長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

DVD映画『つぐみ』(1990年公開)原作小説吉本ばなな氏拙著『沙弥』はこの作品のオマージュ

2015年12月06日 16時57分29秒 | 日記








DVD映画『つぐみ』(1990年)を観た。


吉本ばななの小説原作であり、


私の小説『沙弥』は完全にこの作品のオマージュなのだが、


昔の米沢NECで虐められていた時期(笑)


酷い虐めでした(笑)


仙台時代も酷かった(笑)




今はオワコンのばなな氏ですが「少女漫画小説」と当時嘲笑していた(笑)臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜 緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

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石田三成伝 打倒徳川家康! 風と共に殉死するとも 石田三成<戦国群雄割拠編>1

2015年12月06日 08時48分39秒 | 日記







小説 打倒徳川家康!
風と共に殉死するとも 石田三成


             
               
               
               
               
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。
 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。
                                おわり


<ウィキペディアからの引用>
石田 三成

時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年)
死没 慶長5年10月1日(1600年11月6日)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内
官位 従五位下・治部少輔
主君 豊臣秀吉→秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院)
兄弟 正澄、三成、女(福原長堯室)、女(熊谷直盛室)
妻 正室:皎月院(宇多頼忠の娘)
子 重家、重成、長女(山田勝重室)、
二女(岡重政室)、荘厳院(三女。津軽信枚室)
生涯[編集]
秀吉の子飼い[編集]
石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から、父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下[編集]
石田三成の書状
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。 天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(異説あり)。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州征伐に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の軍事機能を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している(忍城の戦い)。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
文禄元年(1592年)の文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件、最終的には秀次は秀吉に切腹を命じられた)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる(当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた)。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
文禄4年(1595年)3月、蒲生氏郷が死亡したが、一部資料にはこれを三成の毒殺とするものがある。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。
秀吉死後[編集]
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康は、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。
なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
なお、三成の蟄居後、家康は、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分などを行っている。
関ヶ原[編集]
笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。その後、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
高野山奥の院の石田三成墓所
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
辞世の句[編集]
• 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
人物[編集]
• 三成は五奉行の中でも随一の実力者であり、毛利・上杉・島津などの大大名も秀吉への取り成しは常に三成を通じて行っていた。このため三成は次第に傲慢になっていったという。
• 太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。『翁草』は世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと伝えている。
• 三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現す発言が残っている。
• 「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」(毛利輝元)(家臣の児玉某に脇差を譲るよう命じた手紙の一節)
• 「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」(島津義弘)(三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へその協力が島津家のために必要であることを説得した手紙の一節)
• 「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」(木食応其)(木食は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食が三成への加担を徳川方から責められた時の発言であるので、自己弁護の可能性が高い。木食はその後も三成の三男佐吉を弟子にするなど、三成に好意的な行動をとっている)
家紋[編集]
定紋は定かではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)、または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。大一大万大吉紋は文字の配置や書体は不明であるが鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。
「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。
大一大万大吉
関ヶ原合戦図屏風(彦根城博物館蔵)に描かれた石田三成の旗紋にある図案
逸話[編集]

• 近江国伊吹山の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれるエピソードである(武将感状記)。
• ただし、このエピソードが載っている史料がいずれも江戸時代のものであること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。
• 大谷吉継とは親友同士だった。秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。
• 秀吉が伏見城に井戸を掘るように命じた際、担当者は丘陵から水脈まで掘られねばならなかったため苦戦していた。それを聞いた三成は貫差しの銭を井戸の中に放り工事人夫たちに「井戸を掘り抜けばあの銭はお前達のものだ」と叫んだ。その結果人夫たちは全力で掘り井戸は驚くほど早く完成した(『前橋旧蔵聞書』)。
• 三成の検地での働きから、秀吉が九州に33万石の領地を与えようとしたところ、三成は自分が九州の大名になってしまうと大阪で行政を担当する者がいなくなり国政に支障が出る、という理由で加増を断った。
• 「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」という言葉を残している。
• 関ヶ原の合戦の3日後に居城の佐和山城も落城。佐和山城に乗り込んだ小早川秀秋、脇坂安治らの武将は、19万石の大名であり、秀吉に寵遇された三成の城はさぞかし豪勢で、私財を貯えているだろうと思っていたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀も少しもなく、あまりの質素さに驚いたという(甲子夜話)。
• 名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の加藤清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。2人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
• 前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。現在は東京国立博物館が所蔵(重要文化財、e国宝の画像と解説)。
• 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、その時、住職の善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れ且つ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。つかまったとき三成は樵の体でボロをまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠にて顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された。
• この時、与次郎が死を覚悟で三成を匿ったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
• しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。
• 処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」と言って受け取らなかった(『常山紀談』・『武功雑記』)。
• 家康がやはり処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」といった。家康も「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた(『常山紀談』)。
• 三成が処刑直前に喉が乾いたので警護の者に水を所望した際、「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ」と言われたのに対し、三成は「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えた。これを聞いた警護の者は「もうすぐに首を切られる者が、今から毒断ちをして何になる」と笑ったが、三成は「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と言い、泰然としていたという(『茗話記』・真田増誉の『明良洪範』)。
• ある年の10月、毛利輝元から季節外れの桃が秀吉への献上品として届けられた。三成は毛利家の重臣を呼び、「時節外れの桃とはいえ中々見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家の聞こえも悪くなりましょう。ゆえに時節の物を献上なされよ」と突き返したという。心ある人は「もっともな事であり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家で公に最も信任されているのだ」と評したが、大半の人は秀吉の権勢を傘に着て横柄だと評したという(小早川能久の『翁物語』)。
• 三成は関ヶ原の数日後に捕縛されて大津城で曝されたが、このとき福島正則が「治部。おのれは分際も弁えず無用の乱を起こしおって。恥を知れ」と罵った。すると三成は冷静に「わしになかったのは武運と二心を抱く者を見抜く目だ。それさえあれば、今この場にお主を曝していただろう。お主の所業、あの世で太閤殿下(秀吉)にしかとお伝えする」と言い返したという(『武功雑記』)。
• 関ヶ原の直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍の『遺老物語』)。
• 三成の腹心である島左近は徳川家の重臣である柳生宗矩と親しく、関ヶ原の直前に家康は左近を調略するために宗矩を送り込んだ。左近は笑いながら答えた。「主の悪口になるが、主は決断が遅くそのためにいつも失敗する。わしは主に徳川殿に味方する諸大名にへりくだり、遺恨を無くすよう取り計らい、彼らと交わり親しむべきと申したのだが、主は一時逃れでへりくだるのは嫌だと申して受け入れぬ。とはいえ、わしは主を裏切れぬ。お許しあれ」と述べた。宗矩は最初から左近が裏切るとは思っていなかったから、諦めて帰った。後に宗矩からこの話を聞いた樫原彦右衛門は「光秀や久秀は無双の反逆者だが、事を決断する速さに並ぶ者は無かった。だが治部は決断が遅すぎた」と評したという(『常山紀談』)
• 大谷吉継が三成への与党を決意したとき、三成に対してこう述べた。「お主は才智に長けているが勇が足りない。誰よりも真っ先に命を捨てる覚悟で戦陣に挑んでもらいたい」「お主は横柄で傲慢だと上は大名から下は民百姓までが噂している。お主には失礼だが人望が無い。人の上に立つ者(総大将)は人望が無ければならぬ。お主がでしゃばれば、豊臣家大事を誓う者まで内府(家康)のもとへ走らせる。ゆえに総大将は安芸中納言(毛利輝元)殿、副大将は備前宰相(宇喜多秀家)殿を立て、お主は影に徹しよ」と諫言した(『常山紀談』)。
三成と淀殿及び高台院[編集]

一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)こととなるが、基本的には、当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したと考えられる。秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、
• 三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(杉山家由緒書・岡家由緒書)。
• 高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
• 淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない
ことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)。
肖像画[編集]
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。
関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝國大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。この時発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、この時頭蓋骨の石膏模型も作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。更にそれを元に関西医科大学の石田哲郎の指導の下、昭和55年(1980年)3月、日本画家・前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。
評価[編集]
江戸時代には三成は悪人と見なされた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行った他、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

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