堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

都電と千住製絨所跡

2011-08-16 18:03:10 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、連れ合いから

「ブログ更新しないの、ガイガーからなしだよ」と言われ、

「えっ、そうだっけ?」と自分のブログを見れば、

なんと8月に入ってから一度も記事を載せていないではないですか!

もう月の半ば、これはまずい!


なんか、バタバタとやたら忙しく、今日やっと一息ついています。

この間ブログに書こう、とおもったことがいくつもありました。

すこしさかのぼりますが、これから書いていきますので、よろしく。



まずは8月3日。

毎週水曜日は早稲田のオープンカレッジの講義を受けています。

朝一番の授業で昼まで。

そのあといつも大学の図書館に行って夕方まで集中して勉強することにしています。


しかしこの日はなぜかはかどらない。

やろうとおもっていたことがちっともまとまらない。

疲れてるのかな~。

そうだ、図書館の裏からでている都電に乗って、気分転換しよう!



東京に唯一残る路面電車、都電荒川線です。

「早稲田」から「三ノ輪」まで走ります。

乗るのは久しぶり。


Sbsh0284_2 都電


随分電車もきれいになったな、とおもいながら乗り込んで、

運転席の真後ろの座席を陣取り、いい歳したおばさんが小さい子供がするように

走っている間、窓から進行方向の景色をながめたり、運転席を覗き込んだり。


Sbsh0283 運転席から


いや~楽しみました(笑)


ずっと車と一緒の道路を走るとばかりおもっていたのですが、

江ノ電のように、住宅と住宅の間を縫うように走る箇所も結構あるんだと発見。


Sbsh0285 「三ノ輪」駅


終点の「三ノ輪」まで一時間のミニ旅でした。



さて、三ノ輪について、電車の駅まで歩いていこうとおもい案内板をみると、

「千住製絨(せいじゅう)所跡」という文字が目に飛び込んできた。

そうか、ここは南千住に近いんだ、とおもい、

早速そこまで歩いていくことにした。



「千住製絨所」というのは、日本の殖産興業、富国強兵政策の一貫で、

それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化をめざして

明治12年(1879)につくられた官営の製絨所です。


ここの初代所長が速水堅曹です。

明治11年初めに辞令をうけとり、土地の選定から製絨所の新築を担任しています。

そして明治12年9月、開業となります。

ここは内務省、農商務省からのちに陸軍省の所管となり、軍服用毛織物の製造をしました。

大正時代には敷地面積は3万2千坪余りもあったという。



現在荒川総合スポーツセンターの辺り一帯が跡地で、そこに碑があります。

堅曹の次の所長をした井上省三の銅像が建っています。

(なぜか碑文には初代所長となっており、歴史が誤認されている)


Sbsh0292 井上省三の碑


横には「日本羊毛工業発祥の地」の碑もあります。


Sbsh0294 「日本羊毛工業発祥の地」の碑



そして工場敷地の周りにあったレンガ塀が何ヶ所か残っているので、それも見に行った。


Sbsh0303_2 レンガ塀


なかなか趣きがありますね。

こちらは正門の袖柱の一部と車止めの一部だそうです。


Sbsh0330 レンガ塀と袖柱


裏側はこんな感じ。


Sbsh0332 レンガ塀


そこにある写真入りの案内板によれば

これらのレンガ塀ができたのは明治44年から大正3年頃だそうです。

創建当初の製絨所の絵と写真が載っていた。


Sbsh0323 「千住ラシャ製造場」と言われ、水田に囲まれている。


Sbsh0322 「大日本千住製絨裏面之図」荷物運搬用の堀が荒川から引いてある


これが堅曹さんが指揮して建てた工場かと思うと、食い入るように眺めてしまった。



早稲田の図書館を出るときはなんとなくだるくて疲れていたのに、

こういった発見があると俄然元気になって、いくらでも歩きまわっている自分がおかしい。



前々から南千住に製絨所の碑やレンガ塀が残っていることは知っていたので

いつか来ようとおもいつつ果たしていなかった。

偶然にもこんな形でじっくりと訪ねることができてとてもうれしかった。

でもこれは偶然ではなくて、必然だったのかな、とおもった。


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