堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

東日本の復興を祈る

2011-03-31 13:48:15 | 東北関東大震災

Photo  ホテルの募金箱の「ガンバレ東日本」



大震災から3週間が経ち、

横浜にきてから半月が過ぎた。

被災者の救援はようやく軌道にのりはじめたようだ。

長い道のりになる復興へ、皆で力をあわせていかなくてはいけないと強くおもう。


一方、原子力発電所の問題は全く収束の方向へむかわず、こちらも長期の覚悟。

放射線の被害に対してなんとか自分の気持ちに折り合いをつけて、自宅へ戻ろうとおもう。

安全をもとめて避難してきたけれど、結局事態の推移を見つめているだけで、

前へ進むことを何もしていない自分がいやになる。



たくさんの仏像をみてきた。

長い日本の歴史をふりかえれば、いつの時代も人々は仏像に祈りをささげ、

国の平安のために大仏を建造してきた。

現代のような科学が発達していなかった時代は、真に自然の脅威に畏敬の念をもって

おおきな見えざる神仏の世界に帰依する敬虔な気持ちをもっていたのだとおもう。

すべてが人間の力でコントロールできるという

科学万能の世界につかっていたことへの警鐘とおもえてならない。

自然の威厳の前で人間の小ささを感じる事もなくなっていたのではないだろうか。


たくさんの仏像に祈りをささげながら、そんなことを考えていた。


名取市閖上地区

2011-03-24 00:22:08 | 東北関東大震災

Img_0971 朝日新聞3月14日一面にのった閖上地区の写真


今度の大震災で親戚や友人で被害にあった人はいなかったのだが、

唯一大津波に呑まれた宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区に知人がいる。


それはもう6,7年前になるけれど、先祖調べで宮城県の岩沼あたりに行ったことがあった。

堅曹さんの孫の結婚相手がその地の出身者だったので、戸籍謄本の住所をたよりに尋ねていった。

探している人物は晩年が不明で、いつ亡くなったのか、お墓はどこにあるのかさえもわからなかった。


岩沼市役所に行って何か手がかりをとおもい、その人物の兄妹たちの戸籍をみたいと聞いてみたが、

直系でなければ戸籍等は教えられない、と断られて途方にくれていた。

役所の人も気の毒におもったのか、戸籍謄本に書いてある住所の現在地を教えてくれ、

そこは古くから続いている旅館だから、行ってみたら何かわかるかもしれない、と言った。

早速向かったのが、閖上地区であった。



漁港の目の前にある小さな旅館だった。

見知らぬ者が突然、このような人物は知りませんかと尋ねてこられて、むこうも驚いたようだったが、

そこの女将さんは、私は嫁だから古いことはわからないけれどちょっと待って、と言って

奥にいるお年寄りの女性に聞きにいってくれた。

義理の姉になるらしい。


そのおばあちゃんが、そういえばその人の名前は聞いたことがある、と言った。

そしてその人の姪が私の友達で、たしかその息子が近くに住んでいるから電話してみよう、と。

わたしはその話に心臓がドキドキするほど驚いたが、

すぐにあがってといって私を炬燵のある居間に連れて行ってくれて、そこで電話をかけてくれた。


電話はつながり、私の探していた人物の消息を聞くことができた。

それは本当に驚愕の内容で、いろんな想像をはるかに超える話だった。

メモをとる手が震えていたのを今でもおもいだす。


女将さんとおばあちゃんは私のそんな様子を温かく見守ってくれて、

電話がおわると、よかったね、といってお茶やお菓子をだしてくれた。

その温かいもてなしに幾重にも幾重にもお礼をいい、閖上地区を後にした。



帰宅後お礼の手紙をだしたところ、名物の笹かまぼこをたくさん送ってきてくれた。

その返信の最後には、

「閖上にはいつでも私達がいるから忘れないで。ご先祖のことを探してくださいね。」

と書かれていた。


あの閖上の女将さんやおばあちゃんは逃げることができたのだろうか、

お嫁さんやその子供たちも見かけたが、皆大丈夫だったのだろうか。

瓦礫と化した閖上の写真を見て愕然とするばかりである。


避難生活

2011-03-23 09:47:26 | 東北関東大震災

Photo 全店18時閉店を知らせる張り紙


14日に横浜にきて、避難生活も9日目です。と言っても、避難というのもおこがましいようなただのホテル暮らしです。


もちろん水もお湯もでるし、全部ではないがレストランもやっている。数日前からこのホテルは計画停電から外されて電気も止まることはないという。併設されているショッピングモールには、食料品、衣類、靴屋、本屋、コンビニからユニクロ、100円ショップまで揃っていて、全く困ることはない。かえって自宅あたりより便利なくらいだ。 ただ節電のためこのショッピングモールはじめ、新横浜の駅のまわりの店すべてが18時閉店にしているのがまだ正常ではないと感じさせる。


昨日あたりはずっとなかったお米も入荷していたし、ガソリンスタンドに車が並ばずに給油していたのを見た時は驚いてしまった。大型電気店では携帯ラジオが入荷しましたとアナウンスしても誰も集まってこなかった。勿論懐中電灯も電池もたくさんおいてあった。 たった10日ほど前に慌ててあちこちで買いまわっていた自分の姿がなんだか幻のようにさえ感じられる。


ここにきて当初の混乱した気持ちから、ようやく自分自身も落ち着いてきたような気がする。


福島原発に少し収束の兆しが見えてきたからかもしれない。しかし、放射線の体内被曝の恐ろしさはじわじわとせまってきていると感じるし、その対策は考えなくてはならない。 まだしばらくここにいそうだ。

携帯電話で送信。


無事です

2011-03-16 22:20:28 | 東北関東大震災

Photo_2 16日のホテルのインフォメーション


3.11未曾有の大地震に襲われ被害に遭われた方たちに、心よりお見舞い申し上げます。

私の自宅は茨城県南部です。地震直後から10時間停電となりました。余震と寒さでほとんど眠れぬ一夜を過ごしました。続いて原子力発電所の爆発に伴う放射線の見えない津波の恐怖にさらされ、右往左往しておりました。

その間名古屋で息子の結婚披露宴が行われ、一度自宅に戻りましたが、その足で横浜の娘の家に避難しました。 昨日やっと新横浜駅前のホテルに落ち着き、今コインランドリーで洗濯をしています。一体この数日でどのくらいの距離を移動したのか。

自宅の建物はほとんど被害がないものの、家の中はものが散乱したままです。あの重たいピアノが20cmも移動しています。 余震や停電はもっと大変な被害に遭われた方たちのことを思えば我慢するのはなんでもないことですが、放射能の恐怖だけは計り知れないものを私は感じます。

茨城は電車が止まれば陸の孤島となり、避難命令が出てからではガソリンもない今の状況では無理と判断して早めに逃げてきました。 この判断が正しかったのかどうかは、未だに迷う気持ちがないわけではありません。しかし、あとであそこまで大袈裟に逃げなくてもと笑い者になるなら幸いです。あの時逃げておけばよかったと後悔することだけはしたくなかったのです。

パソコンは持ってこなかったので携帯電話で送信します。


石井研堂著 『増訂 明治事物起源』

2011-03-01 02:40:07 | 本と雑誌

時々ネットで古書を購入します。

先日届いたのは大正14年発行の『増訂 明治事物起源』。


Img_0770  『増訂 明治事物起源』



「増訂」とついているのは、明治40年に同じ著者の『明治事物起源』がでているからで、

最初に出版したものに本人は納得がいかず、

それから20年間かけて、さらに調べ尽くして出版したものである。


この本には「機械製糸の始」として速水堅曹と大渡(前橋)製糸所のことが詳しく書かれています。

数年前に図書館でコピーをとりました。


最近になって、筑摩書房から新書版8巻(!)になって、旧字や句読点も改められて出版されていることを知りました。

それでも図書館で古い本をめくると、いろいろな事物のはじめて物語に興味がそそられるばかりで、

ついに大正14年版を買ってしまいました。




届いた本をみると、さすがに経年劣化していて、

パラフィン紙でしっかりカバーされています。


よく見ると、その表紙になにかの絵が書いてあるようだ。

意を決して、そお~と糊をはがし、パラフィン紙をとってみた。

金箔押しがされている。


Img_0774_2  表紙


何の絵柄だろう。

蒸気機関車のように人々が燃料をくべている。

煙突からは煙がでて、機関の中はゴウゴウと火が燃え盛っている。


Img_0778  フラッシュたいてアップに



機械にくわしいNさんに絵をみてもらったら、これは蒸気機関車でしょう、という。

しかし、下が変だ。

車輪が蒸気機関とつながっていない。

台の上に機関が乗っかっているかんじ。

よく見ると車輪は菊の御紋のようにすら見える。



そこで、早速本文の「明治以前の汽車」のところを見たらありました。

これは嘉永7年にペリーが来航したときに、献上品としてもってきた蒸汽車(蒸気機関車)の模型だそうです。

客車のところに人がまたがって乗れるくらいの大きさで、レールを敷いて、その上を走らせ、大いに人々を驚かせたという。

今でいう、イベントのときに子供を乗せるミニSL機関車のような感じでしょうか。


その当時の『読売』に掲載された図がこの表紙の絵でした。

これは「最も不思議なる想像を以て之を図したる」と書いてある。

見たこともない蒸汽車を、話しだけ聞いて想像して描かれた絵だという。

なるほど、どうも変なのも納得。


しかし、こんなトンチンカンな想像をしてしまうほど、

全く未知のものが一気に日本にはいってきたという、

象徴的な最初のもの、ということで表紙にもってきたのかもしれない。



この装幀と挿画は、小村雪岱(せったい)だと書いてある。

ここ数年、関東近辺でいくつか展覧会がおこなわれ、再評価されているので、名前を聞いたことがあります。

小村雪岱は下村観山に師事した日本画家であり、挿画家でものあり、装幀も手がけている。

この本が出されたのは資生堂に勤めていた頃のようです。


そういえば、本の見開きがすごく変わっている。

初期の英語の読本の一部がのっている。


Img_0771  見開き


ここもこの本が欲しいと思った一因です。


いつか、時間があるときにじっくりと最初から読んでいったらおもしろいだろうな、とおもう。