問われた松本潤は「初めて5人だけのグループメールができた。今まで電話番号は知ってるけどメールは知らない人もいたんですけど、最近5人だけで連絡取り合ったり、写真送り合ったりとか。ちょっと気持ち悪いんですけど(笑)」とメンバー同士の仲睦まじいエピソードを紹介。MCから「お仕事でも会いますよね?」と言われると、二宮和也は「仕事だけじゃ足りないんですよ、我々。常に共有しておかないと!30代が初めてスマホ持ったらこうなった、みたいな感じです」と返して笑わせた。

また「今年は特に、ジャニーズの先輩後輩と一緒に働かせてもらう機会が多かった」と語る松本。「カウントダウンを含め、ひとつになるという時間が楽しみでもありますし、そういう時間を過ごせることがジャニーズらしくて嬉しいなぁと思います」と感慨深げにコメントした。


松本潤「さすがに『おやすみ』みたいなのは送らない」

嵐、5人でグループメール始める「仕事だけじゃ足りない」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【オワコン宇多田ヒカル】ママ初ツイートおはようごさいくまぼんじゅーる(笑)億万長者で(笑)

2015年12月01日 18時56分41秒 | 日記








宇多田、ママ初ツイートで近況
宇多田ヒカル 毎朝6時半起きで育児奮闘中!ママ初ツイートで近況



宇多田ヒカル
宇多田ヒカル

 今年7月に第1子男児出産を発表したシンガー・ソングライターの宇多田ヒカル(32)が1日、約5カ月ぶりに、ママになってからは初めて自身のツイッターを更新。「毎朝6時半起きの生活なんて大学中退して以来、15年ぶりだ」などと近況を報告。育児に奮闘しているようだ。

 「毎朝6時半起きの生活なんて大学中退して以来、15年ぶりだ。『親』業には週末も休日も体調不良による欠勤もないと自分が親になるまで気付かなんだ、かあちゃんになって初のおはようございくまぼんじゅーる」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【芹那でなく安堵(笑)】ロッテ大嶺祐と琴菜(誰?(笑))婚約10年交際で結婚!

2015年12月01日 18時51分42秒 | 日記








ロッテ大嶺祐と婚約、琴菜が報告
琴菜、ロッテ大嶺祐太と婚約 遠距離含め10年交際





 歌手、DJ、女優として活動する琴菜(27)が、千葉ロッテマリーンズの大嶺祐太投手(27)と婚約したことを自身のブログで報告した。
 1日に更新したブログで、「約10年間の交際期間を経ての婚約へと至りました。約10年前私はまだ大学生で、福岡の大学に通っていた私と、浦和の寮で生活していた彼は、2年間の遠距離恋愛でした」と大嶺との交際期間について明かし、「大学時代の学生生活、就職活動、就職、転職、芸能、今の私を全て見てきてくれてのは彼であり、音楽への夢を追うべきか、安定感のある弁護士への道を進むべきか迷っていた私を今の私に導いてくれたのも彼でした」とつづった。
 「心身ともに成長していく彼を見てると、私も負けていられないと思える関係を築けてきました。この関係性を大切にして、お互いが切磋琢磨できるよう来シーズンに向けて頑張っていきたいと考えています」と琴菜。「どうか皆様には温かく見守って頂ければ幸いです」と呼びかけた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝海舟と徳川慶喜~徳川最後の将軍~<維新回天怒涛篇>ブログ連載小説3

2015年12月01日 07時30分58秒 | 日記











  長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたい!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしい」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までをやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
   父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であったという。
 客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。      松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
 少し話を戻す。
弘化二年(1845年)吉田松陰は十六歳で、山田亦介(またすけ、羽田清風の甥)について長沼流兵学術を学んだ。亦介は世界情勢に明るく、松陰はこの男によって「本物の世界」を体感した。亦介は「これが地球儀だ。我が国は何処だと思う?」ときく。松陰は初めて地球儀を見たのだわかる訳はない。ちなみに最初に丸い地球儀を見たのは織田信長である。400年前に信長は「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解したのだからさすがは「戦国時代の天才」である。
 吉田松陰はおくらばせながら「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解した。「我が国はこんなに小さいのですねえ。まいりました」松陰は唖然という。だが、キツネ目の眼光は「世界への興味心」でギラギラ輝いている。この感動がのちの「草莽掘起」「外国船への亡命」へと繋がる。
 弘化三年(1846年)17歳となった松陰は外患に深い関心をもち、海防のことを論究している。「我が国は海で囲まれている。あのペルリ(ペリー)と申す舶来人が乗る黒船艦隊をやぶるには海防を徹底的に考慮せねば我が国は夷狄により瓦解する」
 吉田松陰が「尊皇攘夷派」というのは間違いだ。「草莽の志士」とやらは「外国の軍事力」を軽く観ていたが、あの松陰が「外国軍と長州藩・薩摩藩・徳川幕府軍との格差」がわからなかった訳はない。吉田松陰が「尊皇思想」というのも嘘だ。
 もしその(尊皇思想)考えがあったにせよ、のちの「官軍」つまり薩長同盟軍が「錦の御旗」や天皇を利用したように「将棋の王将の駒」「天皇という名の道具」としてからの思想だろう。吉田松陰は日本共産党や皇民党ではないのだ。
  嘉永元年(1848年)19歳となった吉田松陰は1月、初めて独立の師範となった。
  そんな松陰だから黒船浦賀来航の報を江戸でえた彼の心は躍った。
「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」(六月四日、瀬能吉次郎宛)
 それと同時に、この黒船を目の前に見た松陰は、来るべき天下の動勢を予見した。
「敦れ天下の瓦解遠からざるべし。方今天下疲弊の余、江戸に大戦始まり、諸候これの役に駆使せられれば必ず命に甚へざらん。且つ又幕府天下の心を失ふこと久し」(七月二十六日、杉梅太郎宛)
 外圧を前にして当面のことを糊塗(こと)しようとする幕府、幕臣の中では「夷狄排除論」的な意見が多い。その中で勝麟太郎(勝海舟)と佐久間象山だけが「世界情勢」を見抜いている。吉田松陰は佐久間象山や勝麟太郎に文をよせるとともに独自の政治思想「草莽掘起(そうもうくっき)」を発案して長州藩を「草莽の志士たち」でまとめようとした。
 だが、「外国にいきたい! 外国の文化・経済・政治・言語…それらを自分の眼で見たい」という感情、いやもう欲望であり夢であり。それを叶えたいと門人の金子重輔(じゅうすけ、重之助)と共にとうとう小舟で黒船に近づき「プリーズ・オン・ザ・シップ!(黒船にのせてくれ)」と嘆願するに至る。しかし、外人さんたちの答えは「ノー(駄目だ)!」である。
 なら銭金を見せたが「そういう問題ではない」という風に外国人たちは首を横にふるばかりだ。かくして吉田松陰の外国への亡命は瓦解した。なら幕府や長州藩にそのことを「秘密」にすればまだ松陰にも「勝機」はあったかもしれない。ジョン万次郎というラッキーな輩もいたのだから。だが、くそ真面目な松陰はこの「亡命失敗」をカクカクシカジカだ、と江戸の奉行所にいい自首してしまう。こうして彼は囹圄(れいご)の人となった。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂………
 吉田松陰は自己を忠臣蔵の赤穂浪士の已むに已まれぬ魂と重ねた。
「馬鹿なやつ」江戸の侍や町民はかわら版やかぜの噂できき、嘲笑した。「一体何をしたかったんだ?、その馬鹿」 
奉行所で吉田松陰と弟子の金子を取り調べたのは黒川嘉兵衛という「いいひと」であった。黒川はよく「いいひと」「物腰が柔らかい」「聞き上手」といわれる。人間というものは大体にして「自分のこと」は話すが、「他人のこと」には注意を払わないものだ。
 だが、黒川はまず他人の話を粘り強く聴いてから、「なるほど。だがこういうこともあるんではないかい?」と反駁した。しかし、吉田松陰はどんなことがあっても「師匠の佐久間象山に密航をそそのかされた」ことだけは話さない気でいた。
 徳川幕府にとって「攘夷など無理、すみやかに開国して外国の武力、文化、教育を取り入れろ!」という開国派な象山は「目の上のたんこぶ」であり、「俺は日本のナポレオンだ!」と豪語する傲慢チキな佐久間象山は幕臣にとって「恥」でしかない。
「俺にどんどんと腰の強い女をよこせ! 俺の子供は「天才」だろうから俺の子供たちで日本を改革する!」象山は確かに天才学者だったのだろうが、こんなことばかりゆうひとは幕府にとっては邪魔であり、死んでほしい人物である。
「なんのために外国船にのりこもうとしたのだい?」
「外国にいって外国の文化、教育、軍事力、外交力など学びたかったのです」
「…この英文の紙は佐久間象山の筆跡のようだが」
「いいえ。確かにぼくは先生に書いてもらいましたが密航はぼくのアイデアです」
「アイデアとは何だい?」
「アイデアとは発想です」
「あくまで佐久間象山は関係ないと申すのかい?」
「オフコースであります」
「今度は何だ?」
「オフコースとはその通りという英語であります」
「佐久間象山の関与さえ認めれば罰しない。それでも佐久間象山の関与を認めないのか?」
「オフコース」
 黒川は吉田松陰という男が哀れに思えた。別に密航くらい自首しなければ罰せられない。なんでこの男は自首したのか?佐久間象山は許せないが、この男は許したい。弟子の金子重輔という長州の足軽という男も…。だが、江戸町奉行・井戸対馬守は「死罪」を命じた。
 対馬守の眼は怒りでぎらついていたが、その怒りは吉田松陰や金子にではなかった。
「死罪」は裏で糸を引いているであろう奸物・佐久間象山へのあてつけであった。
  本当に吉田松陰をそそのかしたのは佐久間象山であった。話を元に戻す。
佐久間象山は江戸時代後期から末期(幕末)のひとである。
 文化8年2月28日(1811年3月22日)から元治元年7月11日(1864年8月12日)までの人生である。
 ペリー(マシュー・カルブライス・ペリー)は米国仲将であり、ペリーが黒船で日本に開国を迫ったのには訳があった。日本開国の目的は貿易や食糧・水補給路としての港というより、「中国へ向かう途中でのアメリカ船の寄港地」が欲しかったのである。
 ペリーのそんな目的を知ってか知らずか?佐久間象山は幕臣たちに「早く開国しねえとアームストロング砲で日本中火の海だ。開国だ!」とせまったという。そしてあの傲慢不遜なペリーがおじぎをしたという。日本人にペリーがおじぎをしたのは佐久間象山ただひとりである。
 不思議に思って後で部下が「何故おじぎされたのですか?」ときくとペリーは「オーラがあった。きっと高い地位の人間に違いない」という。
 確かに象山の外見は特殊である。
 身長が1メートル78cmから80cnはあり、この当時の日本人はみな小柄だったため、目立った。また肌が珍しく白くて「象山には外国の血が混じっているのではないか?」といわれていた。目が大きく、顔の堀が深く、特徴は耳が正面から見えないこと。もちろん耳がないのではなく、両端にぴたりとついていて見えないのだ。子供の頃は「ミミズク」とあだ名がついていた。象山は傲慢な性格で、「孤独狷介」で自分を「日本のナポレオン」といい、「開国論者」である。が、開国貿易にしても底に「攘夷論」がある。攘夷をするにしても相手を知り、日本の国力をつけてからだ、ということだ。佐久間象山は嫌われ者であったが、古郷の信州(長野県)松代真田藩藩主の真田幸貫や、象山に漢学を教えた鎌原桐山や恩田頼母などの家老や、子孫から象山の手紙などを保存している豪商・八田(はった)家など愛する人々もいた。勝海舟や坂本龍馬や吉田松陰も学んだ。 
 別名、国忠、啓(いみな)。修理(通称)。主君・真田幸貫(ゆきつら)……
  子廸、子明(字)。父母、父は佐久間一学、母・まん氏。妻は勝麟太郎(勝海舟)の妹の順子。子は三浦啓之助。日本の武士で思想家・兵学者、松代三山のひとりである。
  文化8年2月28日(1811年3月22日)、信濃松代藩主・佐久間一学の長男として象山は生まれている。象山恵明禅寺に学んだといわれる。
 象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。
 とりわけ数学に興味を示し、必死に学んだという。
 性格は悪い。というより傲慢で、自分を「国家の財産」といって憚らなかったという。 天保4年(1835年)に江戸出て、当時の儒学の第一人者、佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷とともに『二傑』と称されるにいたる。只、当時の象山は西洋の文化より儒教学にのめり込んでおり、一般的な『知識人』であったという。
 佐久間家はほとんど女系で、男子は珍しく、甘やかされた。父親は「母親は身分が低いからまんと呼び捨てにしろ」という。啓之助(のちの象山)は心を痛めたことだろう。
 彼は子供の頃「このててっぽう(ミミズク)!」と馬鹿にされ、投石されいじめられた。だが、象山は石をいじめっこらに投げ返して「私はててっぽうではない! 明星だ! 天才だ!」と怒鳴った。馬鹿にしやがって! 私の頭脳の半分のおつむもない阿呆が! 象山は腹が立った。
 江戸で私塾『象山書院』を開いているが、儒学を教えていた。
 象山の転期は天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に命じられてからだ。
「佐久間象山、おぬしは兵学を学べ」藩主にいわれて、象山は「承知いたしました。国家の財産である私には造作もないこと。必ずや幕府のためにこの天才・象山が役立ちます」とすこぶる傲慢に承諾した。この傲慢さが、数々の業績を否定する歴史に繋がることなどは露とも思わない。自分で自分を「天才」だと思っている。
 象山は江川英龍(太郎左衛門)の元で兵学を学ぶ。
 温厚で思慮深い江川は、傲慢な態度で教えをこう象山を嫌っていたようだが、とにもかくにも象山は兵学を身につけ、『海防八策』を献上し、高い評価を得た。
 また江川や高島秋帆技術を取り入れて大砲を製造したが、最初は大砲が爆発して周りから笑われると、
「失敗があるから成功があるのだ!」とすこぶるここでも傲慢な態度を示してもいる。
 大砲の鋳造に成功すると、西洋学問にのめりこみ、ガラスの製造や地震予知器の開発にも成功して、更には牛痘種の導入も画策していたという。
 義兄は勝麟太郎である。
  麟太郎は家斉の嫡男の小姓役を務め、その後三年を大奥で過ごし、天保五年(一八三四)、麟太郎は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように麟太郎は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。麟太郎は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。麟太郎は残念がった。麟太郎は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは麟太郎にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「先生は…」と内輪で話したという。城からおわれた麟太郎は剣術に熱中した。  



若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
 話しを前に戻す。
  天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
 父はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 
  渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
  歴史的敗北者だ、というのだ。だが、なら自分が慶喜の立場だったら?ああやる以外どうせよというのだ?官軍と幕府軍で全面内戦状態になれば「清国の二の舞」だったではないか。
 あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
 まあ、「結果」よければすべてよし、である。
 


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。       


  幕末、徳川慶喜は将軍家に生まれてはいなかった。徳川分家の水戸に生まれた。
 水戸を御三家のひとつという。御三家は水戸と紀州と尾張にある。
 このうち、水戸がいちばんと石高が少なく、官位も他が大納言なのに、水戸は小納言でしかない。紀州と尾張から将軍は出ても、水戸からは将軍はでない。
 いわば、ワンランク下の立場にある。
 しかし、水戸藩は恵まれている点もあった。参勤交替の義務がなく、常に江戸にいてもいいことだ。よって、いつも将軍の側にいる。
 世のひとは水戸藩主を『天下の副将軍』とよんだ。
 慶喜は生まれた。
父は烈公斉昭である。
 この男は無類の女好きで、大奥の美女たちをてごめにしようとまでした。彼は多くの子供を女に孕ませたが、ほとんど早逝し、生き残ったのが七郎磨(慶喜)だけだった。
 期待が自然にかかる。
 父は慶喜の寝相をみにきて、
「あんなぐにゃっとした者では藩主になれぬ。寝床の隅に剃刀をたてよ」
 という。寝相が悪いと、剃刀で腕や顔が切れるのである。
 慶喜は愛想が悪かった。
 ……こんな躾が何になるというのか…?
 幼い慶喜は不思議に思った。
尾張や紀州の将軍候補の少年たちは相次いで死んだ。残りはのちの家茂だけである。
「ひょっとすると、水戸から将軍が出るかも知れない」
 斉昭はちょっと期待していた。
 まず自分そして、のちの家茂……そして、わが息子、慶喜だ。
 そう思うだけで、斉昭は体中が火照ってくる。
 歴史とは皮肉だ。
 事実そのようなことになり、慶喜が徳川幕府『最後の将軍』となるのだから……


           
  この頃、勝海舟(勝麟太郎)は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、麟太郎が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 麟太郎は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  麟太郎が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする