堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

近況 その1 講演会と速水家跡取り誕生!

2014-11-25 03:15:18 | 日記・エッセイ・コラム

8月末に『速水堅曹資料集』と『生糸改良にかけた生涯』の本が出来た報告で、

ブログもストップしてしまいました。

近況報告いたします。



本が自宅に届いてからすぐに堅曹さんのお墓に行って、

2冊供えて報告しました。

ついにこの日がきたんだ、と万感胸に迫るものがありました。

Cimg5445 本を供えて堅曹さんに報告




翌日は「日本製糸業の先覚 速水堅曹を語る」の講演会でした。

本ができ、速水堅曹の講演会が行われるとは、

ほんとうにこれまで12年間やってきたことの集大成となります。

いろんな方のお力添えがあって、この日を迎えることができた、と

喜びと緊張と、ごちゃ混ぜの気持ちでした。



講演会当日の早朝、一本の電話で起こされました。

長男から、子供がもうじき産まれそうだ、という朗報!

はじめての子供で、予定日はまだ10日も先のはず。

急な知らせで、聞いた私は驚くばかり。

どうしよう、講演がおわったら駆け付けるか、どうするか。

頭の中はグルグル、あちこち電話して、

「MAXで落ちつかない!!」と友人にメール。

とにかくいろんな支度をして、前橋の講演会場へ向かう。


1時間もしないうちに、「生まれた!男の子だった!」の電話がはいる。

速水家の跡取り誕生である。

こんな日に生まれてくるなんて、なんというタイミングなんだろう。

人智の及ばない、大きな力を感じないではいられない。

高速道路を運転しながら受けた感激の一報は、一生忘れない。



さて、「速水堅曹を語る」講演会はおおぜいの人がいらしてくださった。

定員200名のところに300名以上の来場者でした。

石井寛治名誉教授の講演は素晴らしかったです。

堅曹の功績をきっちりと語ってくださった。

          055 上毛新聞 8月31日



内海孝名誉教授のシンポジウムでの発言はとても興味深いものでした。


お二人と並んでのシンポジウムでは、たいへん緊張しましたが、

とにかく私に話せることを、とおもい、一生懸命伝えたいことを話しました。

Photo


会場で販売させていただいた新刊本2冊も、たくさんの人が購入してくださいました。

ほんとうにありがとうございます。


生涯忘れることのできない、素晴らしい日となりました。


年が明けて

2013-01-24 02:59:22 | 日記・エッセイ・コラム

新しく年があけて2013年となりました。

ことしは堅曹さんが亡くなって100年目。

没後100年です。


さあ、まとめるぞ、これまで調べたことを!

と今年の目標です。



すでに半月以上たちましたが、いろいろなことがありました。

備忘録のように


1月11日  長谷川等伯筆「松林図屏風」を見に行く。

東京国立博物館で新春特別展示をしていた国宝「松林図屏風」をみてきました。


Cimg1421 松林図屏風


初めて本物を拝見。

その透き通る静謐な美しさに心が引きこまれます。

いつまでも見ていたかった。



ほかにも

拝見は2度目ですが、下村観山筆「弱法師」


Cimg1434 弱法師


松永耳庵旧蔵の茶道具などを見ました。


Cimg1428 大井戸茶碗





1月12日 原三溪市民研究会で川島瑞枝さんの講演会をおこなった。


Cimg1441 川島瑞枝さま


川島さんは富岡製糸場でポール・ブリュナの通訳を務めた川島忠之助のお孫さんです。

彼はその後蚕種をイタリアに売りにいく一行と共に世界一周をし、

横浜正金銀行員となってリヨン、ボンベイ、東京支店長などを歴任して取締役となった。

そしてジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を日本ではじめて訳した人物として知られました。


その先祖のことを書いた本『わが祖父 川島忠之助の生涯』を

4年ほど前に読みました。(このことを書いたブログ

昨年末紹介してくださる方がいて、その川島さんとお会いすることができ、

今回原三溪市民研究会で講演していただくことになったのです。


川島忠之助は堅曹と生糸でつながる人物です。

きっと二人は会っていただろうし、よく調べると堅曹の息子が正金銀行に入った時、中島忠之助は取締役でした。


そんな堅曹さんと関係のある人物のお孫さんと会えるのは、

不思議な繋がりを感じ、本当にうれしいです。

お孫さんの口から語られる忠之助の人生はまた格別のものでした。



1月16日、この日は朝からソワソワ。

そう、直木賞の発表があったのです。

今回受賞した『等伯』は日経新聞で連載中からずっと読み続けていて、(その時のブログ

昨年11月に取手の瑞法光寺で作者の安部龍太郎さんの講演会をしました。



Cimg1146 安部龍太郎さま


そのころから直木賞を取るのではないか、って密かに思っていました。


絶対に受賞してほしいと願い、

夕方6時から「ニコニコ生中継」をつけて発表を待ちます。

7時40分過ぎ、やっと発表された時はPCの前でバンザ~イ!!

すぐあちこちに電話して知らせ、

記者会見を食い入るように見ました。

安部さんの語る言葉にいちいち頷いたり、拍手したり。

「虚心坦懐」という言葉が印象に残った

とてもいい記者会見でした。(ここで見れます)



1月17日

堅曹さんの100回目の命日です。

昨年百回忌はおこなったので、今年は墓前でお経をあげてお参りをしました。

2日前の大雪ですっかり白くなった墓地にはいり、

堅曹さん、さむい寒の内に亡くなったんだな、とあらためて思う。

いろんなこと、報告しました。


Cimg1455 雪の残る堅曹のお墓


80斤の大砲

2012-01-19 12:59:38 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、靖国神社に行ってきました。

なぜか?

お参りに行ったわけではなく、

奥の「遊就館」に屋外展示してある大砲を見に行ったのです。


Img_4481 遊就館



昨年末、堅曹の足跡をたずねて品川に台場跡を見学に行きましたが、

その幕末の台場に据え付けられていた大砲の実物がそこにある、と教えてもらったからです。

堅曹は台場で4ヶ月間大砲を撃つ練習をしていました。

それと同じものがある、といわれれば見てこないわけにはいきません。



さて、建物の前には左右に1台づつ大砲が置かれています。

向かって右側のがそれでした。


Img_4488_2 八十斤大砲



これは説明板によれば

「青銅八十封度陸用加農砲」(80POUND BRONZE CANNON)

というもので、湯島馬場大筒鋳立場で造られたものだそうです。

堅曹の日記には「八十斤大炮」と書かれています。


Img_4493 説明板


青銅製でピカピカです。

近づいてよくみると、実にしっかりとした重厚なものです。

ためしにちょっと持ち上げようとしましたが、もちろんビクともしません(笑)


80ポンド(=約36キロ)とは砲弾の重さのことだそうで、

それを詰めるだけでもきっと大変だったでしょう。


Img_4491 八十斤大砲



想像していたより、すごいな~、とおもいました。

これを扱っていた堅曹の姿がまたいろいろ浮んできました。


品川へ堅曹の足跡をたずねて

2011-12-30 23:58:17 | 日記・エッセイ・コラム

12月15日はとても暖かな日でした。

この日に堅曹の姉の子孫の方たちと品川方面の見学にいきました。


堅曹は17歳(安政3年)のとき、川越藩士として第一台場の警備の仕事に4ヶ月間たずさわっています。

川越藩は藩の下屋敷も高輪の二本榎にあり、その屋敷のこともしばしば堅曹の日記にでてきます。

第一台場は現在はありませんが、第三台場が現在お台場公園として残っており、

その他台場関係の遺構のあるところを見て歩きました。



品川駅に朝10時に待ち合わせ。


Img_4204 品川駅前



そこから高輪方面に歩いてまずは東禅寺。

幕末にイギリス公使館がおかれていた寺です。

オールコックが駐在して、攘夷派による襲撃事件があったところで有名です。


Img_4208 東禅寺




そこから裏道をこちょこちょこと歩いて、日蓮宗の承教寺へ。


Img_4229 承教寺


大檀林と書かれていて、ここは立正大学の発祥の地となります。

現在は池上にある日蓮宗の宗務院もこのとなりにあったそうです。

山門脇には二本榎の碑があります。


Img_4237 二本榎の碑




ここから二本榎の通りを歩きます。

通りはおもっていたより交通量もおおく、道幅も広く、地図で想像していたのとは違いました。


Img_4251 二本榎通り


高輪警察署前の交差点には昭和8年落成のこんなレトロな建物の高輪消防署も。


Img_4249 高輪消防署二本榎出張所




古地図を見ると通り沿いは大名屋敷と寺がずらっと並んでいます。

現在も寺はそのまま残っているところが多いです。

高野山東京別院がとても立派に残っており、その向かいが川越藩の下屋敷でした。

しかしこちらはたくさんのマンションとなっています。


Img_4257 川越藩下屋敷跡あたり


下屋敷があったのはこのあたりまでかなあ、と古地図とくらべて皆で大きさを確認。

大名屋敷って大きかったんですね。



さてその通りを御殿山方面へむかって下っていくと、

堅曹が実際に仕事をするために寝泊りしたであろう

川越藩第一台場付属の陣屋のところにでます。

八つ山交差点のあたりです。


Img_4294 第一台場陣屋跡にあるマンション入口


ここはいまは高級マンションと財閥の迎賓館になっていますので、なかを覗く事はできません。



この品川駅前あたりは現在は海ははるか遠くですが、

当時はすぐ目の前が江戸湾でした。

堅曹さん、タイムスリップして現在のこの場所をみたら、全く違ってしまって驚くだろうな、とおもった。


八つ山交差点から旧東海道の品川宿のあったところを歩いていきました。

今も商店街になっていて、賑やかです。

台場小学校のところに陸続きの御殿山下台場の記念碑があるのでそれを見学しました。



Img_4317 御殿山下台場跡記念碑


かわいらしい品川灯台の模型が石垣の上に建ててあります。



次は第四台場跡に建てられた天王洲アイルまで歩いていきました。

ボードウオークの下に当時の石垣がそのまま使われている、というので

なんとかそれが見えるところから写真をとりました。


Img_4334_2 第四台場の石垣




りんかい線に乗ってお台場海浜公園へむかいます。


Img_4345 お台場海浜公園



ここは第三台場の遺構で、台場がどのようなものだったか実際にみることができます。

何十年も前に子ども達と遊びに来た時はあまり知識がなく、

ましてや先祖が台場で仕事をしたなんてことも知らなかった。

でもとても印象に残っていた場所なので、今回また来れるのを楽しみにしていました。


Img_4367 第三台場入り口



周りは高い土塁になっていて砲台があり、真ん中は広くて窪んでいます。

そこには陣屋があり、火薬庫があり、かまどがあります。


Img_4351 砲台跡


Img_4359 陣屋跡


Img_4350 なかの窪地全体


堅曹さんはここで少年武士としてちょん髷、着物、わらじの姿で

毎日大砲の練習をして警備をしていたんだろうな、と想像がふくらみました。

今度はこちらがタイムスリップしたような感じです。



最後はお台場からゆりかもめで第六台場を見ながら新橋まで。


Img_4356 第六台場


予定通り3時半過ぎにJR新橋駅に到着してここで解散です。


歩いた距離は合計12キロメートル、1万7000歩余りでした。

天気に恵まれ、よく歩き、とてもたのしい見学会でした。


日経新聞小説「等伯」

2011-10-25 18:27:19 | 日記・エッセイ・コラム

日本経済新聞の朝刊に連載されている「等伯」(作者:安部龍太郎)に

ただいま夢中です。


この夏にある方から

「「等伯」の小説がすごくおもしろいよ。」と勧められた。

我が家は日経をとっていなかったのでその小説のことは全く知らず、

それならば図書館に行った時にでも読んでみようか、とおもっていた。


10日ほど経ったある日、その方が今度は我が家に

8月はじめの20回分の新聞の切り抜きを送ってきた。

「え~! そんなに私に読ませたいの?」

とちょっと驚きつつもその切り抜きを読んでみると、グッと引き込まれた。



「等伯」とは安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した絵師・長谷川等伯である。

いま日本画家の人気投票をすると必ずベスト3に入る画家である。

小説はその彼の生涯を歴史的事件を背景に描き出している。

等伯は日蓮宗の熱心な信者であり、多くの仏画も手掛けているが、

その信仰が絵の修行への導きとなっている絡みも実によく書けている。



さて、送られたきた新聞小説の続きが読みたくなり、熟考の末

ついに、日経電子版を契約してしまった。

なんだか、明治時代の発行部数をのばすため小説で競った新聞合戦の様相みたいだ、

と内心笑ってしまった。

お陰で続きは毎日読んでいる。



この小説は今年の1月から連載がはじまっているので、

私は200回分ほど読めていない。(電子版では以前のものは読めない)

時間を作って図書館に行き7ヶ月分を読むしかないか、とおもっていた。


そうしたら先日の岐阜スタディツアーのとき、Kさんが

「私、その小説大好きで、初回から全部切り抜いてスクラップブックに貼ってとってある」というのである。

驚いた! そんな人がいるなんて。


早速それを貸してもらうことにした。

それがこれ。


Img_3813 切抜きを貼ったスクラップブック



うれしくて、一気に読みました。

感動です。

幾度か物語のクライマックスがあり、涙なくしては読めない場面もあります。



きっと連載が終わったら単行本にはなると思うけれど、

「今読んだほうがいい!」 という

何かしらの啓示で私はこの小説を読むようになっているのだろう、と思えてならない。

不思議な経験である。