堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

富岡製糸場 ④

2007-11-26 09:00:34 | 富岡製糸場

大規模な官営の富岡製糸場を場所の選定の段階からみつめていた堅曹さん。当時はどんな風に考えていたのだろうか。


工事が始まった頃(明治4、5年)は日本で初めての器械製糸ということで堅曹さんのつくった「前橋製糸所」には全国から見学者が訪れ、多くの伝習生をうけいれ指導をしていました。

それと同時に時代が藩から県へと移行し、藩営としてはじめた横浜の生糸売込問屋「敷島屋庄三郎商店」と「前橋製糸所」の所有権をどうするかという問題が持ち上がり、そのことについてあちこち折衝に当たっています。

そんな現実的な問題を処理しながら、一方で器械で品質の均一な良い糸をつくることが国益につながるという信念を持ち、その普及に努めていました。

しかしそうした中から器械製糸の発展には単に器械製糸所を増やすだけでいいのかという疑問がみえてきたのです。

本業の得失器械の便否及需要者則ち欧米の情実等を知る者一人もなく動もすれば有害に陥らん事を恐るゝの情態なりき。 (堅曹自叙伝『六十五年記』)

まだ製糸業の得失や器械のメリット・デメリット、そして欧米の実情を知る者が一人もいないために、製糸所だけ作ってもかえって有害になってしまうおそれもある、と考えています。



ちょうどその頃福島県令より二本松城址に製糸場をつくりたいので是非きてほしいと懇請され、明治6年(1873)器械製糸場の設計・建築から技術指導・経営まですべてを指揮するために福島に行くことになります。

そこで堅曹は経営については県として官営ですることに反対し会社組織にしてすることを断固として押し進めます。

三月十八日福島ニ着ス、是より県令ト日々製糸改良ノ利害及官民執業ノ分別、地理人情ノ適否等痛論シ県令ノ意に随ハス、流石ノ令モ困却セリ、廿八日ニ至リ二本松ニ行、(中略)然レトモ官行・民行及会社ノ件ニ付又大ニ論ス、我ハ官行ノ不可ナルヲ知レハナリ、而シテ終ニ会社ノ組織ヲ以新築ノ談決ス、 (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)

そうして日本ではじめての株式会社といわれる「二本松製糸会社」を立ち上げました。

Cimg2036 二本松製糸会社

この会社組織とした「二本松製糸会社」は経営陣にも恵まれ大成功し、軌道に乗せた堅曹さんは一年後前橋に戻ってきます。



多くの経験をとおして堅曹は危惧していました。

一年前に華々しく開業した富岡製糸場。官営で300釜という巨大な工場。

富岡製糸所の如きは官業なれば事業は大にして器械は盡せり製品は則ち精なりと雖も肝腎の経済上に於て取るに足る可きもの無く又人民本業の基本と云ふを得ず、如何となれば官吏と云ふばかりにて何も知らざる事は人民に異る事無く唯外国人の指揮一途に拠るものにして日本人男女の精神を支配するを得ざればなり、則ち製糸の業は精神的の業なるを知らざればなり (堅曹自叙伝『六十五年記』)

富岡製糸場のような官営の大工場は器械はいいものを揃えられ良質の製品は作り出せるが、果たして経済的には成り立っていない。それでは模範工場とは言えないではないか。

製糸のことを何も知らない役人がただ外国人の言いなりに指導しているだけではだめだ。製糸業とはそこで働く人の精神的なところを支配できなければうまくはいかない。

と、ただただ役人が利益をだすことも、工女たちの教育も考えずに工場を運営していることを批判しています。

つづく。


富岡製糸場 ③

2007-11-23 02:29:02 | 富岡製糸場

これから堅曹さんと富岡製糸場の関わりを少しずつ書いていきます。何回くらいになるか見当がつきませんが、どうぞお付き合いください。

「堅曹と横浜①、②」で書いたように明治3年(1870)6月スイス人ミウラーから技術を習い日本ではじめての器械製糸場「前橋製糸所」を作った堅曹さん。

その最初の器械製糸の快挙は全国の養蚕製糸家に届き、日本中からこの小さな製糸所に伝習生がやってきます。



ちょうどその頃、政府でも日本の国力をつけるためには良質の生糸をつくり輸出することが必然ということで官営の器械製糸場をつくるという計画がはじまります。

明治3年(1870)10月製糸場設置の場所を決めるための視察がおこなわれます。

十月十九日民部省ヨリノ達ニ拠リ富岡ニ行く、地理権頭杉浦譲・尾高庶務・少佑并外人ブリュナ氏ニ面談、新建製糸場ノ利害ヲ論ス、尾高上手ノ言アリ、同廿日出立、夕観民ニ帰ル、是富岡ノ地理見分ナリ

十月廿八日富岡エ出張ノ役々来ル、予応接ス (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)

堅曹さんは民部省からの要請で富岡に行き、地理見分の責任者杉浦譲、後に初代所長となる尾高淳忠、お雇い外国人ブリュナらと会い泊りがけで新しく建てる製糸場の利害を論じています。

9日後彼らは見分を終わって富岡から帰る途中前橋に寄り、堅曹に会って「前橋製糸所」を見学して帰ります。

この政府一行の視察の結果、官営製糸場は富岡に作ることが決定されます。

堅曹さんは富岡製糸場の3代、5代の所長として知られていますが、すでに場所の選定のころからアドバイザーのような形で富岡製糸場にかかわっていたのです。



富岡製糸場はここから2年の期間をかけて建設がはじまります。ブリュナが総指揮をとり横須賀造船所にいたフランス人バスチャンに設計をさせます。

「富岡製糸場 ②」でご覧のように建物には大量のレンガが使われています。「木骨レンガ造り」という工法で木の骨組みの間にレンガを積み入れてつくられています。

Cimg1923「木骨レンガ造り」

このレンガ、まだ日本では作ったことがなかったのです。そこで地元の瓦職人が指示をうけ、試行錯誤しながらレンガを焼いていきます。

明治4年

六月十七日富岡ニ行尾高ニ逢、煉化石製造ヲ一覧ス、十八日尾高ト共ニ福島村ニ至焼立ヲ見、同日帰宅ス (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)

堅曹さんは富岡で尾高に会いレンガの製造現場を視察し、翌日福島村(群馬県甘楽町)のレンガの焼き場を見に行ったりしています。

Cimg1926_2 当時のレンガ 「フランス積み」というレンガの長い面と短い面が交互になる積み方。 よーく見ると左下のあたりに職人さんのマークがあります。(クリックしてみてください)



そうして日本で未曾有の大工場がわずか1年半の工事でできあがります。しかし建物だけできてもしょうがありません。そこではたらく人々を集めなくてはいけません。

糸をひく工女さんたちを400人も集める予定でした。

しかし、フランス人が飲むワインをみて外国人は若い娘の「生き血」を飲んでいるといううわさがたち、なかなか工女が集まりません。

明治5年

九月二日富岡尾高、製糸工女募集依頼ノ為来ル (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)

困った所長の尾高さんは堅曹さんのところに工女募集の依頼にやってきます。

結局、尾高さんは生き血を吸われるなどということはないという証明のために自分の娘を真っ先に工女にして、なんとか集めることができました。



このようにして富岡製糸場は明治5年(1872)10月開業します。

十一月十五日富岡製糸場ニ至リ尾高ニ逢ツテ業場ヲ一見ス (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)

堅曹さんも一覧しに行きました。

つづく。


富岡製糸場 ②

2007-11-18 00:28:50 | 富岡製糸場

                     Cimg2013

現在の富岡製糸場です。

Cimg1899          Cimg1900



門を入って正面が「東繭倉庫」といわれる建物。長さ104,4M、高さ14M、幅12,3M

Cimg1909   Cimg1952 東繭倉庫

    

明治5年と彫られた「キーストーン」がはめこまれたアーチの下をくぐり抜けると広場があります。

昔、堅曹さんが所長のころは「大庭」と言われていました。毎年お正月に堅曹さんはここで4,500人の工女さんたちに話をし、新年のお祝いをしました。

Cimg1912   Cimg1917



「大庭」の突き当りが「西繭倉庫」です。大きさは「東繭倉庫」と同じです。

Cimg1915 西繭倉庫



戻って「東繭倉庫」の隣にはこれまた大きな「繰糸場」があります。

明治村にあった「ブリューナ・エンジン」で動かされる繰糸器械がおかれていた製糸工場本体です。

Cimg1925   Cimg1935 繰糸場

Cimg1936 こんな感じで工女さん達は働いていました。



「繰糸場」の先には「ブリューナ館」があります。ここはお雇い外国人、フランス人のポール・ブリューナが住んでいたのでそう名付けられています。

堅曹さんも明治13年(1880)~明治26年(1893)はここに住んでいました。

Cimg1938 ブリューナ館



もっと進むと突き当たりで鏑川の上にでます。遠くに山並みが見え、高い位置から川を見下ろします。

Cimg1943 鏑川



入り口のほうに戻って「東繭倉庫」の前には当時のフランス人工女やフランス人検査技師の住まいだった「2号館」「3号館」があります。

Cimg1929 2号館

Cimg1954 3号館



いま見学できる建物をざっと紹介しましたが、これらの建物の特徴や作られたときのエピソード、生糸の話などまだまだたくさん説明したいことがあります。

それらをまとめて富岡製糸場をやさしく解説した本があります。

富岡製糸場世界遺産伝道師協会がつくった

世界へはばたけ!富岡製糸場~まゆみとココのふしぎな旅~』 上毛新聞社発行 定価840円です。

子供向けに書かれたものでほんとに基本的なことから説明されているので、大人にとっての入門書としては最適です。

おすすめします。どうぞお読みください。


富岡製糸場 ①

2007-11-15 09:11:33 | 富岡製糸場

        Cimg2004

教科書に載っている錦絵で多くの人に知られている「富岡製糸場」。

明治維新後の官営工場の代表として取り上げられる「富岡製糸場」。

あァ聞いたことある、なんか絵も浮かぶ、という方が多いんじゃないでしょうか。



実際5年前の私もそうでした。

うちの先祖の速水堅曹さんが富岡製糸場の所長をしていた、と知ったときはあぁそうなんだ、と製糸場の存在は知っていたという程度でした。

富岡製糸場は明治5年(1872)、明治政府が群馬県富岡市に設置した製糸場です。

当時の日本は明治維新後急速に近代化を進めていた時期であり、その資金を稼いだのが最大の輸出品、生糸でした。ところがこの輸出ブームは粗製濫造を産みだし、急速に日本生糸の評価が下がりました。そこで政府は最新式製糸器械を備えた模範工場をつくり、生糸製造の改良を行うこととなりました。

工場建設は明治4年から始まり、翌年7月に竣工、10月には歴史的な操業が開始されました。繭を生糸にする繰糸工場には150台(300釜)の繰糸器が置かれ、約400人の工女達の手によって本格的な器械製糸が始まりました。 (群馬県HPより)

しかし、その製糸場が残っていると聞いた時はものすごく驚きました。

だって遠い遠い昔の建物で、とっくになくなっていてもおかしくない、むしろ残っているというほうがにわかには信じられないです。

でも、本当にほぼ当時の姿のまま残っていました。



私がはじめて富岡製糸場に行ったのは平成14年(2002)10月17日の夕方でした。

先祖調べをはじめてまだ一ヶ月。

その日は朝から群馬県立文書館へ行き、はじめて寄託されている速水家文書をみせてもらい、コピーをとって、夢中になって読んでいました。

帰り道ふと、まだ富岡製糸場の見学は間に合うかもしれないと思い電話をして確認。やはり一度は見ておこうとおもい、急いで向かいました。

当時は片倉工業(株)が管理をしており、平日外観だけ見ることができたのです。

あと30分ぐらいしかありませんでしたが、到着して門の中へはいりました。

はじめて見る製糸場。大きかったです。

見上げるようなレンガつくりの建物。

「明治五年」と書かれているキーストーン。

  Cimg1907

本当に昔のままなんだ。130年も前の建物なんだ。

まさかこんなにちゃんと残っているとは思ってもみなかった。一瞬にしてタイムスリップしたかのような感覚。

ということはこの建物の中で堅曹さんは仕事をしていた。この地面の上に立っていた。

この景色を、この空を眺めていた。

そう思っただけで感動というより感激してしまったのを昨日のことのように鮮明におもいだします。



あれから5年。

いろいろなことがありました。

はじめて見にいった頃はすでに昭和62年(1987)に製糸場の操業は停止していて、ただ建造物として片倉工業(株)が保存管理していました。年間莫大な費用をかけて。

そのためいつ壊されてもおかしくない不安定な状況でした。

私はいつまでも残してほしい、と心の底から願いました。

翌年の平成15年(2003)夏、群馬県知事から富岡製糸場を世界遺産に登録したいと提案があり、その方向で進んでいるという発表がされ、私は万歳をしました。

平成16年(2004)いよいよ世界遺産運動が県ではじまります。

私はいてもたってもいられず、なにか私のようなものでもお手伝いできないか、といきついたのが草の根ように県民に世界遺産運動を知らせて盛り上げていく、伝道師というボランティア活動でした。

それから群馬通いがはじまります。3日間の養成講座をうけ、研修も折々受講し、富岡製糸場のこと、世界遺産のこと、養蚕製糸のことを習いました。

駅でビラ配りをしたり、イベントのお手伝いをしたり。

そんな3年間をへて、昨年(平成18年)7月富岡製糸場は国の重要文化財に指定され、

今年(平成19年)1月みごと「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定リストに記載されました。

うれしかったです。ドキドキして発表をまちました。


今の富岡製糸場。それはそれは見学者で大賑わいです。

だれもいなかった静かなたたずまいの5年前とは随分ちがいます。

つづく。


秋のおでかけ4連ちゃん

2007-11-11 23:58:03 | グルメ

ここのところ出かける用事が続きました。えらい勢いです。

いろいろ見たり、聞いたり、勉強したり。

情報も得ました。遊びもありました。美味しいものも食べました。



11月8日は天気もよかったので早起きして久しぶりに富岡製糸場へ行ってきました。一度きちんとブログの記事に載せたいとおもい、写真をとるのが目的です。(近いうちアップしたいとおもいます。)

午前中見学して午後は前橋の県庁へ向い、世界遺産伝道師協会の「歴史ワーキンググループ」の勉強会に出席しました。情報交換や相談ごとも多々あり、あっという間に時間が経ってしまいました。


翌9日は遊びの一泊旅行です。気の置けない息子のスポーツクラブ時代の母親たちの集まりです。

年一回近場にいきますが、同年代でいろんな話題で盛り上がり、話まくり、楽しい時間をすごします。

今回は三浦半島です。城ヶ島や三崎港へ行き、おいしいマグロや魚介類を堪能しました。

Cimg1972

「アオリイカのお刺身」 まだ足がピクピク。透き通った身はとろ~と、とろける様に甘かった。      


Cimg1976 

「中トロ丼」 三崎のマグロはうまいね。幸せを感じてしまいます。


Cimg1974_2

「金目鯛の煮付け」 絶品の味付け。はじめて目玉食べました。コラーゲンたっぷり。


Cimg1973

サービスでつけたもらった「ゲソ焼き」。ついついビールを注文です。



翌10日は横浜へ行き、大桟橋から横浜港をみて、中華街でお昼ご飯。

わたしはそこで皆と別れて、横浜美術館へ。月に一度の「原三溪市民研究会」の日です。

膨大な量の原稿を皆で手分けして索引作りのための作業をしました。自分に割り当てられた分を項目別にすることに集中。がんばりました。

帰りは先生、仲間とちょっと喉を潤して、解散。

やっと家に帰り着いて、バタン・きゅうです。



そして今日(11日)は前橋市立図書館で行われた「『前橋藩松平家記録』を読む会」に堅曹の姉うめさんの子孫夢酔い人Kさんと同じく子孫のNさんと共に参加しました。

とっても遠い親戚3人が集まりました。

この会は平成6年から続いているもので、前橋藩の残された記録を講師の先生が読んで解説をしてくださいます。

今回は堅曹さんが日本で初めての器械製糸所を作ったことの記録がふくまれています。親戚の藩士、遠藤鏘平さんや宮澤熊五郎さんもでてきます。

講師の先生は何十年もかけて古文書『前橋藩松平家記録』をすべて翻刻し、40巻もの本になさいました。

この会も今回の「明治元年(1868)~明治4年(1871)」で最終回です。「廃藩置県」により前橋藩はなくなり県となったのです。


会が終わってから夢酔い人Kさんや久しぶりにお会いしたNさんとたくさん話をしました。

130余年まえにもここ前橋城(市立図書館は城跡)で、もしかしたらそれぞれの先祖(皆、前橋藩士)が同じように話をしていたかもしれません。

そんなことを思わせる一コマで、不思議なご縁を実感しました。