大規模な官営の富岡製糸場を場所の選定の段階からみつめていた堅曹さん。当時はどんな風に考えていたのだろうか。
工事が始まった頃(明治4、5年)は日本で初めての器械製糸ということで堅曹さんのつくった「前橋製糸所」には全国から見学者が訪れ、多くの伝習生をうけいれ指導をしていました。
それと同時に時代が藩から県へと移行し、藩営としてはじめた横浜の生糸売込問屋「敷島屋庄三郎商店」と「前橋製糸所」の所有権をどうするかという問題が持ち上がり、そのことについてあちこち折衝に当たっています。
そんな現実的な問題を処理しながら、一方で器械で品質の均一な良い糸をつくることが国益につながるという信念を持ち、その普及に努めていました。
しかしそうした中から器械製糸の発展には単に器械製糸所を増やすだけでいいのかという疑問がみえてきたのです。
本業の得失器械の便否及需要者則ち欧米の情実等を知る者一人もなく動もすれば有害に陥らん事を恐るゝの情態なりき。 (堅曹自叙伝『六十五年記』)
まだ製糸業の得失や器械のメリット・デメリット、そして欧米の実情を知る者が一人もいないために、製糸所だけ作ってもかえって有害になってしまうおそれもある、と考えています。
ちょうどその頃福島県令より二本松城址に製糸場をつくりたいので是非きてほしいと懇請され、明治6年(1873)器械製糸場の設計・建築から技術指導・経営まですべてを指揮するために福島に行くことになります。
そこで堅曹は経営については県として官営ですることに反対し会社組織にしてすることを断固として押し進めます。
三月十八日福島ニ着ス、是より県令ト日々製糸改良ノ利害及官民執業ノ分別、地理人情ノ適否等痛論シ県令ノ意に随ハス、流石ノ令モ困却セリ、廿八日ニ至リ二本松ニ行、(中略)然レトモ官行・民行及会社ノ件ニ付又大ニ論ス、我ハ官行ノ不可ナルヲ知レハナリ、而シテ終ニ会社ノ組織ヲ以新築ノ談決ス、 (『堅曹履歴抜粋 甲号自記』)
そうして日本ではじめての株式会社といわれる「二本松製糸会社」を立ち上げました。
この会社組織とした「二本松製糸会社」は経営陣にも恵まれ大成功し、軌道に乗せた堅曹さんは一年後前橋に戻ってきます。
多くの経験をとおして堅曹は危惧していました。
一年前に華々しく開業した富岡製糸場。官営で300釜という巨大な工場。
富岡製糸所の如きは官業なれば事業は大にして器械は盡せり製品は則ち精なりと雖も肝腎の経済上に於て取るに足る可きもの無く又人民本業の基本と云ふを得ず、如何となれば官吏と云ふばかりにて何も知らざる事は人民に異る事無く唯外国人の指揮一途に拠るものにして日本人男女の精神を支配するを得ざればなり、則ち製糸の業は精神的の業なるを知らざればなり (堅曹自叙伝『六十五年記』)
富岡製糸場のような官営の大工場は器械はいいものを揃えられ良質の製品は作り出せるが、果たして経済的には成り立っていない。それでは模範工場とは言えないではないか。
製糸のことを何も知らない役人がただ外国人の言いなりに指導しているだけではだめだ。製糸業とはそこで働く人の精神的なところを支配できなければうまくはいかない。
と、ただただ役人が利益をだすことも、工女たちの教育も考えずに工場を運営していることを批判しています。
つづく。