堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

「新井領一郎」展

2009-12-18 02:37:43 | 勉強会、講演会

先週の10日、毎月行われる歴史ワーキンググループの勉強会が前橋であり、

午前中、桐生の明治館の「新井領一郎展」を見にいきました。



新井領一郎というのは、先日訪れた水沼製糸所(←クリック)を創った星野長太郎の弟になります。

長太郎は器械製糸所をつくるのと同時に、速水堅曹や群馬県令の楫取素彦と相談して、

日本の生糸輸出の将来を考えて、英語を学んでいた弟をアメリカに勉強にいかせます。

領一郎は渡米後、努力を重ね、開拓者としてアメリカで日本の生糸を売ることに成功。

堅曹のつくった同伸会社のニューヨーク支店長もつとめ、

後に「モリムラ・アライ・カンパニー」をたちあげています。

ニューヨークではジャパンソサエティーや日本倶楽部の創設をし、

アメリカ絹協会の役員に選ばれるなど真の国際ビシネスマンとなり、

日本の生糸貿易にとって多大な貢献をしました。



その彼の生地である、桐生市の旧群馬県衛生所であった「明治館」というたてもののなかで、

横浜開港150周年 生糸直輸出の創始者「新井領一郎」展が催されています。


Cimg1819_2  明治館


   Cimg1800 入り口



当日朝10時半に現地集合で、歴史WGのメンバーがあつまりました。

館長さんに説明をうけ、洋館の2階の展示場へいき、見学。

地元の郷土研究家の集めた資料が並べられており、手作り感のある展示でした。


Cimg1807 展示


Cimg1809 展示


日本のペリー来航からはじまり、生糸が日本の重要輸出物になった経緯や説明。

そして新井領一郎が渡米したときの航路が示された地図や、当時のアメリカの様子。

そして彼の系図なども示されていました。


彼の孫にはライシャワー駐日大使夫人のハルさんや

東京港区にある西町インターナショナルスクールをつくった種子さんがいます。

そういった縁で現在、桐生市水沼と西町インターナショナルスクールは国際交流をしている。

約130年前に大きな希望を抱き、船にのってアメリカを目指した青年の生涯がいま、こうして伝えられ

日米交流が続いていることは本当に喜ばしいことだとおもう。



速水堅曹にとっても彼を米国に行かせる事は大英断だったし、

領一郎が渡米した年(明治9年)に、フィラデルフィア万博に行った堅曹は

ニューヨークで彼を励ましている。

堅曹にとって彼を育てることは日本の生糸の将来を考えて、

数年後の直輸出会社をつくるうえでの重要な人物になってほしいと

一番に期待していたばずである。

彼はそれに見事に応えて立派なビジネスマンとなり、大きな力となったのである。



明治18年日本で行われた新井領一郎の結婚式に堅曹は出席をして、

次のような感想を 『六十五年記』 に記している。

十月六日新井領一郎氏 牛場卓三氏の女と結婚し、今夜其祝宴なり。

我も招きを得て行く。実に盛会なりき。

新井氏は明治九年米国に行たる時、未だ貧生なりしが生糸の業と共に進歩し、

今夜の客扱いの如き堂々たる紳士なり。

其の列席の客、官員には楫取素彦、富田鉄之助、神鞭知常、吉田市十郎等にして、

紳士には福澤諭吉、小幡篤次郎、相馬永胤、村田一郎の諸氏。

其他凡そ五,六十人なり。

是皆、生糸の利より咲きし花と云はざるを得ず。

抑(そもそも)星野の奮発と楫取県令の周旋と我の米国に行しとに始まり、

本人の勤勉と同伸会社との功なり。



ライシャワー・ハルさんの 『絹と武士』 にはこんなくだりがあります。

佐藤と星野と速水の三人は1875年(明治8)11月末、熊谷で会合を持った。

火鉢を囲み、星野は弟、領一郎より一歳年上だというニューヨーク帰りの青年の話を聞き、

自分の夢の実現に可能性の灯がともり出したことを感じた。(中略)

星野はその場で弟を佐藤とともにニューヨークに送り出すことを決意した。


佐藤(百太郎)は、米国ですでに小売店をはじめており、

むこうで一緒に仕事ができる優秀な若者を探して一時帰国していた人物である。

速水堅曹に会って星野長太郎の弟のことを聞き、話をしに来た。

正にこのとき、領一郎が世界へでていく大きな決断がされたのである。


「火鉢を囲み」というところが印象的で、時代の息吹を感じさせるエピソードです。



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5 コメント

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群馬の産業の原点である「繭」と、それから加工さ... (長谷川勤)
2013-06-18 01:05:50
群馬の産業の原点である「繭」と、それから加工される「生糸」が幕末の輸出の花形となりましたが、輸出入業者を経由すると「薄利」となってしまい、その改善を目指して「新井領一郎」がニューヨークに「見本」を持参して「直輸出」の先駆けとなりました。
明治初期に、渡米することは、大変な費用が必要でした。これを援助して、明治政府に交渉し、便宜を計ってくれたのが「楫取素彦・県令」でした。兄の星野とともに、渡米の挨拶に楫取家を挨拶に訪問した時に、吉田松陰の実妹であった「壽子」が手渡した短刀がその「魂」であったのです。楫取素彦は、幕末期は「小田村伊之助」と名乗っていましたが、慶應年間に、身の危険防止のため、藩主であった「毛利敬親」から改名指示を受けたのであった。この楫取の奥様が吉田松陰の妹なのであります。
楫取は自身、人柄は地味であったが、人格的に信用があった。大宰府に長州の藩命を帯びて赴き、そこで坂本龍馬と出逢い、龍馬から「桂小五郎」への「薩長同盟構想」の提案を聴かされ、帰国後に桂にこのことを伝えた。翌年壱月(慶應弐年)に二本木の京都薩摩藩邸にて盟約がなった端緒は、この楫取が大宰府に三条実美らを訪問したことからのことであった。こうした、小さな事実は、一般的な書籍には書かれない。群馬県出身の私ですら、此のことを知ったのはつい最近のことです。今秋の前橋での講演では、こうしたことも、キチンと語りたいものと念願しているところです。

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長谷川勤様 (速水家の嫁)
2013-06-18 01:19:14
長谷川勤様
たびたびのコメントありがとうございます。
ご研究の対象である吉田松陰と、群馬ご出身であることから、いろいろな人物の繋がりがみえてきて、その中に速水堅曹や新井領一郎がいるのですね。
歴史のおもしろさですね。
今秋前橋でご講演をなさるのでしょうか。
よろしければ、詳細をお教えいただけますか。
拝聴させていただきたいとおもいます。
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今朝(20日)、大学への出勤途上でこれに関連した... (長谷川勤)
2013-06-20 23:32:32
今朝(20日)、大学への出勤途上でこれに関連したお話を、先輩教授から賜りました。不思議なご縁ですが、9月6日、「前橋テルサホール」にて講演予定です。演題は『楫取素彦と吉田松陰』です先着順ですから、18:00頃に会場到着願います。。まだ勉強途上ですが、新井領一郎さんは私の生まれ育った黒保根村(現桐生市)の先達です。私はさいたま市に在住ですが、これは故郷へ帰省する便宜を考慮して、居所を定めました。出来れば、新井領一郎さん、速水さんのことも勉強して講演に反映させたいと思います。当日は、群馬の発展に寄与した楫取さんのご子孫も参加予定です。牛場卓蔵さん、小幡篤次郎さんは懐かしい名前です。福沢人脈の方々ですね。私のブログに「大隈重信と福沢諭吉」の知られざる友情の秘話を書いており、この記事は早稲田・慶應の方々からも大変喜んでえ貰えました。我が家には大隈、福沢の関連書籍が沢山あり、この両大学に在学経験があるために秘話が沢山あります。三田会、稲門会でも講演機会がありました。24日に松陰の著者と一献機会があります。
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私は、榎本武揚の下で日本の殖産興業政策の国策推... (長谷川勤)
2013-06-20 23:55:41
私は、榎本武揚の下で日本の殖産興業政策の国策推進の下、日本製鉄の勅任技師長である「今泉嘉一郎博士」(群馬県勢多郡東村花輪の出身の一族)のご縁があり、花輪小学校(現閉鎖)に胸像が建立されています。昭和35年の中央公論社刊行の『榎本武揚』(加茂儀一著)の名作に、今泉博士は実名で登場します。昔、明治松から大正にかけて「日本鋼管」が設立されたのも、資本主義発展の梃子を目指しました。大いに群馬のために宣伝を願うものであります。もしかしたら県民性が潜んでいるのかも知れません。小栗上野介しかり、新島襄も誇れる人材です。新島の教育情熱に感化されて大隈さんが、渋沢栄一、岩崎弥太郎、大倉喜八郎等々の方々の助力を仰いで同志社の学校運営資金に目途がついた話、多くの人は知りません。山口県の検証努力を見習いたいものです。
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偶然、松蔭大学の先輩教授から興味ある史料(資料... (長谷川勤)
2013-07-02 17:04:22
偶然、松蔭大学の先輩教授から興味ある史料(資料)を見せてもらった。「速水堅曹」や「新井領一郎」等の簡単な評伝風のことが書かれているものであった。開国以来、上州の地区は生糸の生産が盛んであった。速水堅曹はその生産技術のノウハウを駆使して、富岡製糸場の経営の再建を果たした前橋藩の人。この速水堅曹から指導を受けて産業化した人物が「星野長太郎」である。「水沼製糸場」がそれで、私の生まれ故郷の先達である。この弟・新井領一郎は兄の宿願を果たすべく、明治9年ニューヨークへ渡米する。当時の渡米は、現在とは比較にならない。交通網・手段が船舶であるから時間がかかる。生糸製品の「売り込み」も、その成否は保証がなかった。成約までこぎつけるためには、それなりの時間を必要とする。多大な滞在費と渡航費用がいる。これに援助の手をさしのべた人物こそ、「初代群馬県令」であった「楫取素彦」である。幕末期は「小田村伊之助」と言った。本来は儒者であり、明倫館をはじめとする藩の教育にかかわった人物である。この夫人は「吉田松陰」の妹で「壽」といった。新井領一郎が、渡米するにあたり、便宜を計ってくれたお礼を兼ねて県令宅を訪問。この時に夫人は、「兄・吉田松陰」の形見としての短刀を寄贈する。これには渡米を果たせなかった兄・吉田松陰の魂が込められているという、説明つきで激励したエピソードがある。新井は、後にビジネスマンとして成功をおさめ、日米貿易のパイオニア的存在となり、一代で財をなす。ついでに、日本で最初のゴルフをした人物でもある。最近、この関連書籍を探し当てた。大阪学院大学の阪田教授の著作になる『国際ビジネスマンの誕生』と『明治日米貿易事始ー直諭の志士・新井領一郎とその時代ー』である。二冊とも購入できた。新井領一郎ー星野長太郎ー速水堅曹の人脈と実績をふまえて、9月の前橋講演を実りあるものにしたい。もちろん、表向きのテーマは『吉田松陰と楫取素彦』であるが、こうした人的繋がりがあってこそ、群馬県の発展がなされたことを忘れてはなるまいと思います。上毛新聞社から刊行されている『絹先人考』の本を早速注文した。この夏は、お休み返上で勉強となってしまうだろう。
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