堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

ブログ2周年

2009-08-25 23:58:54 | あいさつ

8月25日は一昨年の今日、ブログをはじめた日です。

丸2年経ちました。

これが238本目の記事です。

2年間だから、365×2÷238=3.0672・・

3日に一本。 まあまあのペースでしょうか。

本当は書くのが早ければ、もっともっと書きたいことがあるのですが、

なかなかできませんね。


   Photo_2 速水堅曹



訪問してくださった皆様、本当にありがとうございます。

読んでくださる方がいるので続けてこれました。

感謝、感謝です。




ところで、朝日新聞8月1日付夕刊で作家の久木綾子さんのインタビュー記事を読みました。

「規矩ある生と出会う」


      Img074


1919年東京生まれの久木さんは、結婚後専業主婦をしていたが、

70歳で山口市の瑠璃光寺の五重塔と出会い、この塔を建てた職人たちの姿を描きたいと

取材に14年、執筆に4年かけ歴史小説 『見残しの塔』(新宿書房) を書いた。

89歳で作家デビュー。


驚きました、一つの小説を書くのに、取材執筆18年。

しかも70歳から。

その取材がまたすごいのです。

さまざまな専門家の先生を訪ね、教えを請い、必要な本や資料もたくさん読む。

建築を学ぶため大工の棟梁に1年間弟子入りしたり、宮大工に教えてもらったり。

塔が体に染みこんでくるまで夢中で取材した、と語っている。


「規矩」とはコンパスとものさしのこと。

職人たちは規矩術をつかって何万個もの部材を組み立てていく。

材木それぞれの性質を見極め、切り、削り、磨いて最適な場所におさめていく。

「規矩ある生き方」というのは、

同様に自分の人生の持って生まれたものを測り、なすべきことをして生きることを指す。


久木さん自身も自分の半生を振り返り、

できることをやってきて、ささやかな生の積み重ねが自分の規矩となり、

それによってこの歳で五重塔に巡りあえて、小説に書き残せたような気がすると言っている。


読んでいて、すごく魅かれました。



私も速水堅曹という人物に40歳台で出会い、自然と調べてみたいとおもい夢中になっている。

1人の人間の一生を知るというのは、生半可な調べでは確信がもてない。

何でここまで、というほどあらゆることを知りたいとおもう。

私も速水堅曹が体に染みこんでくるまで取材を続けていきそうです。


堅曹さんの一生をどんな形になるかわからないが、漠然と書いてみたいとおもう。

それには、久木さんのように納得のいく取り組み方で小説を書いた人がいることを知り

たいへん心強く、間違っていないのだという安心を得ました。


私も規矩ある人生であるのか、自分で問い続けたい。

新聞記事の写真を拝見すると、上品でステキな方です。

今日『見残しの塔』を買ってきたので、これから読みます。



ブログをはじめて2年、堅曹さんのことを調べて7年なんて、まだまだという気になりました。

納得のいくまで、速水堅曹が自分のものとなるまで追いかけて、このブログも続けていきます。

お付き合いのほどよろしくお願いいたします。


堅曹さんの名刺

2009-08-24 23:59:18 | 人物

今年5月に小諸で高橋平四郎さんのところに保存してあった堅曹さんの名刺を

見せていただきました。(ブログ←クリック)

多分、明治10年(1877)か、11年(1878)に会ったときのものです。

日本で最初に洋紙がつくられたのが明治7年(1874)だと知り、

まだ作られ始めたばかりの洋紙で名刺を作ったんだな、と思っていました。



ところが先日、山梨県出身で明治時代「投機界の魔王」ともいわれた実業家

雨宮敬次郎(1846~1911)の回顧録 『過去六十年事蹟』 を読んでいたところ、

そこにこんな文章が・・


今度は通弁を連れて行って欧羅巴で作った名刺を出して

「主人に会いたいから会して呉れ」と申し込んだ。


彼は明治9年(1876)、ちょうど堅曹さんがフィラデルフィア万博へ行ったのと同じ時に、

同じルートでその万博に行き、そしてヨーロッパへまわり、イタリアに蚕種を売りにいっている。

それは結局大失敗に終わったけれど、貧乏旅行でとにもかくにも世界一周をして帰ってきた。


帰国後ちょうど明治10年(1877)、上記の引用のように、

横浜の居留地で、それまでは商売しようとおもってもなかなか西洋人に直接会えなかったのに、

世界を見てきて度胸がつき、一張羅のフロックコートを着て金時計をさげ、通訳を連れ、

外国でつくった名刺を出して、直接会いたいと交渉した、ということである。

まあ、なかなか面白い。

この交渉はみごと成立し、商売は大成功します。

当時はこんなものだったのかもしれない。





そこで、名刺です。

堅曹さんの名刺、アメリカで作ってきた物じゃないか、と思った。

アルファベットの名前だけが印刷されているのです。

しかもすごく精緻な筆記体。

日本語の住所や名前は青いインクのはんこで押したものです。

ということは外国でつくってきた名刺の裏に、帰国後

日本語の名前と住所をはんで押して使っていたと考えられないでしょうか。


Cimg8304    Cimg8303




同じ名刺類のなかに新井領一郎の名刺がありました。

彼は明治9年(1876)よりニューヨークに永住しており、時々仕事で帰国していました。

その時使ったものです。

おなじような英文の名前だけの名刺で、日本語の名前は手書きです。

堅曹さんの名刺とアルファベットも紙質も似ています。


堅曹さんはきっと明治9年(1876)にフィラデルフィア万博に行った時、むこうで名刺を作ったのだと思います。

あの名刺はアメリカ製だと確信をもってきました。



小諸で資料を見せていただいた後、高橋平四郎のご子孫からお手紙をいただきました。

その中に次のような一節がありました。

資料の中では名刺などよく保存しておいたものと感心しましたが、

速水堅曹様から曽祖父がこれを頂いたときは新しい時代の波に向い会ったものと

さぞ感激昂奮し、その感激をしっかり残そうとこの名刺を保存していたものと想像され、

私も大変感銘いたしました。


まさにその通り、

たった一枚の名刺でもきっと新しい時代の息吹を感じさせた、そんな時代だったとおもいます。


麦茶

2009-08-21 02:06:13 | 日記・エッセイ・コラム

先日、実家の祖母の13回忌で東京の日暮里に行ったとき、なつかしい麦茶の粒を買いました。


Cimg9539  粒麦


駅近くの小さなお店、お茶屋さん? いや食料品店だったような。

あまりに小さいお店で、すっと通り過ぎてしまいそう。

店先に、すごく艶やかな粒麦が並べてあったので、おもわず足を止めてしまいました。


小さな300g入りが130円、私が買った500g入りが180円。

義妹が買った1kgは280円ぐらいだったかな。

値段はちょっとうろおぼえ。 でも安い!

ふつうのビニール袋にはいっていたので、どこかのメーカーのではなさそう。

もしかして、お店の裏で麦を炒っているとか?


お店の奥へ声をかけると、おばさんが出てきて、

「作り方は知ってる? 湯のみに一杯ぐらいの麦を水から入れて、

沸騰したらすぐ火をとめて、麦をだしてね」と教えてくれました。

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子供のころはいつも麦茶を飲んでいて、10年ぐらい前までは粒麦でよく作っていたけれど、

最近は粒麦が全然売っていなくて、パックのは本当にまずい。

それでとんと作らなくなっていました。


「ためしてガッテン」でインスタントコーヒーを少し入れるとパックでもおいしくなるってやっていたけれど、

それもなんだかな~、とおもっていたところです。



Cimg9534  出来上がった麦茶と


早速作ってみました。

やかん(これも電気ポットばかりで久しぶりの登場です)に水と粒麦をいれて沸騰するのを待ちます。

沸いてきた。

火を止めるといい香りが・・・。

これこれ、と思いながら、ガラスのポットに入れて、まだ、あたたかい麦茶を夕飯のとき飲みました。

冷たいお茶や、煎茶、ほうじ茶とも違うアッサリ感。 あと味のよさ。

おいしい~。なつかしい~。



冷やして、今度はちょっとお砂糖をいれて飲んでみよう。

牛乳をいれて、麦芽飲料みたいな味にして飲むのも好きです。


シャトーカミヤ(神谷傳兵衛記念館)

2009-08-20 02:14:19 | 日記・エッセイ・コラム

もうひと月も前のことになりますが、7月に愛知県豊田市に行く前に、

茨城県牛久市にあるワイナリー「シャトーカミヤ」に行きました。



一昨年豊田市に行って宇都宮三郎の墓参りと遺品を見にいったとき、

宇都宮三郎と電気ブランで有名な神谷傳兵衛が従兄弟同士だと聞きました。


安政3年(1856)、三河国(愛知県)に生まれた神谷傳兵衛は

横浜の外国人居留地のフランスの「フレッレ商会」で働いてワインと出会いました。

自分が病気になったとき、ワインを見舞いにもらい、毎日少しずつ飲むことによって元気になり、

滋養効果を身をもって知ったのです。

そして東京浅草で「みかはや銘酒店」(現、神谷バー)を営みながら、

いつかは本格的なワイン醸造場を日本につくる夢をもちました。

婿の傳蔵をフランスのボルドーで2年間研修させ、帰国後、

牛久の地に「神谷ぶどう園」をつくり、明治36年(1903)醸造場のシャトーカミヤを完成させました。



一度牛久のシャトーカミヤと東京浅草の神谷バーにいかなくては、と思っていました。

神谷バーには行って、電気ブラン飲みました。 結構美味しい!

牛久のシャトーカミヤには「神谷傳兵衛記念館」があります。

これも是非見にいかなくては!



JR牛久駅から歩いて10分ほどです。(私は車で行きましたが)

瀟洒な洋館が見えます。


Cimg8969 シャトーカミヤ正面


当時の醗酵室がそのまま「神谷傳兵衛記念館」になっています。


Cimg8960 醗酵室


これらの建物は2008年に国の重要文化財に指定されました。


すごいいい雰囲気です。


Cimg8961 神谷傳兵衛記念館入り口


ホワイトオークの樽がずらっと並び、建物の中はワインを熟成させるのに最適なカビにおおわれています。


Cimg8963 1階貯蔵庫


Cimg8967 地下貯蔵庫


中はトラス工法でつくられ、建築はフランス式ですが、煉瓦はイギリス積みになっています。

2階が展示室です。


Cimg8965 2階展示室



初期のワイン醸造の道具が展示され、写真もたくさん残っています。

明治期、多くの政治家が視察に訪れています。

事業家でもあり、故郷の三河鉄道の社長もしていたことがあります。

電気ブランだけでなく、ハチぶどう酒も神谷傳兵衛の商品だったのですね。


並々ならぬ情熱と才覚をもった明治の男の神谷傳兵衛の生涯がとてもよくわかりました。


『原三溪翁伝』三校

2009-08-12 21:33:36 | 原三溪市民研究会

少し話が前後しますが、8月8日(土)に原三溪市民研究会に行ってきました。

2年間活動してきたこの会もいよいよ『原三溪翁伝』三校の見直しをして

今月中に原稿を出版社に送って、終わりとなります。

10月には、本が出来上がります。



この日はいつもより早めに集まり、索引の最終チェックと届いたばかりの三校の原稿チェックをしました。

担当別に分けているのでその部分を見直しました。

いったい自分の箇所は何十回読んだんだろう。

担当が最初の部分なので、原三溪の生まれ育った岐阜や美濃地方ゆかりの人の名前がたくさん出てきます。

漢学者、詩人、画家、書家等、いわゆる文人といわれる人々。

歴史上の人物。 その他功績のあった人物。

いままで、全く知らなかった分野の人ばかりで、それこそ1人1人調べました。


軽く200から300人はいたでしょうか。

手書き原稿から人名や事項を拾い出し、正確な文字と読みを確定していく。

これだけですが、かなり苦労しました。

言葉の意味がわからず、人名なのかどうかも判断できず、

何ヶ月も何ヶ月も気になって、つい最近わかったという例があります。



「五磨詰」という言葉が文章の中にありました。


  杏村の詩画を推賞して五磨詰と讃へた位である・・・・・


どう辞書をひいても言葉の意味が出てこない。

修飾していることばのように思えるが、いったい何のことだろう?

詰という言葉が入っているから、囲碁や将棋の世界の言い回しか?

手書きの文字なので、多少字が違うこともあり得る。

いくつか似た文字を当てはめてみたけれど、意味の通じる言葉はでてこない。

そうやって1年もわからずじまい。


それが先日の横浜市開港記念会館での発表に際して、

三溪の祖父にあたる高橋杏村のことを再度調べていたら、

杏村の新居のことを読んだ漢詩の中に、「摩詰」という言葉があり、

読み下し文に「摩詰(まきつ=王維)」と書いてあったのです。


もしかして、とおもい、「王維」をしらべたら、

唐時代の杜甫や李白と並ぶ三代詩人の1人で、南画の租といわれた人物。

そして字(あざな)が「摩詰」となっていました。

「五磨詰」は「王摩詰(おうまきつ)」だったのです!



教養のない自分が情けなくなりました。

手書きゆえ、王が五に見え、磨は摩の間違いでしょう。

これが人名だということが2年近くたって、やっとわかりました。やれやれ。

原稿を訂正して、人名の索引にも追加することができてよかったです。


こんな風に私なりに、出版される本には一つも間違いがあってはならないという思いで一生懸命やりました。

いい本となって出版されることを期待しています。