堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

能を見にいく

2008-06-30 03:33:20 | 人物

少し日にちがたってしまいましたが、先週の水曜日(25日)に能を観にいってきました。




堅曹さんと謡曲のことを調べていて、堅曹さんが教えを受けた松本金太郎が作った宝生流の能楽堂が東京の水道橋にあることがわかり、謡曲を聞いたことがないので、能を観にいってみようかと好奇心だけで申し込んでしまいました。

夜の能会で出し物は3つだけ、ちょっとみるにはいいかな、とおもったのです。


   Cimg3876 宝生能楽堂 入り口


 Cimg3879 ロビーに16、17、18代の宝生宗家の胸像が


 Cimg3881  舞台


「宝生夜能」

出し物は    養老(能)

        舟ふな(狂言)

        雲雀山(能)


     Nou_2


会場では話の筋が書かれたパンフレットと、舞台上での見所や内容の解説がかかれたパンフレットを渡されたので、その2つを読みつつ舞台を観ました。


笛や鼓の音色に驚きました。お囃子はそれだけなのに、とても華やかで無駄のない凛とした音です。

それに合わせて歌われる謡。地謡といわれる、コーラスのような謡をする方がたくさん舞台上の横に坐っていました。その方たちのしぐさなんかもよく見てしまいました。

皆さん袴姿(羽織なし)ですが、正座をして坐ってるときに、両手を袴の脇のあいているところから中にいれていました。

以前に堅曹さんの息子さんの写真を見たときに、その格好でした。謡曲の師匠もしていた方なので、なんとなく謡曲をする方はそうなのかな、とおもい、気になっていました。

ひとつひっかかっていたことがわかり、満足。



さて、肝心の能はどうかというと、おもっていたほど、言葉が聞き取れず、謡もよくわからず、パンフレットと首っ引きでも、いまひとつ舞台からは内容がつかめませんでした。

情けない・・・。

でも狂言はとてもよくわかり、おもしろかったです。



能楽堂の雰囲気やその空気感、能の格調高い芸、そしてそれを楽しんでいた当時の人々のセンスというか現代と全然違う教養の在り方を知ることができました。

う~ん、奥が深すぎてちょっとやそっとでは、とても理解できそうもないな、というのが正直な感想です。


宝生流の歴史的なことを知りたかったので、書籍を売っていた売店でいろいろ聞いてみました。

法政大学の能楽研究所や武蔵野大学の能楽資料センターが資料をたくさんお持ちだと教えていただきました。

いい情報が得られました。


先祖調べ

2008-06-26 09:21:05 | 本と雑誌

先日都内の小さな印刷会社を訪ねました。

自分で作った小冊子を基に製本してくれるところを探すため。

電話で話したとき、なんとなく、いいなと思ったのです。



原稿と見本を持って、電話ではなした担当のNさんとお会いしたとき、最初にそっとご自分が昨年作られた小冊子を見本として出されました。

『縁(えにし)のひろば 孫・曾孫のために

あら、先祖調べをなさっているんですか?

私はおかしな人間です。たまには親戚のなかにこんなのがいて、書いたりするんでしょうね。まあ、残しておけばとおもって。

などとおっしゃる。



そうか、だから電話で話したときに、

残しておかれるんだったら、ちゃんと製本したほうがいい。本の形にして本棚にさえ入れといてもらえれば、何十年もあとにだれかが読むことがあるかもしれない。

とおっしゃったんだ。

そのとき事務的でなく、わたしの作りたい、残したいという気持ちと一致するものを感じたのです。



いろいろ相談しながら、『縁のひろば』をぱらぱらとみていた。

先祖は埼玉県深谷のご出身。先日見学に行った渋沢栄一の家のすぐそばである。そのまた本家は群馬県太田と書いてある。

へえ~、なんかおもしろい、知っている所ばかりだ。

むこうも、私の作った冊子をみて、え~富岡製糸場の所長だったんですか?などと聞いてくる。

うちはこの製糸場が出来て逆にすたれちゃったんですよね。

そうなんですか。

などと会話しながら、相談はすすんでいった。


帰り際にこの冊子はどうぞ差し上げます、といわれて、喜んでいただいた。

早速帰りの電車のなかで読んでみた。

Nさんと叔父さんたちでつくられた、その一族の丁寧な記録である。詳細な家系図もついていて、全く知らない家なのに、それと照らし合わせて、一気に読んでしまった。

文章の端々にご自分たちの先祖を思いやる気持ち、それが今日の、またこれからの縁ある人たちへつながっていることを伝えたい、というおもいにあふれている。

江戸時代から幕末明治にかけては、史料が少ないので、時代をよく検証し、想像をたくましくして、考えられる限りの一族の歴史が書かれている。

そこには先祖は養蚕で財をなしたのではないか、群馬の島村の田島家からきた嫁がキーポイントとなっているのではないか、などとても興味深い系譜の話が載っていました。



たまたまここがいいのではないかとおもって訪ねた先で、めったにいない先祖調べをしている方との出会い。

しかも養蚕製糸と関係があるご先祖。知っている地域ばかりの話。それを書いて子孫のため残そうとしている。

とてもとても不思議な縁を感じました。


小冊子『川越藩士速水家の墓』

2008-06-21 01:53:08 | お墓

今年1月に完成した「速水堅曹翁を偲ぶモニュメント」。

昨年5月の川越でのお墓発見からモニュメント完成までの経緯をまとめてみました。



2月から少しずつ書き始めて、後の人が読んでもわかるように事実をくわしく、かつこの間に自分で調べてわかったことも加えました。



さて、それをどうするか?

ちょっと冒険でしたけれど、パソコンで小冊子 のような形にしてみました。

ワードで書いた文章を“袋とじ”という形で印刷すると、半分に折って本のような感じになります。

写真やスキャンした図なども入れてみました。

表紙も好きなように作ってしまいました。

それらをガチャン、と大きなホチキスで留めて、製本テープで背を貼れば出来上がり!



        

          Cimg3866


    『川越藩士速水家の墓 ―その存在と変転経緯について―』


発行日はちょうど堅曹さんの誕生日6月13日、生誕169年としました。



以前、堅曹さんの姉の子孫Nさんから、ご自分で調べた先祖のことを小冊子になさったのをいただいて、とてもいいな~とおもっていました。

でも、どうやって作るのか皆目わからず、とても自分では作れそうもない。

けれど、いつかそういうのが作れるようになって、速水家のことや堅曹さんのことをいろいろまとめておこう。

そうすれば、あとで子供達がみてもよくわかるだろうな、と遠い先のことのように考えていました。



しかし人間がんばれば出来るものですね。

ワードの詳しい使い方が載っている本と首っ引きでやってみました。

夜中に製本して出来上がったときは、うれしかった。


これをたくさん作って、関係してくださった方々に読んでいただこうとおもっています。


原三溪と下村観山

2008-06-18 08:46:28 | 原三溪市民研究会

6月14日は横浜の原三溪市民研究会に行ってきました。

めずらしく晴れました。

この会はほとんどいつも雨で、みんなに「今日はめずらしく晴れましたね。」などとあいさつしてしまいました。



それはさておき、藤本実也の『原三溪翁伝』の原稿も索引などは整理されてきて、いよいよ出版にむけて具体的な予定ができてきました。

関係者からその報告がされると、にわかに会の中に熱気が満ちてきて、さあ、がんばるぞ!、やるぞ!、という雰囲気になってきました。

いままで細かい作業の連続で、調べてもよくわからない語句や漢字も多く、いったいこんなことで出版までたどりつけるのだろうか、という停滞感がなんとなくありました。

でももう大丈夫です。

そんな活気付いた勉強会も終わりの頃、恒例のミニレクチャーです。



原三溪市民研究会のスタッフでもある、三溪園の学芸員のSさんが書かれた論文が、今年度の鹿島美術財団賞をいただいたそうです。(素晴らしい!)

「下村観山と原三溪にみる作家と支援者の関係」という研究主題です。



   Cimg3264 三溪園 


   Cimg3233 下村観山らが出入りした鶴翔閣



Sさんが内容を話してくださいました。

原三溪は多くの日本画家の支援者としても有名です。その中のひとりである下村観山と三溪はどういう関係だったのか?お互いどう思っていたのか?という疑問からはじまる。


三溪園が所蔵している観山の作品リストの来歴(買ったものなのか、もらったものなのか等)と、観山の当時の立場や三溪の手紙を調べて、どういう関係だったのか考察していった。


年に一度の院展出品作が多く贈られていたことがわかり、それはそれまでの観山のいろいろな挫折のおりに三溪が励ましてきたことに恩を感じて、一番いいものを三溪に贈っていたのだろうということにたどりついた。


また、観山の日記から三溪園での仕事や関わりのあった箇所を抜粋して、考察を重ねた。


その結果、パトロンとしての原三溪の役割が画家の下村観山を大いに伸ばしたということが実証でき、いい関係であったことがわかった。

簡単に書くとこういう内容ですが、

話を聞いて、論の立て方、考察に無理がなく、きっちりと調べあげ、一般にあまり知られていないパトロンと芸術家の関係が、真実に近い姿で解明されたとおもいました。

そして支援者としての原三溪の在り方を知ることができ、とても感銘を受けたレクチャーでした。


近いうち論文を読んでみたいとおもいました。


歴史WGと研修会

2008-06-16 07:23:25 | 勉強会、講演会

6月12、13日とまた、群馬へ泊りがけで出掛けてきました。

12日は毎月一回の歴史WGの勉強会。相変わらず堅曹さんの自叙伝『六十五年記』を読んでいます。


今回は明治14年(1881)岩倉具視に出した書面を読みました。西洋の有形的な学術ばかりがもてはやされた結果、国民の精神的な支柱となるものがなくなってきている事を憂いて、宗教によって人心をまとめていかれるのがいい、と述べています。

この頃、堅曹さんは大久保利通亡き後、しばしば岩倉具視に製糸業の現状、国家の在り方を述べるようになります。明治12年から岩倉具視の片腕になるよういわれ、たびたび会いにいっています。ただ、日記にも、自叙伝にも内容は秘密なので書くことは出来ない、と記されています。

唯一この書面は自叙伝に載っているものです。

また、群馬県前橋で初めて行なわれた繭共進会の開場式のあいさつと閉会の褒賞授与式のあいさつも読みました。

そしてその間に明治十四年の政変がおこり、横浜荷預かり所の争いも起こり、とたいへんな日々が描かれています。


         ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


さて翌日は高崎駅に朝8時集合で、世界遺産伝道師協会の研修会に参加しました。

朝からとってもいい天気で、気温は高いけれど、湿度が少なくカラッとして、見学には上々です。

埼玉県内の絹遺産関連の施設や富岡製糸場との関連の深い場所を訪ねます。

詳細は伝道師協会のブログに載っていますので、こちらもどうぞ。http://blog.goo.ne.jp/whtomioka/



幕末から明治にかけて生糸を横浜まで持っていくのにどうやって運んだのでしょう?

船が重要な手段だったのです。群馬や埼玉には利根川が流れています。この川を使って運ばれていたのです。

その中の河岸の一つ、倉賀野を訪れました。

  Cimg3791  倉賀野河岸の碑


 Cimg3786   Cimg3788

    利根川の上流の烏川沿いにあります。ここから高瀬舟で運ばれた。

明治17年に高崎線の鉄道が開通するまで、本当に活躍した水路でした。



次は本庄市児玉町にある競進社模範蚕室です。高窓の4つ付いたとても立派な美しい姿の蚕室です。内部も見学しました。

   Cimg3793 競進社模範蚕室  


       Cimg3808_2         Cimg3806

                                                                     中の蚕室

 



昼食を食べ、次は渋沢栄一の生家と記念館を見ました。渋沢栄一は富岡製糸場の設立時に大きく関わっています。


   Cimg3819 渋沢栄一の生家


      Cimg3834 渋沢栄一記念館にある銅像


すぐそばの初代所長尾高淳忠の生家もちらっと見ました。



そして最近再発見された、富岡製糸場が描かれた大絵馬を見ました。


    Cimg3838

 韮塚直次郎が深谷市田谷の永明稲荷神社に奉納した絵馬



最後は熊谷にある片倉シルク記念館。平成6年に閉鎖された片倉最後の製糸工場跡。

ここは現在は大きなショッピングセンターになっていて、その一角に当時の倉庫が残され、中に多くの資料や機械が展示してあります。


  Cimg3842  Cimg3843

       フィラチャーとは英語で製糸場という意味だそうです。



どの見学場所もガイドの方がつき、じっくりと説明を聞きながら案内してもらえたので、個人で見にいくよりも何倍も吸収することがあり、知識が増え、とてもいい研修会でした。