堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

百年前の写真

2011-06-21 02:50:11 | 写真

堅曹さんの百年前に撮られた写真が我が家に届いた!


といっても、うちにも同じ写真があることはあるのだが、

何度もはがされ、また貼られ、を繰り返したらしく

退色して傷もおおい、ちょっと惨めな写真です。

貼られていたアルバムには何も書いてなくて、

わたしが先祖調べをして、はじめて速水堅曹だとわかったのです。



それと同じものを堅曹さんの遠い親せきにあたる藤沢のEさんから譲り受けました。

こちらはとてもきれい!

台紙付きで、薄紙がのせられ和紙で包まれている。

台紙の裏には筆書きで写真の由来が書かれている。

以前コピーをみせていただいたが、やはり本物にはオーラがあります。


Img_1531_2


明治四十三年四月撮影  正五位勲六等速水堅曹 七十二才

と書かれています。


家に届いた写真をじっくりと拡大鏡も使って見てみました。

後ろにある屏風の絵、よく見るとうっすらと名前が書いてある。

両脇にある煙草盆や脇息、杖のようなものもはっきりとわかる。


堅曹さんの手をじっくりと拝見。

わりとほっそりとして指が長い。 器用そうな手である。

右手の指の付け根にこぶのようなものがある。

きっと杖をつかう生活が長かったからできたのではないだろうか。

しばし観察に没頭した。


そして裏書の文字もEさんは誰がかいたものかわからない、というので、

あれこれ検討してみた。

多分、堅曹さんの字だろうとおもった。



1910年に撮影された堅曹さんの肖像写真が、

2011年、百年の時をへて速水家に戻ってきた。

きっとあまりにボロボロになってしまった我が家の写真を見かねて、

きれいなものを手許に届けてくれたような気がする。


Eさんありがとうございました。

大切にします。


速水家本家の墓参り

2011-06-05 16:40:45 | お墓

昨日青山墓地にある速水家本家の墓参りにいってきた。


速水堅曹夫婦の墓は、取手のお寺にあるが、

その他の方々は堅曹が生前に求めた青山墓地におさめられている。


4年前に亡くなられた本家のご当主も青山である。

生前先祖調べでお世話になり、命日も近いので、お参りさせていただいた。

奥様は現在95歳になられ、時々電話でお話しをさせていただく。

とてもお元気でいつもこちらのほうがパワーをいただく。

あのように生きられるなら私も長生きしたい、とおもうほどである。



さて、久しぶりの青山墓地。

東京都の整備事業がだいぶ進んだとみえて、全体にきれいになってきた。

でもお陰で明治初期に建てられ、現在は継承者のいない外国人の墓などが処分されて、

歴史的意味のあるものがなくなったことは大変残念で、胸が痛む。


墓を掃除し、花を手向け、線香をあげてお参りさせていただいた。


Photo_4 青山墓地の速水家の墓




それにしてもこのお墓の位置は、いろいろな事を考えさせる。

尊敬していた大久保利通の墓からまっすぐ裏のところである。

この場所を選んだ堅曹のおもいを想像してみる。


ひときわ大きい大久保公の墓にいってみた。


Photo_2 大久保利通の墓


なんと墓前にある大きな一対の燈籠が先日の大地震で倒れていた。


Sbsh0153 倒れた燈籠


Photo_3


この燈籠は当時の勧農局員たちが寄進したものである。

台座のところに堅曹さんの名前も刻んである。

はじめて見つけたときはとてもうれしかった。その時のブログ


地震でこんなふうになってしまったとは。。。

台座は残っているので、なんとか修復してほしいとおもう。


大倉山と長谷川潔展

2011-06-01 23:54:03 | 原三溪市民研究会

昨日は横浜方面へでかけた。

まず東横線の「大倉山」駅へ。


駅前から線路に沿った坂道をのぼっていくこと、7,8分。

目指すは「大倉精神文化研究所」。

ギリシャ建築のような建物が、公園のなかに見えてきた。


Photo 大倉精神文化研究所


大倉邦彦(1882~1971)が昭和7年に建設した研究所である。

「大倉山」という駅名も地名もこの大倉研究所からつけられたという。

建物は横浜市の文化財ともなっており、中は古い教会にでも迷い込んだよう。


「大倉精神文化研究所」は東洋と西洋の思想を研究するということで設立され、

昭和のはじめにインドのタゴールが訪れたときにも、長く逗留したという。

今年2月の原三溪研究会でタゴールの催し物をしたときに

この研究所の方がいらして、そのことをうかがった。


付属図書館もあり、なんと10万冊の蔵書があるという。

各室やホールなどはいろいろな催し物に使われているようで、

この日もサークルの人々が朝から準備をしていた。

そして建物の周りの大倉公園にはおかあさんと一緒の子供達が大勢遊びにきていた。


Sbsh0135_2 エントランスから見る公園



戦前から建物を維持するのはたいへんだったようだが、

現在は地域に根ざした文化活動の拠点となって市民から愛されているようだ。

こんな優雅な建物だと大事にしたくなるのではないかなとおもった。




また東横線に乗って、午後は「みなとみらい」の横浜美術館へ。

「生誕120年記念 長谷川潔展」(←クリック)をみてきた。


Sbsh01382520252842529 横浜美術館


1891年(明治24)横浜に生まれ、フランスで活躍した版画家。

27歳のとき渡仏してマニエール・ノワール(メゾチント)という銅版画の技法を復活させ、

その漆黒の素晴らしさを表現して、フランスの文化勲章をうけた。

1980年(昭和55)日本に戻ることなくパリで亡くなる。


若いときから木版画を製作し、あらゆる技法の版画をおこない、

写真の発明以前に世界中でおこなわれていたマニエール・ノワールという

細密な技法の銅版画を復活させたのは、画期的なことであった。


テレビで作品をみたことはあったが、実物はものすごく細密でその深い色が素晴らしかった。

晩年になるにしたがい、彼の昇華された精神が作品に表現されて、

ピンと張りつめた美しさとなっている。


040  「草花とアクワリヨム」 絵葉書より




初期の木版画のセンスにとても惹かれた。

本の表紙や挿画が多いのだが、それらをひとつひとつみせてもらった。


使った道具類や下絵、版木や銅板も展示され、

会場では人物を紹介したビデオも流され、

まさに長谷川潔のすべてがわかる展覧会である。


実は原三溪市民研究会の顧問をしておられる猿渡紀代子さんが、

長谷川潔の研究家であることを知ってから、いつか作品をみたいとおもっていた。

探していた本も美術館で購入できたので、とてもうれしかった。


Img_1502 『長谷川潔の世界』上中下巻 猿渡紀代子著