堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

引越し

2008-07-30 11:55:39 | グルメ

引越しです。

この暑い最中にです。


といっても私が引っ越すのではなく、藤沢に住んでいた学生の息子が諸事情のため、家に帰ってくることになったのです。

こちらは受入れるほうです。

家のほうを片付けなければなりません。新たに一人分の家財が運び込まれるのですから。

結婚で離れる姉の部屋と弟の部屋を交換して、とこの際大移動も目論んでいます。



そのため先月から、粗大ごみをだしたり、衣類をリサイクルの日に大量にだしたりしました。

本類をBOOK OFFに売りにいったり、リサイクルできそうなものはやはり売りにいったりしています。



なんとか、受け入れ体勢をととのえて、昨日は藤沢に行って、引越しの準備を手伝ってきました。

湘南ライフ最後の食事はよく食べに行った、近所の中華料理「清香園」さん。(美味しいんですョ)


Cimg4049_2   Cimg4050


    チンタオビールとピータンでご疲れさん!


Cimg4051  芝エビと季節野菜炒め


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       五目そばとバイコー飯


Cimg4055  ウーロン茶をたっぷり(この茶器ステキでしょ)




湘南は結構おいしいものが多く、ここ数ヶ月は、よく二人で惜しむように食べに行きました。

生シラスはやはり、この地ならではのもの。かき揚げは本当においしいです。


Cimg3396  生シラスのかき揚げ


Cimg3397 地魚の握り



魚系はどれも充実です。

江の島にも何回も遊びにいって、楽しかったです。

藤沢からは鎌倉や横浜にも、先祖調べで随分出掛けました。

義母や義祖母は戦前、鎌倉に住んでいたので、その足跡や跡地を訪ねることも出来ました。



さあ、そろそろ引越しの荷物が届くころです。

がんばるぞ~。


座繰り糸と器械糸

2008-07-26 23:58:12 | 原三溪市民研究会

暑~い、暑~い。

なんでしょう、この暑さ。

暑いのが苦手な私は、なんだか気分まで憂鬱になります。

地球のこと考えて、あんまりクーラーもつけたくないんだけど、バンバンつけてしまってます。



さて、すこし前になりますが今月の12日におこなわれた「原三溪市民研究会」で、とてもいい講義を聞いたので書いておきます。


富山大学の根岸秀行教授の講演です。


タイトルは 「日本生糸と売込商―富太郎と三溪」

レジュメは


1.近代日本の高成長

2.成長を支える条件

3.「生糸」の「存在」という「幸運」!?

4.生糸輸出と市場(明治前期)

5.ビギナーズ・ラックの終り

6.日本生糸のライバル:19c末

7.世界市場の転換=原料生糸の転換

8.生糸の「良し」・「悪し」?

9.日本生糸の販路確保1870s-1920s

10.日本生糸が、世界市場で買われ続けた理由?

11.横浜売込商の役割

12.富太郎と三溪

13.藤本實也稿『原三溪翁伝』


となっています。



近代日本の成長を大きく担った「生糸」について、その存在が世界にとってどういうものであったか、そして開国してからその市場へどのように参入していったのか。

グラフになっているデータを基に、ヨーロッパとアメリカの世界2大市場の違いを示しながら、話されました。



私の勉強不足でいままで知らなかったこと。

横浜開港後、幸運にもヨーロッパでの微粒子病の蔓延により、日本の生糸はあっさりと世界市場へ参入できた。(ここはよく知っていた)


しかし、その頃から生糸の市場は低迷するフランス市場からアメリカ市場へと転換していく時期でもあった。


19世紀後半は手織りのヨーロッパ絹織業では座繰り糸で充分要求を満たすことができた。


しかし20世紀に入るとアメリカでの機械織機をつかう絹織業がマーケットを席巻しはじめ、その機械にみあう均一な器械糸が求められるようになった。


この世界の中心的なマーケットからの要求される品質の違いが、座繰り糸と器械糸である。


こういった情報をいちはやくキャッチして、生産者に知らせ、対応していくことが世界市場で生き残っていく術である。


その情報を伝達するのが、売込商であり、貿易商である。


この話を聞いてはじめて、座繰り糸と器械糸がそれぞれに変遷をして発達したり、衰退したりした直接的な理由がわかった気がしました。

その地域ごとの細かい事情で座繰り糸の会社が伸びたり、器械製糸場が増えたり、ばかりではない、もっと大きく世界の需要に見合ったものができるかどうかで、変わっていったんだということ。

明治10年代から30年代にかけて世界の市場からもとめられる糸の品質がかわっていったことに大きく連動している。




堅曹さんのした仕事をみると、彼は器械製糸のエキスパートではあったけれど、それと平行して座繰り糸の改良にも力をいれていたし、群馬県内の座繰りの結社にも力を貸している。

しかし、将来的には絶対器械製糸が必要だと力説をして、国内の器械製糸場をくまなく指導している。

政府には何度も殖産興業として日本全体の器械製糸場の発展をうながすビジョンを示している。


明治9年にアメリカに行って、これからの世界市場の変化を見通すことが出来ていたことと、だからこそ、ヨーロッパの市場の情報も仕入れたいと、明治13年には生糸直輸出の会社をつくり、フランスのりヨンに支店をつくった。


速水堅曹は常に世界の市場をみつめ、変化を読みとり、それに対応できる日本の製糸のあり方を提案しつづけていたのだと確信できました。

わたしにとってはすごい発見ができた講義でした。


官営と民営 「TVタックル」

2008-07-25 03:32:17 | 富岡製糸場

某テレビ番組「TVタックル」スペシャルをなんとなく見ていたら、国営の「私のしごと館」について、はなしていました。


2003年に580億円もかけて厚生労働省が雇用保険料を使って作ったハコモノ。

年間維持費が14億円で収益は1.4億円。

それを現在独立行政法人にして運営しているが、無駄なものではないか?

一体それを運営する意味があるのか?

民営にしたらいいのではないか。


ということで、コメンテーター達が意見を戦わせていました。

・内容はわるくはないが、いかんせん、建物が大きすぎる。東京ドームの2個分以上だ。

・民間に売却すると言っても、500億かけたものが、いまでは20億にしかならない。全く損をしてしまう。

・交通の便は悪いし、実際に入札してみたら、たった2件しかなかった。

・たてものは半分は他の用途につかって、半分を仕事館にしてみるか。

・同じ子供達に仕事を体験させるというコンセプトで作られた民営のミュージアムはリピーターがおおく、内容は断然おもしろい。

・せっかくの目的はいいのだから、なんとかお役人の発想ではなく、おもしろく、かつ、入場料の廉価にこだわらず、収益を考えたほうがいい。

等々。



聞いていて、あれー、なんかどこかで聞いたような話だなー。

官営か民営か。

役人がトップでは発想や経営に柔軟性がない。

だいたいが収益なんか考えていない。

模範となるものでさえあればいい。

高いお金をかけて作った国のハコモノが、入札しても、安くしか売れなくて、大損である。



そう、明治5年に作られた官営の富岡製糸場が、明治26年に民営に移されるまでに語られた経緯とそっくりである。


堅曹さんが書き残した自叙伝『六十五年記』を読むと、その間の経緯がよくわかる。

官営富岡製糸場は

当時としては政府の意気込みも相当なもので、とにかく大きな建物である。

金に糸目をつけず、交通の不便な地域にド~ンと建ててしまった。

お雇い外国人にはべらぼうに高い給料を払った。



そんなこんなで開業してから3年で、すぐに経営的に行き詰まり、明治8年、速水堅曹が製糸場の経営状況を綿密に調査するのである。


堅曹は、

官営といえどもきちんと収益をだして民間の模範となる姿を示さなければいけない。

その業を熟知し、経営にたけた人物がやらなければ、収益が出るはずがない。

元々が規模が大きすぎ事業経営は困難な代物である。民間に払い下げたほうがいい。

とずっと民営化を勧めてきた。


けれど西南戦争がはじまり、北海道官有物払い下げ問題が起きたり、となかなか民営化が実行されず、上記の現代のハコモノの払い下げと同じような状況となっていったのである。

明治24年にやっと一回目の入札をしたが、2件しかなく、目標の額に達せず、見送り。

次に明治26年に入札がおこなわれ、民間に落札されたが、当時20万円で建てられたものが、原材料(繭)費込みで12万円となり、全く損をしてしまった。


この間、堅曹は明治12年より赤字の富岡製糸場の所長を引き受け、経営改革を行い、着々と経営的には黒字にしていくのである。

経営を改善しながら、なおかつ、たびたび政府に民営化を迫り、日本の亀鑑業としての製糸業を推し進めていった。



この120年も前の出来事がそのまま、何も変わらず現代の社会でもおなじことがおこなわれている。

官営か民営か。

永遠のテーマなんて言ってられない。

まったく、日本の国は何も進歩していないのか、と愕然としてしまった。


ぐんまちゃん家(ち)

2008-07-18 02:29:59 | 富岡製糸場

ぐんまちゃん家(ち)っておもしろいネーミングですね。

7月5日にオープンした、ぐんま総合情報センターの愛称です。


    Photo_2  ぐんまちゃん家(ち)ポスター


場所は銀座5丁目。歌舞伎座のある三原橋交差点に面しています。


  Cimg4023 三原橋交差点


  Cimg4024  一階が日の出すし、二階がぐんまちゃん家
 

  Cimg4028_2 入り口は昭和通り側。歌舞伎座は向かい側。


  Cimg4029 一階入ったところ



地下鉄の「東銀座」駅徒歩0分です。

ぐんまをまるごと体感、というコンセプトで、県の観光、物産、情報を発信しています。




ぐんまちゃん家で15日から17日まで、「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産キャンペーン&シルクフェアというのが行なわれました。


   Cimg4030_2  入り口に立てたポスター


15日と16日の2日間、私も富岡製糸場世界遺産伝道師として、キャンペーンのお手伝いをしました。

来場者にチラシを渡したり、パネルをみていただきながら富岡製糸場や世界遺産の説明をしたり。


 Cimg4016  Cimg4017


             パネルと飾りつけ


抽選会もおこなっているので、来場者に「ガラポン」をまわしていただき、出た玉の色で「○等でーす。」などと言いながら、景品と一緒にチラシも渡し、富岡製糸場のことやシルクのことを説明する、なんてことをやっていました。


キャンペーンは朝10時半から夜7時半まで。

少人数でやっていたので、昼食以外は立ちっぱなしで、フル活動しました。

抽選だけでも一日200回以上。来場者は300~400人ぐらい。

よく働きました。ボランティアです。

でも、おもしろかったですね。


いろいろお会いした方たち

近くの福井放送の方は2日間連続できてくださり、春に桐生を取材して織物関連の番組をつくったご縁でこの後も群馬のことを取材なさるようです。


鳥取のアンテナショップを立ち上げようと近隣のアンテナショップを見て回っている若い方は呉服屋の息子ということで、群馬シルクのよさを直ぐに理解してくださり、日本の養蚕の現状のこと、地方からの発信のこと、アンテナショップのありかた、など、尽きないはなしで、個人的にぜひ富岡製糸場に行ってみたくなった、とおっしゃっていました。


工女の本を読んだという方は、製糸の技術を学んで、故郷に帰ったら自分が模範工女として皆に教えるんだという気概をもって学びにきていた当時の工女は今の女子大生とは比べようもなく立派だった、と話され、女性の仕事としての歴史も富岡製糸場からは学ぶことがおおいのです、と話しました。


学校で蚕を飼い繭をつくったけれど、蛹を殺してしまうのがかわいそうなので、自分は蛾になって繭から出てくるのをまっていた。けれど蛹は繭の中で自然に死んでしまい、中から出てこなかった。とてもかわいそうで、たくさん泣いた。という作文を甥っ子が書き、東京都の賞をもらったという方が、たまたま持っていたその作文を見せてくださいました。東京でも蚕を飼って養蚕を体験させているところがあるのを知りました。


歌舞伎座の前ということで、夜の部のまえにちょっと時間があるので寄られたいうご婦人方や銀座で買い物帰りの方もいらっしゃいます。

みなさん世界遺産のことだけでなく、素敵な着物や帯にも目をむけられ、銀座にいらっっしゃる人は目の肥えた方が多いな、と私は思いました。



 Cimg4013  Cimg4015


    展示の帯と着物


たしかに東京で呉服や和装小物が一番そろっているのは銀座です。




シルクフェアでは実物の繭を展示して、群馬県がシルク王国であること。そして養蚕製糸の生き残りをかけて作り上げたブランド「ぐんまシルク」の紹介で製品の展示即売もしています。

おなじスペースなので、ついつい私も国産シルクのすばらしさや、現状も説明したりしていました。

こんなときに下町の商人の家に生まれた血が騒ぐのでしょうか。


繭を半分に切って、お湯に浸して指にはめ、顔をこすると繭の成分のセリシンによってすべすべになるって、IKKOさんもテレビでお薦めしてるんですよ。と話して、繭を差し上げたりしました。

女性のかたは喜ぶ、喜ぶ。


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         差し上げた乾燥繭



そのセリシンの効果のボディータオル、ぐんまシルクの五本指のソックスも本当にいいものです(履き比べてこれは絶対のおススメ)。


Cimg4022 ぐんまシルクの小物


来週23日から一週間、日本橋の高島屋でもぐんまシルクの製品を販売するそうです。興味のあるかたはどうぞ。



そんなこんなでまる2日間、キャンペーンのお手伝いをさせてもらいましたが、相手にこちらの情報を伝えるだけでなく、話すことによって、いろいろ学ぶことも多かったです。

また、一緒にイベントをしていた「ぐんまシルク」の販売者の方や、県の蚕糸園芸課の方から繭や生糸、着物、染め、織物などについてたくさん教えていただきました。

キャンペーンに参加させていただいたおかげで見聞が広がり、こういった機会も大切にしていきたいと思いました。



銀座に行かれたらぜひ「ぐんまちゃん家」へお寄りくださ~い。

イベントしていたり、いろいろ物産も売ってま~す。


富岡製糸場・工女等のお墓

2008-07-15 00:39:01 | お墓

13日は用事があって、相棒Tさんと群馬県富岡市に行きました。

暑い暑いまるで真夏ですね。



メインの用事の前に富岡製糸場の北にある「龍光寺」に行きました。

ここには官営時代から明治30年代までに働いていた工女さんのお墓が30基あります。

何度も来ていますが、今回はTさんが確認したいものがある、というので一緒に来ました。


   Cimg3959   龍光寺


    Cimg3973    Cimg3968

                    工女さんたちの墓


堅曹さんが建てたお墓も3基あります。

一つは彼の腹心とも言うべき人物で、明治12年製糸場で若くして亡くなった長野親蔵さんのお墓です。

墓の竿石のまわりにぐるっと堅曹さんの追悼文が彫られています。


   Cimg3969     Cimg3971


         長野親蔵の墓と作業中の相棒Tさん


最後に漢詩があり、それをTさんは一文字一文字確認しました。

   東西奔走  拮据十年  有志不遂  一朝斃顛  

   嗚呼男児  生則有造  斃而后巳  有合古道  

   君身雖死  君功不捐  九泉之下  可以瞑焉

   明治十三年二月

          内務省御用掛准奏任 速水堅曹 撰文

                        高橋信貞 書



長野さんのお墓のうしろには、堅曹さんが明治26年の民営引継ぎのときにそれまでに亡くなった工女さんの連名のお墓を2基つくっています。


    Cimg3985  堅曹さんのつくった工女の墓


それぞれ13人と14人の名前が刻まれています。

墓碑の裏には

  表面列記之人名者元富岡製絲所工女也

  明治二十六年十一月建之

  元富岡製絲所長正六位速水堅曹  

と彫ってありました。




次に製糸場の東南にある「海源寺」に行きました。ここにも官営時代の工女さんのお墓があります。こちらは初めて行きます。

ちょっと奥まった場所にあり、自動車だとわかりにくく、通りがかった人に聞いたりして着きました。


    Cimg3995  海源寺


門の中に入って、わ~と視界が開けます。

鏑川の川沿いの高台になるのでしょう、遠くに山並みが見え、とても眺めがいいです。

工男、工女のお墓が門を入って直ぐのところにありました。3基です。

墓地を整理して、この位置に移動してきたようです。


    Cimg3999  工男工女の墓


お参りをしてから、墓地のなかを歩き景色を眺めました。


    Cimg4002 墓地からの景色




このあと、二人で本来の用事をすませました。

そして富岡市立図書館に寄り『川越藩士速水家の墓』を寄贈しました。

製糸場にも寄り、お世話になっている方に小冊子を謹呈させていただきました。


    Cimg4005  富岡製糸場 入口



いろいろ用事をすませ、ポツリ、ポツリ、夕立が降り出すころ帰路につきました。