なんやかやと落ち着かない生活をしていて、ブログの更新が間延びしています。
九州の旅行記が3週間もかかってしまい、読んでくださっている方に申し訳ない。
さて10月に入って最初の日曜日に藤沢のEさんに誘われ、横須賀見学に行ってきました。
これは堅曹さんの姉の子孫にあたるEさんが、
ご自分の先祖、川越藩士だった遠藤鐘平さんらの足跡を調べて、
黒船がやってきた幕末の時代、浦賀が含まれる相州警備の任についていたことがわかった。
堅曹さんの日記にも記述があります。
弘化三丙午年 (堅曹)歳八
相州二異国船来ル 鐘平出張ス
[速水堅曹履歴抜粋甲号自記]より
川越藩は江戸湾岸の警備を仰せつかり、藩士らは相州の地の浦郷、大津、鴨居の陣屋に行き多くの台場を築造したという。
その陣屋の跡地や有名な浦賀湾、ペリー来航の記念館などを見学しようと、
Eさんがいろいろと調べて準備をしてくださった。
いまでは様変わりをしていて、ほとんどが解説板があってここがそうだったのか、とか
古地図と現在の地図を照らし合わせて場所を確定したりするしかありませんでした。
そこで海から陸地を眺めて、湾の広さや入り江の具合などを見学するのもいいかもしれない、とクルージングを取り入れた見学となりました。
さて、当日はとてもすばらしい秋晴れとなり、
こころウキウキして集合の横須賀中央駅に向かいました。
三笠桟橋からシーフレンドⅢ号に乗り、猿島経由で観音崎まで行きます。
所要時間35分。
船からは昔川越藩の陣屋があった大津陣屋のあたりの地形を見ました。
下船して観音崎灯台にむかいます。
ここは明治2年日本ではじめてつくられた洋式灯台で、現在は3代目です。
穏やかな東京湾が目の前に広がります。
灯台の少し先のところには川越藩がつくった鳶ノ巣台場がありました。
ここからは自動車で移動します。
入り江に沿って車を走らせ、湾岸警備をしていた先祖たちが拠点とした場所を辿っていきます。
まずは東浦賀地区で鴨居陣屋跡。
案内板がありました。
有名な浦賀湾にいきます。
おもっていたより、ずっと小さな港です。
咸臨丸が出港するとき勝海舟が航海の無事を祈って、ここで断食をしたと伝えられている東叶神社を見ました。
小さな湾ですが渡し船があり、それに乗って向かい岸へ行き番所跡の碑をみました。
そこから浦賀湾西岸の先端にある燈明堂に行きました。
その先の突き出たところに千代ヶ崎台場がありました。
たっぷりと東京湾の浦賀海峡をながめました。
眼のまえには千葉の富津岬や鋸山が見えます。近いのですね。
大型客船、軍艦、漁船、タンカー等々、たくさんの船が行き交っています。
船好きなら一日見てても飽きないという。
遠く150年も前、ここに今まで見たこともない巨大な黒い蒸気船があらわれ、人々は度肝を抜かれたという。
その場にやってきて、実際に海辺にたつと、実にリアルな感覚にとらわれた。
先祖たちがそこに遭遇していたという事実は、絵空事ではなく現実味をおびた身近な話となり、気持が150年まえに飛んで行ってしまいます。
当時の人々の気持ちがわかるような気がして、不思議でした。
ほんとうにこの地に来てよかったとおもった。
先祖調べで幕末明治時代をちょこちょこ調べている私にとって、
開国のはじまりとなるこの大事件の場所に立てたことは、何にも代えがたい体験でした。
海辺の景色を満喫したあとはペリー公園へ。
伊藤博文の揮毫する大きな碑を見ます。
記念館も見学しました。
次はクルージングで海からながめた大津陣屋の跡地にむかいました。
9800坪という広大な川越藩の陣屋でしたが、現在それを示す遺跡は大津中学校の入口にある小さな石橋のみです。
最後は金沢文庫まで足をのばし、そこでちょうど行われている「幕末明治の横浜・金沢展」を見ました。
隣の称名寺も見学。
夕方まで、目いっぱいの横須賀見学となりました。
天気に恵まれ、下調べの完璧な案内は最高でした。
Eさんありがとうございました。
九州の旅4日目。
最終日9月27日、長崎。
泊まったホテルの目の前が長崎港。
堅曹さんは熊本三角西港から汽船平安丸にのり、長崎港に着いたのが明治21年4月5日。
3日後の4月8日午後、長崎港から乗船して下関、神戸をまわって横浜港へと帰った。
『六十五年記』より
同八日・・(略)・・午後一時去て知事来、暇ひを為して乗船す。此港にて
わが庭と思ふものから外国の 船賑わしき長崎の海
同九日下の関に着。上陸せず此港にて
あら浪をうしろに前の海原は 風も治まる下の関かな
同十日神戸に着。・・(略)・・
同十一日・・(略)・・十一時乗船、衆人送り来る。
大阪をひだりに右は淡路しま 船の出入る神戸港に
遠州は浪荒くして何の景色もなく、切に我家を思ひ
同十二日夜横浜に着。
その長崎港をしっかり見ようと朝早く起き、港へ行ってみました。
早朝なのに散歩している人や船を見ている人が多い。
よく見るとちょうど松ヶ枝埠頭に外国の客船が入港したようだ。
Costa Classica 52,926トン
接岸が行われていた。
気持ちのいい朝の空気を吸いながら、長崎港をゆっくりと歩いてみた。
きれいに公園に整備されている。
多くの船が出入りし、向かい岸には造船所もみえる。
大浦バント(海岸通)には
「旧香港上海銀行長崎支店」と「旧長崎税関下り松派出所」という建物が残っており、
当時の風情を感じさせる。
長崎港を満喫したあとは、ホテルの11階で朝食をとり、眼下に港を眺めた。
8:30 チェックアウトして長崎駅へむかう。
9:25 特急かもめ12号にのり、博多駅へ。
11:30 新幹線のぞみ26号に乗り継いで 16:14 新横浜着。
今朝、娘が出産をしたとの報を聞き、産院へ駆けつけた。
「あなたの生まれるときは長崎にいたのよ」って一生云いそうだ。
今回堅曹さんが訪れた九州を自叙伝に沿って追ってみたが、
文章を読んで想像していたのより、ずっと山道が多く、
こんな遠くからはるばる富岡まで、工女さんや先覚の人たちがやってきたのかとおもうと、
いったいどれほどの覚悟をもってきたのかとおもわずにはいられなかった。
日本の製糸業の先駆者が作った、それぞれの土地の嚆矢となる製糸場の跡地を見て、
当時の士族授産として、また民営の活力とするべく新しいことに挑んだ先人達の苦労の数々がしのばれた。
深く深く心に刻まれる旅となった。
九州の旅も3日目です。
9月26日、晴れ。
宿庵研屋の方の深々としたお辞儀に見送られ、
8:30出発。
まず、熊本城近くの公園にある「横井小楠をめぐる維新群像」を見にいきました。
これは平成12年(2000年)に建てられたものです。
長野濬平もあります。
次に大江町のダイエー熊本店のところにある、熊本製糸跡を見にいきます。
9:40 ダイエー着。
ここは長野濬平が明治5年に蚕業試験場を建てた場所で、その後明治26年熊本製糸となりり、
昭和55年まで代々長野家が経営してきた熊本製糸の跡地です。
駐車場の一角に製糸工場時代の大煙突の一部を残し、記念碑としています。
煙突の中には「熊本製糸大煙突の記」と
「昭和天皇の二度の行幸を記念して」という文章のレリーフがありました。
読んでみると、
「始祖長野濬平翁は城北の人、横井小楠先生の門下で養蚕立国を志し先進地を視察して明治五年県に建策しこの地に蚕業試験場を建てた。その後幾変転、明治二十六年熊本製糸合資会社を創立して尓後の基礎を築く。・・・・・」
なかなかにいい文章です。
敷地内には熊本製糸を引継いだ「東亜シルク㈱」もあります。
土曜日だったため、会社はお休みでした。
10:00大江町出発。
次に向かったのは南東へ20km程行った甲佐町です。
熊本市内から445号線と443号線を通っていきます。
ここは緑川沿いに「やな場」があり、そこを目指します。
そのやな場の駐車場に緑川製糸場の碑があるというのです。
緑川製糸場とは、明治8年長野濬平や嘉悦氏房らが、九州最初の器械製糸所として
群馬で修行をしてきた長野親蔵を支配人としてこの地に建てた製糸場です。
10:50 甲佐町 甲佐やな場着。
のどかな田園風景のなかゆったりと流れる緑川のほとりにそれはありました。
徳富蘇峰揮毫による石碑の上には糸車を手にした蚕神の像がのっています。
裏面にはやはり徳富蘇峰による製糸場の由来等がかかれた文章が彫ってあります。
昭和29年建立で蘇峰92歳の文章です。
となりには濬平の孫、長野簡悟の和歌の碑もあります。
徳富蘇峰は父の一敬が長野濬平と同じ横井小楠の門下生で、
熊本の養蚕製糸を近代化させるため一緒に尽力しています。
蘇峰の姉音羽もここで働いています。
そのようなつながりで自分が経緯を書き残しておかなければ、というおもいで筆をとったのだろうとおもった。
ダイエーのところの碑といい、この緑川製糸場の碑といい、また昨日見た長野家の碑といい、
百数十年前に先祖達がいかにしてこの地の蚕業の発展を願って奮闘してきたか、
きちんと伝えていこうという思いが伝わってきて、こころが熱くなりました。
熊本は明治初期から蚕業の近代化に取り組んでいたが、西南戦争で焦土となってしまい、製糸業の発展が遅れていた。
そんななかで長野濬平らが歯をくいしばって奮闘している、まさにその時期に堅曹さんは訪れているのです。
『六十五年記』には
同三日(明治21年4月3日)・・(略)・・長野濬平氏を訪う。帰路有志に招かれ一場の談話を為す。其論を二条に別ち、一を普通論とし一を専門論と為せり。
そしてその講演録がのっている。
九州の蚕業のためがんばっている人々にたいして、まるで愛児を励ます慈母のようだと形容された講演であった。
最後に堅曹さんはこう結んでいる。
「仏人曰く、仏国をして富国強兵の地位に達せしめしものは有力の政治家にもあらず、武勇の軍人にも非ずして、却て製糸家の業にてありしならんと」
さて、熊本での碑文めぐりは終り、
11:50 宇土半島の先、三角西港へむかいます。
218号線から3号線で宇土市を通って、57号線(天草街道)を使いました。
『六十五年記』より
同四日 衆人来寸暇なし。正午より忘吾会といふに行きて・・(略)・・五時半出発、宗嘉次郎氏の案内にて三角港に至る。・・(略)・・三角港浦島館に投ず。同五日書記官警部長と此港を一覧す。少しく狭隘なるも海深くして良港なり。午後三時平安丸の汽船に乗り、・・・(略)・・夜長崎に着す。
堅曹さんは熊本市内から三角西港まで、島原湾に面した天草街道と通ったとおもわれます。
距離は35~40キロくらいでしょうか。
当時、馬車で2時間の距離だといいます。
車で走ってみるとずーと海沿いでとても眺めがいい。
右手にはいつも島原半島の雲仙が見えています。
夕方の5時半に熊本をでた堅曹さん、
夕陽にそまる海の景色を眺めながら馬車にゆられていったのでしょう。
12:35 三角西港着。
さてこの三角西港は、訪れた前年の明治20年8月にできたばかりでした。
近代国家の威信をかけて国費を投じて築港された明治3大築港のひとつです。
堅曹さんも港を見学して感想を述べています。
現在は国の重要文化財として保存され、観光港となっています。
堅曹さんが泊まった浦島館も平成4年に復元されて港にあります。
ここは小泉八雲が『夏の日の夢』という紀行文の舞台にもなった洋館の宿でした。
現在はカフェと資料のパネルが展示されています。
中に入ってみます。
ベランダからは穏やかな海の姿の三角西港がみえます。
本来なら、『六十五年記』の記述通り、ここから船に乗り、長崎へ行きたいところですが、
現在ここから長崎へのフェリーはありませんでした。
そこで例の東京の熊本観光案内所で相談したところ、
もう少し先、天草まで足をのばして、そこから長崎の茂木港に行くフェリーがあるのを教えてもらいました。
海岸沿いを走り、景色もいいし、食べ物もおいしいから、と天草半島のドライブを勧められ、
事前に15:10の富岡港出港のフェリーを予約しておきました。
13:00 三角西港を出発。
ここでナビ検索をしてみると、まっすぐ走っていっても着くのは14:55とでた。
やばい、午前中から私の計画が押している。
昨日見る予定だった熊本市内の碑が、墓探しに時間がかかったため、今日にずれこんで、予定が狂ってきている。
急がなくてはいけない。予約のフェリーに乗り遅れると、次は2時間後です。
お昼ごはんもまだでしたが、食べてたら間に合わないかもしれない。
せっかく天草でおいしい海のものでも食べようかという目論見はご破算となりそうです。
天草半島を島原湾沿いにひた走ります。
いいお天気でしたが、どこにも寄らず、折角の天草パールラインの景色も見ず、
食事ヌキで・・。あぁ・・・。
走った甲斐あって出航40分前の14:30には苓北町の富岡港に到着。
しかし食べ物屋さんが何もない。
しかたなく、フェリー乗り場のレストランのピザを食べました。
とにかく、フェリーに乗っていざ長崎へ。
小さい小さい漁船のようなフェリーです。乗った車は2台だけ。乗客は4人だけ。
15:10 定刻どおり出港です。
目の前には長崎半島、西には島原半島とぐるっと半島の山々を見ることができます。
穏やかな海で、このあたりは天草灘という。
ずーっと山々に囲まれた湾のなかを船は進みます。
少し日が傾きかけ、水面にきらめく陽の光が美しい。
堅曹さんも午後3時の船に乗っているので、こんな光景を見ていたのではないだろうかとおもった。
16:20 70分の船旅を終えて長崎の茂木港に着きました。
ここから長崎市内までは「ながさき出島道路」を通って15分ほど。
17:00 長崎市内到着。レンタカーを返却。
3日間ご苦労様でした。
走行距離およそ500キロ。
ガソリン満タン分走りました。
さて、スーツケースをガラガラ引いて市電に乗り、今日の宿へと向かいました。
18:30 チェックイン。
つづく。
九州の旅2日目。
9月25日、晴れ。
朝8:45にホテル出発。
まず目指すは竹田市。
『六十五年記』から。
同三十一日知事始衆人来、雨中小野惟一郎熊本県宗嘉次郎の両氏案内にて発足し、夕竹田に着。直に当所製糸所を一覧し、夜四山社々長始郡吏等衆人来、工商業の事を談話し、四月一日竹田を出立、龍田村に一泊し、同二日熊本に着。研屋に寓す。大分より熊本迄の間、道路堅固にして美景なり。野津原より竹田迄景美景、田能村竹田の出たるも偶然に非らずと感ず。竹田は谷間の市街なり。
大分から竹田までは、『大分今昔』によると、
明治の中頃、熊本街道ができ、大分~竹田間は馬車道路として拡張整備されたということです。
朝大分をでて竹田に着くのはだいたい8時間の行程だったとか。
堅曹さんが通ったのもたぶんこの道で、客馬車だったとおもわれます。
出発は昨日訪れた大分製糸所のあった大道町からです。
大道トンネルをぬけて豊後街道から今市街道(442号線)にはいり一本道をいきます。
野津原は古い街で市役所支所などもあり、「のつはる」と読むのを知りました。
野津原から竹田までは山越え。
途中までは新しく快適な道。
しかし、その先は「路肩注意」の立て札のある旧い山道になりました。
バスとすれ違う時はバックして、久しぶりに怖いとおもった。
堅曹さんは野津原より竹田までたいへん景色がいい、
田能村竹田(たのむらちくでん、1777~1835 江戸後期の文人画家、豊後竹田出身)が
出たのも偶然ではないと感じた、と書いていますが、
山を登りきったあたりは、ほんとうに美しい景色でした。
ただ、1人で運転して、停めるところもほとんどないので、
走りながらチラッ、チラッとみるだけで、写真に撮れなかったのが残念です。
山を少しづつ降りて、朝地町から57号線で竹田の街へ。
竹田は本当に谷間にある街でした。
10:00 竹田着。
古い歴史を感じさせます。
この地につくられた製糸会社、四山社(しさんしゃ)の跡地にむかいます。
跡地は街を囲むように流れている稲葉川の大きくカーブするところにあり、
現在は老人ホームや病院になっています。
川べりを整備していて、田能村竹田の絵のレリーフなども設置されていて、
場所としては街中で、いい場所である。
そこを確認してから、旧竹田荘という田能村竹田の生家と市立歴史資料館を見ました。
11:30 出発。
次はまた57号線で山を登っていきます。阿蘇山の北側を回ります。
坂梨までは一本道です。
『六十五年記』より
是より坂梨村まで都て(すべて)山上を行季候(いきそうろう)。甚(はなはだ)寒く、然れども山間の美景云う可きなし。殊にスカルガ瀧並(ならびに)清正公の作れる水門等、最も珍らし。
12:00 この文章にある交通の要所であり、古い宿場町であった坂梨村に着く。
ここには旧道(豊後街道)を残していることが偶然わかり、そこを通ってみた。
文久4年に勝海舟と坂本龍馬もこの通りを歩いたという。
150年以上も交通をささえている天神橋もあり、
たしかにこの道を堅曹さんも通ったんだと実感させられました。
次は数鹿流ヶ瀧(スカルガ瀧)をめざして山の上の道をいきます。
堅曹さんが甚だ寒く、と書いているように、道路上にときどき気温表示器があり、
それによると26℃→ 24℃→ 23℃→ 22℃とだんだん下がっていきます。
この時、たぶん平地では30℃ぐらいだったとおもいます。確かに寒いと感じたとおりです。
国道57号線を走っていくと阿蘇大橋の手前に数鹿流ヶ滝の駐車場があります。
12:40 そこに車を停めて、国道脇の道を案内通りに5分ほど歩くと
滝の音がごうごうと聞こえ、展望所にでました。
徳富蘆花の小説の碑などもあります。
すこし遠いですが、豪快な滝がみえました。
すごい水量です。
もっと近くで見たら、とんでもない迫力でしょう。
当時はどこから眺めたんだろう、とおもい
駐車場へもどって、もっと滝の近くまでいけないか地図とにらめっこ。
大体の見当と勘で阿蘇大橋を渡って、反対側の小学校などある村から奥に入ってみる。
だいぶ進んで川べりまでいったが、滝壷のそばへはこれから先、徒歩で
道なき道を進むしかないみたいで断念しました。
阿蘇大橋の上からも正面に数鹿流ヶ滝がみえます。
ここからの景色もなかなかです。ゴーっという音が聞こえてきます。
13:40 阿蘇大橋を左にみて、また57号線を熊本市内にむかって走っていきます。
大津から弓削にかけて旧道の大津街道がのこっています。
ここは加藤清正が整備した道で、杉並木で有名な道でした。
400年たった今も木々が保存されて「日本の道100選」にもなっています。
弓削まで行くと、龍田という地名がでてきて、このあたりに堅曹さんは一泊したんだと確認できました。
さあ、ここで清正公のつくれる水門、というのはどれか?
東京にある熊本の観光事務所で聞いたところ、白川のところにあったという。
しかしいまは痕跡はあるが、詳しい人に案内してもらわなければ探すのは難しいということだった。
それで泊まった龍田村付近の白川を確認。
ここからは57号線と九州自動車道のまじわる熊本インターから高速にのり、
堅曹さんの行程とはちがうところへむかいます。
山鹿市です。
ここは明治3年堅曹さんが日本ではじめて器械製糸所を始めた時に、
真っ先に九州からかけつけて伝習をうけた横井小楠の弟子、長野濬平のふるさとであり、
お墓があるところです。
富岡製糸場の所長時代、右腕とたのんだ長野親蔵の養父でもあります。
『六十五年記』を読むと、堅曹さんが熊本に行ったのは
長野濬平に会うのが大きな目的だったのではないかと思われました。
だから、できれば長野濬平のお墓参りがしたいとおもった。
あらかじめ古書をよんだり、近くのお寺に電話して、だいたいのお墓の場所をきいた。
15:10 山鹿市着。
昨今大きく山を開発して「あんずの丘」という公園になっていて、はたして昔の墓がそのままあるかどうか。
近くのお寺(以前は菩提寺だがいまは違うという)でたずねたところ、
長野さんの墓なら山の一角に有る、と教えてくれた。
しかし探している長野さんのがあるかどうかはわからないという。
その山の墓地にいくまで少し時間がかかったが、とにかくたどり着いた。
驚いた、長野さんの墓だらけである。その数5,60基。いや7,80基か。
濬平さんのお墓がどれか、ひとつひとつ墓誌や側面に彫られている名前をみていく。
昨日も同じようなことをしていたなぁ、とおもう。
全部見てもそれらしき墓はない。
困ったな、とおもい墓地から夢酔い人KさんへSOSの電話をした。
現在の当主の名前や濬平さんの親や親戚の名前など聞いた。
それでもみつからず、あきらめて帰ろうとおもったその時、
木々にかこまれた奥の引っ込んだ一角に「長野」と書かれた碑があるのが見えた。
もしや、とおもいそこにいくと、
低い塀にかこまれ、いくつもの碑がある立派な墓域があらわれた。
濬平さんのお墓をさがした。
あった!!
もっていったペットボトルの水をかけて丁寧にお参りさせていただいた。
とてもうれしく、ホッとしました。
時計はもう17時をまわっています。
いそいで写真におさめ、だいたい撮り終ったところでカメラの電池切れ。
ギリギリセーフでした。
さあ、これで探索もおわり、今日の宿 「宿庵研屋」にむかう。
ここは堅曹さんがとまった宿で、現在6代目が継いでいる。
当時は熊本市内の船場にあり、18年前に市内から20分ほどの山の中腹の現在地に移転している。
たいへんに高級な宿であり、宿泊するかどうか迷ったが、堅曹さんを追いかける旅で、
現存しているところはほとんどないのだからとおもい、思い切って予約をした。
19:05 宿庵研屋 到着。
若おかみとは先祖がここに宿泊したことを話したり、
当時の研屋の様子や、この100年余の変遷を聞かせてもらったり。
予想をはるかに超える、最高のおもてなしで、最高の料理。
至福の一夜でした。
満足、満足。
つづく。