堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

速水堅曹の碑文

2009-01-18 18:28:13 | お墓

「速水堅曹翁を偲ぶモニュメント」に建てられた

碑の文章を紹介します。

撰文は群馬県の世界遺産推進室長で、文学博士の松浦利隆氏です。



   Cimg7051  モニュメントの中央におかれた碑



                   

                        

 速水堅曹は天保10年(1839)、川越藩士速水政信の三男として武州川越(埼玉県

川越市)で誕生、嘉永2年(1849)わずか11歳で家督を継いだ。

 幼少より学問に精進し、14歳で初出仕、黒船警備、京都勤務を経て、文久4年

(1864)石浜幸と結婚し、慶応2年(1866)の前橋城再興により上州前橋(群馬県

前橋市)に移住した。

 明治3年(1870)、藩命により日本初の器械製糸場である前橋製糸所を創立

明治5年(1872)の官営富岡製糸場に先んずること実に2年であった。廃藩置県後は

福島県の二本松製糸会社の創設や米国フィラデルフィア万国博覧会へ審査官として渡米

官営の千住製絨所所長にも就任した。明治12年(1879)その識見と手腕を

見込まれ官営富岡製糸場に赴任、第三・五代所長として十年余の長きに渡り

良質な生糸の生産と赤字体質の改善に尽力、全国に器械製糸の模範を示した。また

この間には、生糸直輸出の同伸会社の創立にも関わった。明治26年(1893)製糸場の

官営廃止後も養蚕改良、製糸改良に腐心、後進の育成に努めた。

 速水堅曹が日本で初めて手がけた器械製糸は明治時代全国に拡大、大きく成長し

生糸輸出は日本近代化の最大の資金源となった。明治42年(1909)日本はついに

世界最大の生糸輸出国となったが、これを見とどけるように大正2年(1913)

堅曹は74年にわたる無私公益に生きた生涯を閉じた。

        

          平成20年1月17日 (速 水 堅 曹  歿 後 95 年)

        撰   文  群 馬 県 世 界 遺 産 推 進 室 長 

                文 学 博 士        松 浦 利 隆

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿