堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

アインシュタインの眼・シルクは繊維のスーパースター

2010-05-30 23:56:32 | 日記・エッセイ・コラム

たまたまつけたテレビでシルクの驚異を解き明かす番組をみました。

おもしろかった!


  NHKBShi アインシュタインの眼 「シルクは繊維のスーパースター」                   

     http://www.nhk.or.jp/einstein/


最初は繭の糸が何メートルあるのか実験して、

その繭をつくる蚕(カイコ)はどんな生き物か、

神秘の生態をスーパーカメラという高性能のカメラで解き明かしてくれます。

蚕が2日間一生けん命、糸を8の字に吐く様子は“けなげ”の一言です。


Mayu  繭

20070813 蚕(カイコ)



後半はその繭の糸から作られるシルクという繊維がいかに素晴らしい特性をもっているか、

さまざまの実験をとおして検証します。

肌触りの良さ、光沢、吸湿性、速乾性など。

ミクロの世界を映し出すスーパーカメラはシルクの繊維の中の中まで明らかにしてくれます。


シルクは蚕という生き物がその命を使って人間に与えてくれる最高の繊維であると知っていました。

でも、いままで見ることのできなかった世界が映像で映し出され、その本質が見えると、

本当に説得力があります。



人間が人工的にいくら真似してつくっても追いつけない素晴らしい繊維です。

そのシルクがもう日本では作られなくなってきているという現実は本当に悲しいとおもいます。

是非ひとりでも多くの人がこのシルクの良さを知って、

日本の養蚕製糸がなくなることは重大な損失であると知ってほしいとおもいました。



再放送の予定は次のようになります。


   BShi 6月 1日(火) 午後7:00~7:44

    〝  6月 3日(木) 午前8:15~8:59

   BS2 6月 4日(金) 午後8:00~8:44

    〝  6月11日(金) 午後4:00~4:44


石井寛治氏の至言

2010-05-27 09:58:36 | 日記・エッセイ・コラム

先日、古書のネットで『群馬県史 通史編8』を購入しました。

堅曹さん関連で必要なところはコピーしてもっているのですが、

ここのところ図書館にも行けず、重要な記述もあるので、

やはり手元にも置いておきたい、とおもったのです。



さて、届いて開けてみると、なかに「群馬県史しおり」が入っていました。

どの巻にも、配本の時にはいるのだとおもう。


Cimg2834 『群馬県史 通史編8』と「群馬県史しおり」


そこに「歴史の分析と叙述」と題して、石井寛治先生の文章が載っていました。

先生は近代日本経済の学者で、すばらしい研究の数々を著しており、

群馬県の近代製糸業についての研究は第一人者です。

この通史8巻の編纂責任者でした。

もちろん速水堅曹については的確な考察と評価をくだされていて、

先生の文章によって堅曹のことをどれだけ教えられたことか。



その「歴史の分析と叙述」には、

この群馬県史を編纂するにあたって、県史の研究とはどういうものかという論考と、

実際の編集作業の様子などが書かれている。

とくに各執筆者の内容と文体の統一作業に苦労されたことが書かれており、なるほど、とおもわされた。


すこし引用します。

その作業をしながら痛感したのは、歴史家の仕事には、資料を分析して結論を出すことだけでなく、それをいかに分かりやすく、生き生きと叙述するかということも含まれねばならない、ということである。私自身の場合も含めて、どうしても文章が難しくなりがちなのである。通史編の執筆要領では、「平易な文章・用語で叙述」しようと申し合わせているのだが、なかなかそういかないのが現実であった。

私は、その場合、やさしく言いかえればすむ難しい用語の問題よりも、文章の難しさの方が基本的な問題だと考える。そして、文章の難しさは、言おうとする事柄の本質的なポイントが十分つかめていないことに、最大の原因があるのではないかと思う。事柄の核心がまだつかめていない時には、どんなに分かり易い用語を並べてみても、結局のところ何を言いたいのか、書いている自分が分からない位だから、読み手は読めば読むほど分からなくなる、というわけである。もちろん、ポイントをつかんだ場合には、それをどうやって平易な文章で書き表すか、という努力が大切であることは、改めて言うまでもない。

その意味では、歴史の分析と叙述とは、ちょうど車の両輪のように、どちらが欠けても、読者に言いたいことが伝わらない、と言うべきかもしれないが、ここではあえて、透徹した分析に支えられてこそ平易な叙述が可能になる、という側面を強調しておきたい。


最後の「透徹した分析に支えられてこそ平易な叙述が可能になる」は

まさに先生の文章を思い起こさせます。

その分析は間然とするところのない論の立て方で、いつも“すごい”と唸ってしまいます。


まあ、この文章がえらく心に響いたのは、

いま、ちょこっと難しい文章を平易にまとめることをしていて、

なかなかできない、と悩んでいるからです。



難しい事を難しく書くのはだれでもできる、

難しい事をわかりやすく平易に書ける人が本当に頭のいい人だ、といわれています。

そのことをポイントを示して伝えている文章だとおもった。

自分の頭の悪さにイヤになりながらも、今日も文章とにらめっこです。


松葉杖が1本に!

2010-05-25 23:59:39 | 日記・エッセイ・コラム

今日(25日)病院にいってきました。

リハビリと診察です。

2週間ぶりにレントゲンをとり、骨のつき具合をみてもらいます。



前回はだいぶよくなり、骨折した左足に体重の2分の1をかけてもいい(荷重といいます)、

ということになりました。

具体的にどういうことかというと、支えがなくて、真っ直ぐ両足で立ってもいい、ということです。

人間二本足で普通にたつと、1本の足にかかる体重は2分の1なのです。

リハビリの先生に言われてはじめて、そうか、とおもいました。

しかし、まだ歩くことはできません。

左足1本になった時に体重が2分の1以上かかってしまうからです。

松葉杖で残りの体重2分の1分をカバーしないと、左足を1歩踏み出すことはできません。



そうして2週間たちました。

今日、レントゲンの結果によっては、体重の3分の2までかけていい(荷重)、と判断されるかどうかでした。

3分の2になると、2本の松葉杖をつかっていたのが1本になる、とリハビリの先生におしえてもらっていたので、

ちょっとドキドキして整形外科の先生の診断を待っていました。


結果は、3分の2の荷重OK!

パッと気持ちが跳ね上がり、いそいでリハビリの先生のところに行き

「先生、荷重OKでした!」

「じゃあ、松葉杖1本の歩き方教えよう」

右手だけに松葉杖をもって歩く練習をしました。


左足と右手の松葉杖がいつも一緒に出るように、といわれる。

そ~っと左足を前にだし、1本の松葉杖だけで体重が支えられるのか、ソロリと進みました。

変な感じです。

でもそんなにグラグラしないで歩けそう。

階段の練習もしてみた。

松葉杖2本のときより、格段に楽に登り降りができる。


ほんと、うれしいな~とおもった。

一日気持ちがルンルンです。



ここのところ全く外で写真を撮ることができなくて、(両手が使えないので)

でも先週あまりにも天気がいいので近所の城祉公園と森林公園に行って

ちょこっとだけ頑張って撮ったのをのせます。

Cimg2814_2 城祉公園

Cimg2816 森林公園

Cimg2817 森林公園

新緑がきれいでした。


我が家で歴史WG 2回目

2010-05-17 15:28:09 | 勉強会、講演会

まだ松葉杖状態なので、今月の歴史WGの勉強会も先月につづいて

先週の木曜日(13日)に我が家でおこないました。



今回は、2007年4月から読み解きはじめた堅曹の自叙伝『六十五年記』の

雑誌連載の最終回、第22回です。


堅曹さんの自叙伝、毎月1度の勉強会で最後まで解読するのに3年かかりました。

長かったです。

そして難しかったです。


とくに演説文の解読は文章も内容も高度で、予習するのもイヤになってしまうほど。

一人じゃほんとに細部まで読み解く気にならない。

でも一緒にやってくれる仲間がいたからこそ、ここまでこれた。

本当にありがたいです。

Cimg2823 『六十五年記』 ボロボロになっちゃいました



さて最後の回の内容は、というと

明治28年に日本蚕糸会で話す予定だった講演の原稿です。


日本の開港時から現在、そして未来までの蚕糸業の歴史でした。

  開港してから40年近くたった時の話で、

  明治元年までの10年間を人間に譬えて10歳までの幼児の時代とし、

  粗製乱造などわけのわからない無茶苦茶なこともしでかした。


  明治2年から11年までの10年間は

  百方勉学をする10歳から20歳までの人間のように製糸業は困苦改良の時代であった。

  この時自分は改良進歩の要所に尽力をした。


  明治12年から21年までは勇壮剛毅の20歳から30歳である。

  生糸改良の結果がおおいに顕われ、豊かに実を結んできた。


  その後の10年は、堅固となるが進取の精神は鈍くなる40歳の人間に譬えて、

  いままで尽力した功が著しくあらわれ、堅固成業の時代になった。


このように日本の製糸業の発展を

幼子がどのように育ち、成長して大人になっていったのかになぞらえて、

年代順に出来事を挙げて回顧していく。


  そしてこれから先の10年間は

  人間で譬えれば50歳であり、人生一代の結果の定まる時であるとし、

  日本の製糸業の明治32年から41年は完全保護の時代になると予想をたて、

  輸出が千万斤以上で代価一億万以上になり、盛業になるであろう、とした。

  そしてそれは、すべて幼年時代の勉学の結果である、と締めた。



これは今読むと、確かにその通りとなった。

明治42年、日本は世界最大の生糸輸出国となった。

まさに苦労も多かったけれど着実に成長した日本製糸業の発展であった。


堅曹は製糸業の10歳から30歳まで、

百方勉学をし、勇壮剛毅に進歩をとげた成長期に先頭を走りつづけてきた。

そして40歳のこの時、豊かに実を結んだ業界を見渡し、講演をし、未来を想像した。


彼は自分の予想した通りの50歳の日本製糸業の頂点を見届けた。

生糸改良に一生を賭けた者として、幸せであっただろうとおもう。



『六十五年記』を皆で読み終えた時、

相棒Tさんが「手締めをしましょう」と言って、皆で三三七拍子をした。

ちょっとびっくりしたが、

それだけ相棒Tさんが長い間頑張り、終わったことを喜んでいるのだと思い

感謝と共にとてもうれしかった。


堅曹の考えていたこと②

2010-05-14 23:42:13 | 人物

堅曹が明治6年に構想していた国家プロジェクトとは。


簡単にいうと

全国で養蚕の盛んな地域に製糸業の模範となる製糸所を置くこと。

それは上州、信州、陸羽に各1箇所とした。

これは官営ではなく私立であり、しかし官が保護するという形をとる。

その模範製糸所ではその地域で製糸業を望む者に教授をし、

その方針と計画が定まったところから順次製糸所を建てていく。

そして、この3か所の製糸所の長が3名で横浜に生糸の売店を開き、

横浜での古い因習を一掃した売買をする。

そして欧米に売店を開く。

そこで世界の需要の情態をさぐり着実に生糸の販路と貿易を進歩させ、

いずれイタリア、フランスの両国を凌駕するだけの製糸業にする。

というものであった。



この構想を持った時、彼はちょうど福島県に「二本松製糸会社」を創っていた。

福島県令の依頼で堅曹が設計から運営を軌道にのせるまで請け負ったが、

県令は官営としてつくる予定であったものを堅曹が民営を主張して、激論のすえ会社形式とした。

これは日本で最初の株式会社といわれており、画期的であった。

民営の形で、操業が軌道にのるまでは官で保護しなが、模範となる製糸所をつくる、

という堅曹の構想に結びつくひとつの実現でもあった。


これはどういうことかと言えば、

まだ日本に器械製糸というものが根付く本当に最初の頃のことであり、

何も知らない人々が製糸所をやってはみたいけれど、

器械を購入する資金もなければ、方法もよくわからない。

だからとりあえず粗末な器械で始めてみたり、いいかげんなやり方で始めてしまう。

そうすれば、いい糸は挽けず、経営もうまくいかず、苦労の連続で資金繰りも大変になってしまう。


大規模な官営の製糸所を一つつくって、損益も考えずに製糸所を経営していては、

技術の伝習はできても、製糸業の得失や製糸所経営の実際は誰も教えられないのである。


そのうち人々は利益のでない産業に見向きもしなくなる。

それでは、せっかくこの日本の国益になると確信した製糸業、とくに器械製糸を全国に広めることはむずかしい。

そこでもっと地に足のついた、きめ細かな実際的な製糸所設立と技術伝習の方法を考えたのである。

堅曹が自分で身をもって会得した器械製糸の技術と、製糸業の得失を知らせ、

製糸所を全国に広まらせるにはどうしたらいいか、考え抜いたプランである。



この政府に建策した意見書は、

こののち、堅曹が明治8年にこの大事業を実行するために内務省に入省し、

翌9年米国フィラデルフィア万国博覧会に審査官として渡米、視察をおこない

帰国後、世界情勢と国内の製糸業の発展状況を見極めた考察で

さらにパワーアップした内容として再度政府に提出された。

明治9年のことである。


それには座繰り製糸も揚返しをして進歩させ組合とすることや、

横浜の売店は生糸直輸出会社のかたちとなり、詳細について記してある。

人々が製糸業の難しさに戸惑うことがないよう、最善の方法をさぐり、

目線はあくまで全国の製糸業者の立場にたち、貸与金で保護しながら、

この業界を着実に盛んにしていく内容である。


そして、この国家プロジェクトがまさに実行されようとした。

つづく。